新選組局長 近藤勇 誠を貫いた男の生涯を追う

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歴史人物
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幕末の動乱期、活躍した期間はわずか5年ほどだったにもかかわらず、未だに鮮烈な印象を与え続ける新選組。

最盛期には300名を超える隊士を抱えていた新選組のトップに立ち続けたのが近藤勇です。

農家出身の近藤が、なぜ新選組の局長となったのか、彼は何を目指していたのか。

今回は、近藤勇の生涯を追いながら、私なりに近藤勇という人物に迫ってみたいと思います。

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近藤勇の生い立ち

天保5年(1834年)

近藤は、武州多摩上石原村(現東京都調布市野水)の百姓・宮川久次郎の三男として生まれました。

幼名は勝五郎。

百姓と言えど、宮川家は比較的裕福な家庭でした。

勝五郎の生まれた多摩では、百姓でも剣術を学ぶ者が多く、勝五郎も幼いころから剣術に親しんでいました。

嘉永元年(1848年)

勝五郎は、江戸牛込(現東京都新宿区)にあった天然理心流の剣術道場・近藤周斎の「試衛館」に入門します。

天然理心流の木刀

勝五郎の武勇伝

この時期のことです。

父が留守にしていた勝五郎の自宅に賊が侵入してきました。

気づいた勝五郎たち兄弟。

剣術を共に学んでいた兄は、日ごろの修練の腕を試そうと、今にも賊に向かおうとします。

しかし勝五郎は

「賊は、押し入ったばかりの時は、気が張っています。ことを終えて立ち去るときの方が気が緩み、隙ができるはずですから、その時に襲うべきです」

と言って止めたのです。

賊が盗品をまとめて逃げようとしたとき、勝五郎は兄とともに襲い掛かりました。

驚いた賊が盗品を捨てて逃げ去ってしまうと、兄が後を追いかけようとします。

しかしここでも勝五郎は、

「窮鼠猫を噛むということがあります。深追いはするべきではありません」

と兄を止めました。

おかげで、誰も怪我することなく、無事だったと言います。

この話が師匠近藤周斎の耳に入ったことがきっかけかどうかはわかりませんが、その後勝五郎は、近藤周斎の養子となります。

勝五郎は、周斎の実家・嶋崎家の姓をもらって嶋崎勝太、のちに近藤勝太、そしてと改めます。

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試衛館時代の近藤勇

近藤の剣は、天賦の才にも恵まれどんどんと上達します。

「試衛館」道場の跡取りとして、日々の修業を積むとともに、万延元年(1860年)には、”つね”という女性と結婚しました。

つねは、御三卿・清水徳川家の家臣・松井八十五郎の長女で、しっかりした女性だったようです。

近藤の女性論⁉

近藤は、常々このようなことを言っていたそうです。

「妻は器量が良い女性をめとるべきではない、器量が良いと日ごろの行動が派手になってしまう。それに比べ器量の悪い女性は、貞淑だ。私は貞淑な女性を妻にしたい」

今の時代なら、明らかなセクハラ、いや人格否定につながる問題発言です!

でも江戸時代の倫理観・女性観などを考えると、これも仕方のない発言だったのでしょう。

ビジュアルに自信のない私は、喜ぶべきか悲しむべきかわかりませんが。

でもでも、新選組時代の近藤勇、花街の太夫らを妾として、あちこちに囲っていますよ!

花魁 イメージ

「妻は顔じゃない、でも愛人は美人がいい」ということでしょうか。

男って、男って…!

