新選組副長 土方歳三の戦い 鳥羽伏見から函館五稜郭へ

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土方歳三 歴史人物
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慶応4年(1868年)1月3日

旧幕府軍と討幕軍の戦が起こる。

重傷を負った近藤と労咳にむしばまれた沖田は、ともに大坂へ行った。

新選組副長土方歳三の戦いは、これからだ。

土方歳三の生涯、今回は史実を踏まえた私の妄想?になっております。

どうぞお読みください。

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絶対の勝者から賊軍へ

新選組は、伏見奉行所に布陣していた。

そこから目と鼻の先にある御香宮には、薩摩藩がいる。

指揮を執る歳三の横には、永倉新八・原田左之助・井上源三郎・斎藤一。

新選組一次募集で入隊した島田魁や山崎丞の姿もある。

近藤と沖田はいなかったが、

俺たちの新選組がある。薩長の野郎、思う存分たたっ斬ってやるぜ

始めのうちは、一進一退の攻防だった。

歳三は、新選組にお家芸である白兵戦に持ち込もうとするが、次第に押し返される。

薩摩の圧倒的な銃器の前に次々と隊士が犠牲になるだけだった。

永倉、島田、原田たちの命がけの突撃もむなしく、新選組は会津藩とともに淀城まで退却した。

試衛館の友の死

1月5日

淀川堤に薩摩・長州・土佐藩の軍が現れ、新選組と会津藩士が先陣となり、再び激戦となった。

たがいに大砲を撃ち合いますが決着はつかず、歳三はまたも接近戦に持ち込んだ。

敵にとって最も恐れている新選組の斬りこみだ。

たまらずに逃げ出す敵もいたが、銃器の数が違いすぎた。

その上、頼みの綱の淀藩が寝返った

この戦いで山崎丞が重傷を負い、そして井上源三郎が戦死した。

井上は、近藤の兄弟子として沖田・歳三とともに試衛館に暮らした仲間だ。

歳三にとって、弱みを見せられる数少ない人だった。

だが、

「源さんは江戸へ連れて帰ったやれねぇ。すまねぇ」

戦死した井上の首は、近くに寺に葬った

錦の御旗

1月6日

淀から橋本(京都府八幡市)まで引き上げた旧幕府軍。

会津藩・新選組・遊撃隊・京都見廻り組・大垣藩で、防衛線を敷いていたところに薩摩藩が攻撃を仕掛けてきた。

歳三たちは、必死で応戦するが、今度は藤堂藩が旧幕府軍を裏切り、三度窮地に立たされる旧幕府軍。

「沈む泥船には乗らねぇってことだな、情けねぇ」

そう言いながら、歳三の眼の光は鈍っていなかった。

多くの兵を失いながら、旧幕府軍は大坂まで逃れた。

討幕軍がこの戦闘に勝利した裏には、彼らが錦の御旗を掲げたことが大きく影響しています。

旧幕府軍の中から次々を裏切り、寝返りが出たのも、自分たちが賊軍になるのを恐れたのです。

大坂城に入っていた15代将軍徳川慶喜も賊軍の汚名を着せられることを恐れていたといいます。

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江戸へ帰る

傷だらけの旧幕府軍、新選組は大坂城に入った。

歳三は、近藤と沖田に再会、京伏見での戦いを報告する。

「トシ、ご苦労だった。戦況は聞いている」

「近藤さん、すまねぇ。だが次は勝つぜ。あいつらが持ってる新式の銃をそろえりゃあ十分勝ち目はある。近藤さん、これ彼は剣じゃねぇ、銃の時代だ」

「そうか。トシ、おめえはすげえな」

負け戦から帰ってきたにもかかわらず、歳三の生き生きとしたその姿は、もう刀を振るえない近藤にはどう映っていたのだろう。

将軍、逃げる

将軍を大将に、大坂城に籠城して戦えば、討幕軍(この時には官軍となっています)などに負けるわけがない。

討幕軍が攻めあぐねている間に、様子見をしている各藩が背後から討幕軍を襲えば、まだまだ勝機はある。

新選組を含め、大坂城に戻ってきた旧幕府軍の多くが思っていた。

大坂城

大坂城

ところが、大将として軍を率いるはずの慶喜は、会津藩主松平容保までも連れてすでに大坂を逃げ出していた。

戦っている臣下を見捨てて、逃げた。

敵前逃亡をする大将など、あり得ない!

