武家政権の道を開いた平清盛とはどんな人物?わかりやすく紹介

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平安時代末期、貴族中心の政権から武家政権へ移行するきっかけを作ったのが、貴族の下で働いていた武将たちでした。

その一人・平清盛は、後白河法皇との関係の中で、次第に勢力を強め、武家による政権への道筋を作りました。

この時代は、朝廷や平氏、源氏など多くの人物が入り乱れて、とてもややこしいので、正直なところ、苦手な時代です。

でも調べていくうちに、だんだんと興味が深くなってきました。

教科書でもおなじみの平清盛、本当はいったいどんな人だったのか、ちょっと気になりませんか?

今回は、出来るだけわかりやすくお話ししようと思いますので、この時代がちょっと苦手だという方も、ぜひお読みくださいね。

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平清盛 平氏の棟梁から武士の棟梁へ

清盛の生涯を3つの時期に分けて紹介しますので、時代の流れとともに彼の生きざまに思いを馳せてみてください。

早すぎる出世の裏には?

元永元年(1118年)

平清盛は、伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれました。

誕生したところは、京都であったというのが最も有力です。

一説には、白河法皇の寵愛を受けていた祇園女御が清盛の父・忠盛に下賜され、その後生まれたのが清盛で、彼は白河院御落胤であると言われています。

真実のほどはわかりませんが、のちに述べるように当時の武士には考えられないような出世をしているところ、そして祇園女御の庇護を受けていたことから、白河院の子ではないかと考えられる要因の一つとなっています。

大治4年(1129年)

わずか12歳(数え年)で従五位下・左兵衛佐に任命されます。

当時の貴族たちも、清盛の早すぎる出世に驚いていました。

保延3年(1137年)

肥後守に任じられます。

父・忠盛は、白河院によく仕え、その父と祇園女御の庇護のもと、清盛も順調に出世の道を進んでいました。

ところが清盛の昇進に暗雲が垂れ込めます。

祇園社乱闘事件

久安3年(1147年)6月15日

清盛は宿願成就を祈願し、祇園社(八坂神社)に田楽を奉納しようと楽人(演奏家)を連れてやってきました。

その時、楽人を護衛していた清盛の郎党たちに、祇園社が武装解除をするように求めます。

それに反発した郎党たちと神官たちが小競り合いとなり、郎党の放った矢が宝殿に当たり、負傷者も出てしまったのです。

今の八坂神社(祇園社)

祇園社の本寺であった延暦寺は、忠盛・清盛父子の配流を求めて、強訴しました。

強訴(ごうそ)とは、寺社が神輿や神木などを担ぎ出して洛中に乗り込み、強引に要求を通そうとするこです

鳥羽法皇は、何とか延暦寺をなだめ、清盛の罰金刑だけで済ませました。

しかし、清盛はこれ以降しばらく謹慎させられていたようです。

平氏の棟梁に

仁平3年(1153年)

父・忠盛死去により、清盛が平氏一門の棟梁になります。

清盛は、嫡子となっていましたが、忠盛の正室・宗子との間に家盛という息子もいました。

祇園社の事件以降、家盛が次第に頭角を現し、忠盛の跡を継ぐのではないかとみられていたのですが、久安5年(1149年)に家盛が急死します。

その結果、家督を継ぐのは清盛が最も有力となったのです。

家盛は、死の直前まで健康だったことから、謀殺されたのではという説もあります。

清盛が直接手を下したことは考えにくいですが、清盛の周辺にそのような計画があったのかもしれません

保元の乱

保元元年(1156年)

鳥羽法皇の子・崇徳上皇と後白河天皇の争いに、藤原摂関家の家督争いという問題に、平氏と源氏の武士たちが力を貸すという形で起こったのが、保元の乱です。

崇徳上皇

清盛は、のちに争うことになる源義朝とともに、後白河天皇側につき、勝利しました。

この乱で、崇徳上皇側についた清盛の叔父・平忠正は斬首されますが、後白河天皇の側近・信西しんぜいの命により、実行したのは清盛自身でした。

恩賞として、清盛は播磨守に任ぜられ、知行国4ヶ国を与えられます。

2年後には、九州大宰府の実質的な権力者である大宰大弐に任ぜられ、父・忠盛の頃から行われていた日宋貿易が一層盛んになりました。

日宋貿易

当時の中国・宋との貿易。平氏は、日宋貿易により、多大な財を得ていました

平治の乱

平治元年(1159年)