近藤のもとに集まる若者たち

女性から見た近藤とは違い、近藤は剣術を通じた仲間には恵まれていました。

後の新選組結成メンバーである、土方歳三・沖田総司・井上源三郎・永倉新八・山南敬助・藤堂平助・原田左之助・斎藤一は、試衛館時代からの仲間です。

沖田・井上は、もともと試衛館の内弟子、土方も天然理心流の門人でしたが、あとの6人は他流です。

なのになぜか、試衛館に居座り続けています。(斎藤は、時々顔を出す程度だったらしい)つまり居候。

なぜ彼らが試衛館にいたのか。

それは、他流試合対策の1つでもあったようです。

天然理心流は、気組(気合)を重んじる実践型の剣術だったため、洗練された流派との他流試合は、若干苦手だったようです。そのため、永倉や山南らが重宝されていたという話もあります

 

でもやはり近藤勇の人柄によるところが大きいのではないでしょうか。

何事にもおおらかで優しく、いざとなると頼りになる、そして何とも言えない人を引き付ける魅力が、近藤にはあったのではないでしょうか。

でなければ、新選組隊士たちをあれだけまとめることはできなかったと思います。

すでに世情は、幕府の対外政策に対する批判や尊王攘夷思想で乱れています。

彼らも試衛館でいろいろな議論をしていたかもしれません。

近藤、上洛する

文久3年(1863年)1月

幕府は、清河八郎の献策を容れ、徳川家茂の上洛警護のため「浪士組」の結成を決め、浪士の募集を始めました。

試衛館でもこの情報を受けて、さっそく応募することになりました。

理由あって、江戸を離れていた斎藤一を除く試衛館メンバー8人が参加を決めました。

  • 近藤勇
  • 土方歳三
  • 沖田総司
  • 井上源三郎
  • 永倉新八
  • 山南敬助
  • 藤堂平助
  • 原田左之助

「将軍をお守りする」という名誉ある仕事に向かい、彼らは意気揚々を京の都を目指しました。

近藤勇と芹沢鴨の因縁

近藤らが参加した「浪士組」一行は、中山道を京へ向かいました。

その道中、近藤は取締付・池田徳太郎の下で、道中の宿割りの役をこなしていました。

ところが、本庄宿(現・埼玉県本庄市)で宿の手配に漏れがあったのです。

宿に入れなくなったのは、水戸浪士・芹沢鴨

芹沢は、「宿がなければ、野宿でもするか」と言わんばかりに、宿場の中で大きなかがり火(焚火)を始めたのです。

池田と近藤は、ひたすら芹沢に詫び、何とか収まったそうです。

近藤は、おそらくこの事件について何も言わなかったと思いますが、心中は穏やかではなかったと思います。

芹沢鴨という人物の豪快さ、凶暴さを心に焼き付けたのではないでしょうか。

浪士組、京へ

江戸を発ってから、2週間余りの文久3年(1863年)2月23日

浪士組は、京へ入りました。

京都 三条大橋

一行は、京の西・壬生村の郷士邸や寺社に分宿しました。

近藤ら試衛館メンバーは、八木源之丞邸に滞在することになります。

どんな経緯なのか、あの芹沢鴨が率いる一派も同宿でした。

八木邸 屯所跡

浪士組が京に着いたその夜、壬生新徳寺において、清河八郎は、浪士組結成の真の目的を論じます。

「浪士組は尊王攘夷の志をもって、朝廷に仕えることである。この旨を朝廷に建白し、攘夷を決行すべく行動するものである」

つまり、将軍警護という初めの目的は捨てて、朝廷をお助けするのだ!という風なことを、朗々と語ったのです。

京に着いたばかりの浪士は、何が何だかわからないまま、建白書に署名します。

近藤らもいったんは、署名しますが、なんだか腑に落ちない…。

八木邸に戻った近藤たちは、おそらくみんなで頭を突っつき合わせて話し合ったことでしょう。
「結局どういうことだ?」
「将軍をお守りするんじゃねえのか?」
「朝廷に建白するってことは、俺らは帝の兵になるのか?」
「じゃあ、将軍は誰が守るんだ⁉」
「待て、このことは、幕府は知ってたのか?」
「こりゃあ、裏切りじゃねえのか」
「そうだ、俺らは将軍をお守りするために京へ来たんだ!」
「あの清河って野郎、とんでもねぇ食わせ者だ!」

 