旧幕府軍の士気は急激に衰えてしまった。

新選組は、たまたま取り残されていた海軍の榎本武揚らとともに海路江戸へ向かいました。

江戸へ向かう船の中で、すっかりやせ細ってしまった沖田総司は、それでもみんなの前では笑顔を見せていたといいます。

船中、銃弾を受け重傷だった副長助勤山崎丞が亡くなりました

彼の葬儀は、船の上で行われ、遺体は海へ流されました。

こんな形で、江戸へ帰ることになるとは歳三も思っていなかったでしょう。

盟友との別れ

江戸へ戻ってきた新選組は、「甲陽鎮部隊」と隊名を変え、甲府城を押さえるように命じられた。

甲府城を押さえれば、近藤には100万石与えるという約束があったといいます。

実際は、薩長にとって最も恨みの深い新選組を江戸に置いておきたくなかったために、体よく追い出されたのだと考えられています。

ちなみに、この策を考え出したのは、勝海舟だといわれています。

だが、近藤は

「トシ、大名になれるぞ」

と喜んでいた。

「俺ぁ、薩摩と戦えられればそれでいい」

甲府への途中、新選組は日野に立ち寄った。

歳三、最後の帰郷

歳三にとっても、近藤にとっても懐かしい日野。

沖田にとっても出稽古に来た懐かしい場所だった。

歳三たちは、佐藤彦五郎宅で休息をとった。

武勇伝を聞きたがる皆に愛想よく談笑する近藤。

だが、歳三はあまり笑顔も見せず、村人たちの歳三に対する印象はよくなかった。

「姉さん」

歳三は、別室で姉のぶに挨拶をした。

久しぶりの姉弟の会話。

なんということもないその時間は、歳三とのぶにとって最後の貴重な時となった。

すでに一人で歩くこともつらくなっていた沖田は、歳三に無理を言ってここまで付いてきていた。

しかし、これ以上同道はどう考えても無理だった。

「総司、おめえはここまでだ。あとは俺と近藤さんに任せろ」

「土方さん、私はすぐに良くなりますから、きっと待っていてくださいよ。土方さんはすぐに喧嘩するんだから。私がいなくちゃ駄目なんだ。土方さん、きっとですよ」

そう言って、総司はいつもの笑顔を見せた。

永倉・原田との別れ

官軍(新政府軍)は、一足早く甲府城を押さえていた。

それを知った甲陽鎮部隊の臨時兵は勝ち目がないと察し、次々に脱走していく。

そこで歳三は、援軍を求めるために単身江戸へ戻ったが、甲府勝沼の戦いは歳三のいない間にあっけなく負けた。

歳三と近藤、そしてほかの新選組隊士もバラバラに江戸へ戻っていった。

KoshuKatsunuma.jpg

錦絵『勝沼駅近藤勇驍勇之図』 東京江戸美術館

慶応4年3月11日

歳三と近藤は、江戸神田の医学所で永倉・原田たちと話し合いを行った。

会津へ向かい、松平容保の下で戦おうという永倉たちに、近藤は同意しない。

拙者はさようなわたくしの決議には加盟いたさぬ。ただし拙者の家臣となって働くというならば同意もいたそう        『新撰組顛末記』より

近藤は、永倉たちを家臣といった。

”同志”ではなく”家臣”

「俺たちは、あんたの家臣じゃない」

永倉・原田たちは憤怒の表情で席を立った。

歳三は何も言わない。

(あいつらの気持ちはよくわかってるさ。だが俺は最後まで近藤さんと一緒だ)

新選組は、歳三と近藤だけになった。

近藤との別れ

4月1日

新選組は、下総流山にいた。

旧幕府軍の脱走者なども集まり、総数227名の大所帯だ。

歳三は、味噌屋の長岡屋に本陣をおき、軍事演習を始めた。

永倉たちとの別れ以来意気消沈していた近藤は、この盛大さに以前の新選組を重ねたようだった。

すっかり元気になり局長としての威厳も見せ、新しい隊士からも慕われていた。

(やはり近藤さんだ。根っからの大将なんだな。だが勢いがなくなると駄目だ。俺ぁそんな近藤さん見たくねぇ。俺が近藤さんを大将にさせ続けてやる)

歳三にとって近藤は、自分の能力を最大限に生かせるかけがえのない存在だった。

そしてそれは、歳三の夢であり、その先に近藤の夢もあると思っていた

「俺は、近藤さんあっての俺さ」

ファイル:KondoIsami-Jinyaato.jpg

千葉県流山市にある近藤勇陣屋跡 写真提供:双夏葉

4月3日

新選組の長岡屋本陣を新政府軍に包囲される。

あまりの大人数のため、敵に知られてしまったのだ。

この時本陣には、歳三と近藤、野村利三郎、村上三郎、近藤芳助の5名しかいなかった。

大部分の隊士は、山野で軍事練習をしていたためである。

薩摩藩士有馬藤太が使者として訪れ、歳三が応対した。

「江戸表からの脱走兵や農民一揆の取り締まりのために出張したもので、官軍には何ら害をもたらすものではない」と答えると、有馬は、武器の提出を命じた。

近藤は、すでに切腹を覚悟していた。

頑としてそれを許さない歳三。

「近藤さん、ここは俺に任せてくれ。近藤さんは、新選組の局長としてまだやるべきことがある。今は腹を切るときではない」

「あくまでも大久保大和で通し、流山の鎮護を目的とする部隊だと主張するんだ」

江戸へ帰って以来偽名として使用していた大久保大和として出頭するべきだという歳三。

「俺が必ず近藤さんを助ける。だから今は腹を切るな」

歳三の言葉に従った近藤は、野村利三郎と近藤芳助を供として、新政府軍に出頭した。

近藤奪還に失敗

近藤を出頭させた後、歳三はひそかに江戸へ帰り、勝海舟の下へ急いだ。

近藤の救出を頼むためだ。

しかし勝はうなずかなかった。

徳川家を守るため、江戸の町を守るためにそれはできなかったのだ。

歳三は、勝が書いた近藤の助命嘆願の書状を隊士の相馬主計に託した

だがそのころ、新政府軍では大久保大和と名乗る武士が近藤勇だということはすでに承知していた。

助命嘆願の書状を新政府軍に届けた相馬は、すぐさま身柄を拘束された。

歳三、会津へ行く

4月11日

江戸城は無血開城され、江戸での新政府軍との戦闘は回避された。

しかしそれに反対する主戦派の旧幕府軍は、二千名あまりは市川宿に集合していた。

近藤の身分がばれたことをまだ知らない歳三は、その旧幕府軍と合流する。

従っているのは、島田魁ほか6名の新選組隊士だった。

翌12日