こんな話になったかどうかわかりませんが、近藤たちは、清河に従わないことを決めたのです。

清河の裏切りを知った幕府側もすぐに手を打ち、即刻江戸へ戻るように命令しました。

翌日の24日、江戸へ戻り、攘夷を決行するという清河に対し、近藤らは異議を唱えました。

近藤らは、最初の目的通り、京に残って将軍の警護をすると言ったのです。

これにより、近藤を始め24名が京に残留することになりました。

残留組の中には、なぜかあの芹沢鴨一派もいたのです。

壬生浪士組から新選組へ

壬生に残った近藤たちは、将軍警護とともに京の警護をすべく、京都守護職会津藩に嘆願書を提出しました。

この時期、京の町は過激な攘夷志士が幕臣や開国論者を暗殺するなど、治安が悪化していました。

そこで会津藩は、近藤らの嘆願を受け、京都の治安維持と将軍警護を目的とした部隊を結成させることにします。

同年3月2日

会津藩お預かり・壬生浪士組が結成されました。

結成メンバーは、近藤勇をはじめとする試衛館メンバーと芹沢鴨一派(新見錦・平間重助・平山五郎・野口健司)のほか、殿内義雄、根岸友山、粕谷新五郎ら24名(諸説あり)

一癖も二癖もある浪士たちが集まっていたため、隊の運営はスムーズにいきません。

隊の中心となりつつあった近藤らは、不穏な動きをしていた殿内を暗殺します。

その後、根岸・粕谷が脱退し、壬生浪士組は近藤一派と芹沢一派の二派閥の体制となり、

  • 筆頭局長・芹沢鴨
  • 局長・近藤勇
  • 局長・新見錦
  • 副長・土方歳三
  • 副長・山南敬助

このように派閥の釣り合いを取った幹部体制が決まります。

おそらく土方辺りが中心となって、隊の法度も決められます。

近藤は、試衛館道場主から、壬生浪士組の局長となりました。

八・一八の政変

徳川家茂が上洛すると、壬生浪士組は将軍警護のために大坂へ下ったり、市中の警護などもしています。

しかし壬生浪士組の隊務は、日々の市中見回りが中心でした。

彼らが京の町を見廻るようになって、攘夷志士の横行も少しずつ減ってきます。

しかし、これといった大きな手柄もありません。

近藤としては、もっと自分の働ける場所を!という思いでうずうずしていた時期だったと思います。

そんな彼に、大きな仕事がやってきます。

文久3年8月18日

過激な攘夷派の急先鋒として幕府に目をつけられていた長州藩を追放すべく、会津藩・薩摩藩などがクーデターを起こします。

京都御所から長州藩を締め出したのです。

壬生浪士組は、京都御所の御花畑門の警護を命じられました。

意気揚々と警護に向かった壬生浪士組ですが、クーデターはあっさりと成功し、彼らの出番はあまりありません。

長州勢の残党を捕まえるために出動したものの、近藤の思うような活躍はできませんでした。

しかし、この働きにより、会津藩より「新選組」という隊名を下賜されます。

農家出身の近藤が、会津藩直々に隊の名前をいただけたのです。

近藤の感激は、私たちには想像できないほどのものだったでしょう。

芹沢暗殺

新選組となってからしばらくたったころ、局長の芹沢鴨が近藤の命を受けた土方らに斬殺されます。

泥酔状態の芹沢はめった刺しにされ、一緒に寝ていた妾のお梅は皮一枚を残して首が落とされていました。

別の部屋では、芹沢派の平山五郎も斬殺されていました。

芹沢らの墓がある壬生寺

これより数日前には、芹沢の片腕とも言われた新見錦が、法度違反により切腹させられています。

芹沢の横暴さや京の町での乱暴狼藉は、会津藩にも伝わり、問題視されていました。

一説には、会津藩からの密命による暗殺決行だったともいわれています。

近藤にとっても、芹沢という脅威を取り除きたいという気持ちは大きかったと思います。

芹沢暗殺の翌日、大々的な隊葬で、近藤は芹沢を悼む言葉を述べていますが、途中で涙声になったそうです。
いったいどんな意味のある涙だったのでしょうか。

 

近藤とともに京に残り、新選組を作った芹沢一派は、この年の終わりには一掃され、新選組は、近藤局長・土方副長体制で走り出しました。


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