旧幕府軍の会議が行われ、元幕府歩兵奉行大鳥圭介が総督、歳三が参謀に選出された。

宇都宮城攻防戦

4月19日早朝

歳三率いる先鋒軍は、宇都宮城に向かって進軍を開始する。

新選組隊士6名も加わった桑名士官隊を歳三が指揮した。

先鋒軍は歳三の下で猛攻を繰り広げ、夕刻とうとう宇都宮城が陥落した。

鳥羽伏見の戦いで負けて以来の勝利だった。

この激戦の中歳三は、敵の激しい抵抗に戦意を失い退却を始めた兵士一人を斬り捨てています。

血刀を掲げ「退くものは斬る」と叫ぶ歳三は、まさに新選組「鬼の副長」の顔でした。

これにより、戦場に踏みとどまった兵士を鼓舞し宇都宮城内へ侵入することができたといわれています。

歳三は、このあとで斬り捨てた兵士の弔いを知り合いに頼んでいます。

歳三、負傷する

4月23日

宇都宮城へ入った旧幕府軍への新政府軍の攻撃が始まった。

思っていたより早かった敵襲に旧幕府軍は遅れを取る。

歳三は、桑名士官隊を率い大手門付近で戦っていたが、その途中足の指に銃弾を受けた。

同じころ、先鋒軍隊長の会津藩士秋月登之介も負傷し、歳三とともに日光の手前今市まで護送された。

指揮官二人が抜けたことも大きく影響したのだろうか。

宇都宮城は新政府軍に奪回され、旧幕府軍は会津に向かった。

近藤、斬首される

歳三は、知る由もなかったが、江戸では近藤が板橋刑場で斬首された。

切腹は許されず、斬首。

武士としてではなく、ただの罪人として処刑されたのだ。

ここに土方の願い・夢は破れ去った。

慶応4年(1868年)4月25日のことだった。

歳三が近藤斬首の事実を知ったのは、負傷した足の療養のため会津七日町の清水屋に滞在しているときだった。

歳三は、おのれの考えの浅はかさを悔やんだ。

「あの時切腹させてやればよかった。近藤さん、すまねぇ。」

そして誓った。

「俺は最後まで戦う。たとえすべての人間が新政府軍に降ろうと、俺だけは絶対に降らねえ。近藤さん、見ててくれ」

次の朝、歳三の眼は真っ赤に腫れていた。

歳三、近藤の墓を建てる

歳三は、会津の愛宕山の天寧寺に近藤の墓を建てた

おそらくは、会津藩主松平容保に近藤の墓建立の許可をいただき、歳三が建てたものと考えられる。

近藤の墓を建てているとき、毎日のように武士が愛宕山を登っていたという話が伝わっているらしいが、それは歳三だったのだろうか。

この墓に刻まれが近藤の戒名は

「貫天院殿純忠誠義大居士」

現在も天寧寺に残り、そのそばには土方歳三の供養塔も建てられている。

近藤勇の墓(会津若松市天寧寺) Rikita

沖田総司の最期

近藤の死から約一ヶ月後、労咳を患っていた沖田総司が病死した

江戸千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅の離れで療養していた沖田だったが、近藤・歳三と別れ、たった一人の死だった。

近藤の死を、沖田は最期まで知らなかったという。

剣の天才といわれ、多くの浪士を斬った沖田総司は、戦場ではなく畳の上で逝った。

享年25歳。

慶応4年5月30日

「やっぱり土方さんはすごいや。私の分まで戦ってくださいね」

イケメン侍

会津戦争 母成峠(ぼなり峠)の戦い

傷の癒えた歳三は、ようやく戦線復帰する。

しかしすでに東北各地では、新政府軍の圧倒的な火器銃器の前になすすべもなく降服する藩が出ていた。

新政府軍は、会津に向け総攻撃を仕掛けるべく準備を進めている。

8月21日

歳三たち新選組は、大鳥圭介、秋月登之介らとともに母成峠を守っていた。

けがをした際、新選組の隊長は斎藤一にゆだねていたが、まだ満足に動けない歳三は、そのまま斎藤を新選組隊長としている。

歳三は、よく斥候(せっこう)を使った。

戦う前に敵を知るため、いかにすれば勝つかを見極めるため。

それは会津でも変わりない。

斥候を使った結果「母成峠は持ちこたえられない」と判断した。

歳三は、猪苗代城での戦闘に備えるため、陣を猪苗代へ送るよう会津藩の別に陣に手紙を書いている。

しかしそれは実行されず、歳三は撤退を余儀なくされる。

母成峠 戊辰戦争

新選組は、会津若松城の滝沢本陣へ向かうが、すでにそこにも新政府軍が攻撃を始めていた。

会津をあきらめた歳三は、仙台へ行くことにする。

だが斎藤一は拒否した。

「俺は会津藩とともに戦う。新選組は会津とともにあるべきだ」

歳三はそれを許し、斎藤は新選組隊士数名と会津に残った。

歳三、蝦夷へ

旧幕府軍とともに仙台へ入った歳三は、旧幕府海軍副総裁榎本武揚と再会する

榎本は、新政府軍の艦隊引き渡しを拒否し、仙台へ来ていたのだ。

9月3日

歳三は、榎本とともに奥羽越列藩会議に出席、そこで榎本に同盟軍の総督に推薦される。

動揺する参加者たちを前に歳三は言った。

「総督に就任することは構わない。だがそれには条件がある。大軍を指揮するには、軍令を厳しくしなくてはならない。もしそれに背いたものは、たとえ大藩の家老と言えど、この歳三が三尺の剣にかけて斬ってしまわなくてはなりません。それだけの処罰ができる生殺与奪の権限を与えてもらいたい」

新選組副長として、鉄の規律により多くのものが粛清されたことを知る奥羽越列藩の人々は、沈黙した。

日本刀

(ふん、覚悟のできねえ奴らだ。これじゃあ勝てねえ)

歳三と榎本は、会議の場を出た。

その後、仙台藩は新政府軍に降伏。

9月22日には、会津藩が開城降伏、25日には長岡藩、庄内藩も降伏し、奥羽越列藩同盟は、瓦解した。

本州での戦いはもう不可能になった。

歳三の本意

歳三は、榎本武揚とともに蝦夷地にわたる決意をする。

なぜそこまでして歳三は戦い続けるのか。

仙台に滞在していた時、歳三は松本良順に再会している。

歳三は、松本に言った。

「この戦いで300年にも及ぼうという徳川幕府が倒されたというのに、大して抵抗もせず、薩長にしっぽを振っている奴がいる。徳川の恩義を忘れて知らん顔をしている奴がいる。情けない話だ。だから俺は戦うんです。勝てるとは思ってない」

「松本先生は、これからの世に必要な人物です。新政府軍もバカばかりじゃないはずだ。もし一度は捕縛されても先生のことが分かれば、危害を加えるようなことはありません。どうか江戸へ引き返してください」

「土方さん、あなたはどうするんです?」

「私のような無能な奴は戦うだけです」

そういって笑った。

(俺があいつらにつかまったらなぶり殺しになるだけだ、そんなことは、まっぴらごめんだね)

10月12日

歳三は、榎本艦隊に乗船して、蝦夷へ向かった。

蝦夷地上陸

慶応4年改め明治元年(1868年)10月21日

歳三は、蝦夷地鷲ノ木浜へ上陸した。

榎本率いる旧幕府軍は、軍議を開き箱館の五稜郭を目指すこととなった。

この時、歳三たち幹部にはそれぞれフランス軍人が付いていました。

フランス軍人は、幕府が招いた使節団の一員でしたが、旧幕府軍を見捨てることができず、祖国の帰国命令を無視してまでこの戦いに参加していました。

彼らが歳三たち旧幕府軍の何を見て何を感じてともに戦う選択をしたのか。

その後も彼らは旧幕府軍に助言をし、戦い、倒れてゆく幕府に殉じようとした侍を見続けます。

五稜郭占領

10月26日

旧幕府軍は、若干の戦闘を制しただけで五稜郭を手に入れた。

新政府軍、箱館府は、旧幕府軍には勝てないと判断し、五稜郭の放棄を決めたからだ。

五稜郭は、元治元年(1864年)に出来上がったばかりの西洋式城郭で、旧幕府軍の新天地の本陣としては最適だった。

あとは、蝦夷地唯一の藩、松前藩を攻略するだけだった。

五稜郭 戊辰戦争 新選組

箱館 五稜郭

松前藩攻略

松前征伐の大将は、歳三が選ばれた。

歳三は、彰義隊・額兵隊・守衛真撰組など700名あまりを率いて松前を攻撃した。

松前藩にも勇猛果敢な藩士はいたが、東北各地で実戦を積んできた旧幕府軍との力の差は歴然だった。

11月6日

歳三たちは、松前城を占領、入城した。

間を置かず、旧幕府軍は江差の制圧にもかかる。

松前城攻略の勢いのまま、江差の攻略も成功するが、江差沖に停泊していた旧幕府軍海軍最強の軍艦海陽が座礁、沈没してしまった。

これは、旧幕府軍の制海権を揺るがす大きな事件だった。

蝦夷政府設立

江刺を攻略したことで、蝦夷地を事実上平定した旧幕府軍は、蝦夷政府を設立した。

12月15日

榎本は、蝦夷政府の閣僚を、ヨーロッパの政治体制に見習い、選挙で決める。

その結果、歳三は陸軍奉行並み箱館市中取り締まり役となった。

蝦夷政府の政権を確立させた榎本は、明治政府に蝦夷地の下賜(天皇などの身分の高い人が身分の低い人に物を与えること)を嘆願書を出しています。

そうすれば、徳川の旧家臣を呼び寄せ、原野を開拓し、北方の警備にあたること。

また、徳川の血筋のものを遣わせてもらえばこれからは朝廷と徳川のために忠勤すると書いています。

榎本が目指した蝦夷政府の目的は、徳川家の存続と家臣たちの生活を守ることにあったのです。

 

歳三 戦い続ける

歳三は、陸軍奉行並みとともに箱館市中取り締まり役を拝命している。

つまり、箱館市街の治安維持を任されたのだ。

新選組の京での隊務が懐かしい響きだ。

箱館奉行所

箱館奉行所

といっても、京の時のように歳三が自ら市中の巡察に回ってはいない。

今も新選組隊士の相馬主計、安富才輔たちが治安維持にあたっていたようだ。

(相馬主計は、近藤の助命嘆願書を持って行ったときに新政府軍につかまったが、その後釈放されている)

歳三の箱館での暮らし

箱館での歳三は、女を近づけることもなく静かに暮らしていた。

かつては鬼と呼ばれ、多くの隊士を処分し、敵にも味方にも恐れられた歳三に、今では部下たちが母親を慕うように集まってくる。

温厚になり、時には冗談も言う。

ずっと支えてきた近藤はもういない、新選組も歳三が直接指揮する立場にはない。

そんな環境が、歳三から新選組副長という鎧を脱がせたのかもしれない。

歳三が変わったのではなく、歳三本来の性格が出てきたとも考えられる。

もしかしたらこの期間が歳三にとって、一番充実していたのではないだろうか。

「ただ戦う。それだけのために考え、生きる。俺は俺らしく死ぬために生きてやる」

新選組

歳三、船を乗っ取る?!

旧幕府軍最強の軍艦海陽を失ったことは、蝦夷政府の戦力の大幅なダウンを意味していた。

新政府との決戦には、海軍の力が大きく影響すると考えている榎本にとっては大金問題だった。

「あの甲鉄艦(ストーンウォール)が手に入れば」

甲鉄艦とは、徳川幕府がアメリカから購入していた最新鋭艦で、船体を甲鉄で装甲し、アームストロング砲やガットリング砲を多く搭載していた。

「欲しければ、奪えばいい」

歳三の一言に、軍艦回天の艦長甲賀源吾がひらめいた。

「甲鉄艦を乗っ取ろう」

蝦夷政府の持つ軍艦を使って、ひそかに甲鉄艦に接近。

接舷して、兵を乗り込ませ、甲鉄艦内を制圧、そのまま艦を操縦して箱館まで乗っていこうという作戦だ。

この戦法は、アボルダージュ・ボールディングといい、欧州にはすでに存在する軍事作戦の一つだったが、蝦夷政府の誰も経験したことのない途方もない作戦だった。

「面白れぇ」

歳三の心は踊った。

明治2年(1869年)3月25日

蝦夷政府に残っている軍艦回天には歳三以下相馬主計、野村利三郎ら新選組隊士に加え、総勢50名ほどの斬り込み隊が乗り込んだ。

軍艦高雄と伴龍にもそれぞれ斬り込み隊が乗船、甲鉄艦が停泊している南部宮古湾(岩手県宮古市)へ向かった。

だが途中嵐に遭い、伴龍は行方が分からなくなる。

かろうじて宮古湾についた2隻だったが、運悪く高雄の蒸気機関が故障したため、作戦は回天のみで実行した

早朝まだ暗い中、アメリカ国旗を掲げて静かに甲鉄艦に近づく回天。

甲鉄艦に接舷する直前、アメリカ国旗を降ろし、日の丸を上げた。

甲鉄艦の甲板にいた数人の驚嘆している様子が見える。

回天は接舷すると斬り込み隊を突入させた。

File:Kaiten vs Kotetu.jpg

回天対甲鉄

ところが、甲鉄艦の甲板は回天より3メートル以上も低かったのだ

これでは下手をすると骨折する。

斬り込み隊が一瞬戸惑った。

この間に甲鉄艦の乗組員が戦闘態勢を取りつつあった。

「失敗だ」

そう思ったとき、

「一番乗りだ!」

そう叫んで野村利三郎が飛び降りた。

それを合図に斬り込み隊が次々と甲鉄艦へ飛び降りる。

野村たちは鬼神のような働きをしている。

歳三も飛び降りようとしたその時、

「ガッ、ガッ、ガッ、ガッ!」

ガットリング砲が火を噴いた。

1分間に180発の弾が飛び出す機関銃だ。

このままでは、仲間を犬死させるだけだ。

退却の命令を出そうとした甲賀源吾が眉間を撃ち抜かれ即死した。

「退けっ、退けぇ!」

歳三は退却命令を出した。

野村利三郎ほか多くの犠牲を出した甲鉄艦奪取作戦は、完全な失敗だった。

無敗!二股口の戦い

蝦夷地の雪が解けると、新政府軍はいよいよ攻撃を始めた。

蝦夷地に上陸してきた新政府軍を迎え撃つため、歳三は、敵が進行してくる最重要地点の一つ二股口に陣を張る

二股口は、険しい崖のような山に挟まれた場所で、新政府軍は山と山に挟まれた一本道を進むしかない。

歳三は、その道を囲むように塹壕や胸壁を張り巡らせた。

4月13日午後3時ごろ

新政府軍が二股口に現れた。

歳三が作らせた砦を確認しながらも、新政府軍は数に任せて強行突破を図る。

その瞬間、すさまじい爆音がとどろいた。

歳三の部隊が雨のように銃弾を浴びせる。

激しい銃撃戦が始まる。

激しい銃撃で銃身は熱くて持てないほどになる。

谷川から水をくませて、銃身を冷やしながら撃つ。

使用した銃弾は3万5千発。

以後16時間にも及ぶ戦闘の末、新政府軍は後退した。

新政府軍は体勢を立て直し、増援をして再び歳三に挑んだ。

4月23日夕方

すさまじい攻撃を加え、新政府軍は箱館へ進軍しようとする。

歳三は巧みな指揮のもと、二昼夜にわたりその進軍を完全に阻止する。

難攻不落の二股口。

歳三の無敗伝説は味方の士気を高めてゆく。

ファイル:北斗市二股台場(台場山遺跡)入口.jpg

北海道北斗市に所在する箱館戦争の陣地遺構。二股台場として知られる明治2年の戦闘で旧幕府軍によって使用された陣地遺構。 写真提供:石井純平

歳三、撤退する

新政府軍の進行を阻止し続ける歳三の隊だったが、ほかの陣では負け続けていた。

松前は制圧され、もう一つの防衛線である木古内も破られている。

箱館戦争

勝っているのは、歳三の隊が守る二股口の陣だけだった。

ほかの防衛線が突破されてしまえば、二股口だけを死守する意味がない。

いずれ新政府軍の挟み撃ちに遭うからだ。

歳三は、勝ちながら撤退を余儀なくされた。

「蝦夷政府はもう終わりだ」

歳三 最期の戦い

二股口から五稜郭に帰ってきた歳三は、小姓の市村鉄之助を呼んだ。

市村鉄之助は、慶応3年の新選組隊士募集の時に兄と一緒に入隊した少年です。

兄は、鳥羽伏見の戦いの後、隊を抜けていますが、市村は残りました。

その後、歳三の身の回りの世話をする小姓として蝦夷まで従っていました。

歳三は、自室に入ってきた市村に語りかける。

「これは大事な用事だ。よく聞け」

歳三は、日野の佐藤彦五郎宅へ戦況を伝えるように市村に命じた。

「いやです!私は最後まで隊長と一緒にいます。その役はほかの人に命じてください」

歳三は怒鳴った。

「これは隊命だ。従わないというなら斬る」

副長時代の顔で言った。

市村が渋々承諾すると、歳三は優しい笑顔を見せた。

佐藤彦五郎にあてた手紙と50両、形見(歳三が写った写真と辞世の句)を持たせて送り出した。

〈土方歳三の辞世の句といわれている句〉

「よしや身は蝦夷の島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」 

「たとえ身は蝦夷の島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらん」 

「鉾(ほこ)とりて月見るごとにおもふ哉(かな)あすはかばねの上に照かと」

最後の句は最近になって発見されたものです。

正直私は、上の二つの句は、歳三らしくないなと思っていました。

「東の君って誰?」

「まさか将軍慶喜?」

「土方さん、そんなに将軍が大切やったの?なら近藤さんのことを詠んだほうがいいよ」

って感じで腑に落ちていませんでした。

ところが、新しく発見された句。

死を覚悟した、でもやり切った歳三の想いが伝わってきます。

なので、私はこの句が辞世の句だと思っています。

一本木関門

蝦夷地の大半を制圧した新政府軍は、5月11日をもって箱館総攻撃を仕掛けると決定した。

未明、新政府軍の艦隊から砲撃が始まった。

それを合図に箱館山の背後から新政府軍が奇襲をかける。

箱館市街に新政府軍がなだれ込み蝦夷政府との白兵戦が始まる。

この時新選組は弁天台場を守っていた。

箱館 新選組

弁天台場は陸と海からの攻撃にさらされ、孤立し、全滅の危機に瀕していた。

歳三は、弁天台場を救出するため、自ら出陣した。

従う者は、新選組隊士安富才輔・立川主税・沢忠輔らのほか、額兵隊・伝習士官隊ら50名ほど。

弁天台場へ続く一本木関門からその先の激戦地へ進もうとしたとき、箱館湾で伴龍が撃った大砲が、敵の軍艦に命中、撃沈させた。

歳三は叫んだ。

「この機を逃すな。突撃せよ!退くものは斬る!」

その直後、一発の銃声がとどろいた。

「近藤さん、総司。俺はやった」

沢忠輔が駆け寄った時、歳三はすでに事切れていた。

明治2年(1869年)5月11日、土方歳三享年35歳。

歳三が戦死して7日後、蝦夷政府は降伏した。

蝦夷政府の幹部で戦死したのは土方歳三ただ一人だった。

土方歳三の遺体は伊庭八郎らとともに五稜郭に埋葬されたといわれています。

ですが、はっきりした場所は特定されていません。

 

土方歳三ゆかりの場所

今回の記事に登場した歳三ゆかりの場所はこちらです。

終わりに

最後まで読んでいただきありがとうございます。

今回の土方歳三は、正直あまりにも思い入れがありすぎて暴走気味の記事になりました。

でもそれはそれで面白いかなと勝手に考えています。

気に入って読んでいただけていればうれしいです。

 


歴史人物新選組
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小春

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