後白河天皇が、息子の二条天皇に譲位し、院政を行うようになると、側近の信西が大きな権力を持つようになります。

すると、日に日に信西の独裁が強くなってきたため、周囲からの反感も強くなっていきました。

また、保元の乱で清盛とともに戦って勝利した源義朝は、

・清盛よりも恩賞が少なかった

・敵方についたために自ら処刑をしなければならなかった身内も清盛よりも多かった(義朝の父・為義を始め、兄弟6人が処刑されている)

ことなどから、非常に大きな不満を持っていました。

後白河上皇の近臣たちは、清盛が熊野詣に出かけている時を狙い、義朝とともにクーデターを起こします。

後白河上皇と二条天皇を幽閉、信西を自害へ追いやりますが、知らせを聞いた清盛はすぐに京へ戻り、反撃を開始。

平治物語より  信西の首がさらされている絵

後白河上皇と二条天皇を救い出すと、義朝との合戦に挑み、勝利しました。

近臣たちは処刑・処分され、義朝は、関東へ逃亡しますが、途中でつかまって殺されました。

義朝の嫡子・頼朝は、逃げる途中でつかまり京へ連れ戻されますが、命は助けられ、伊豆へ流罪となりました。

源氏は事実上、京から排除され、清盛は武家の棟梁となるのです。

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平家全盛の時代へ

保元の乱・平治の乱により、貴族の争いには武士の力が不可欠だということが証明され、次第に武士の権力が大きくなってきます。

盤石な政権へのスタート

永歴元年(1160年)

清盛は、参議を任ぜられ、武士として初めての公卿になりました。

ここから朝廷の軍事・警察力を掌握したことで、来る武家政権への基礎を築くのです。

その後も清盛は、検非違使別当・権中納言・権大納言そして太政大臣へと昇り詰めることになります。

応保元年(1155年)

後白河上皇と清盛の妻の妹・平滋子との間に憲仁親王(後の高倉天皇)が生まれます。

滋子は、その美貌と聡明さで、後白河上皇に寵愛され、時にはいさかいが起こりそうな清盛との関係を良好に保つためにはなくてはなくてはならない存在でした。

後白河上皇は、憲仁親王を次の天皇にするために皇太子にしようとしましたが、これが二条天皇にばれてしまいます。

二条天皇は、若年ながら非常に聡明で、後白河上皇の院政を許しながら、自身も政務を行っていました。

後白河上皇の動きを警戒した二条天皇は、後白河上皇の院政を停止します。

清盛は、二条天皇の御所を警護させることで、二条天皇への支持をほのめかす一方で、後白河上皇に対しても、しっかりとフォローしています。

清盛は、バランス感覚に優れ、立ち位置をしっかりと見定める能力の高い人だったようです。

見ようによってはどっちつかずのようなのですが、朝廷の権力がしっかりと定まっていない時期には、清盛のような立ち振る舞いの方が生き残れたのではないでしょうか。

長寛2年(1164年)

清盛は、後白河上皇のために蓮華王院(三十三間堂)を造営します。

また、熊野信仰の篤い後白河上皇のために、熊野権現を勧請した寺社なども建立しています。

これらの費用は、日宋貿易などで大きな利益を得ていた平家が負担していました。

同じ時期に清盛は、33巻のお経を写経させ、平氏が信仰していた厳島神社に納めています。

美しい絵画や金箔銀箔で彩られたお経は、平家納経と呼ばれ、現在は国宝に指定されています。

平家納経の一部

長寛3年(1165年)7月

後白河上皇を警戒し、精力的に政務に当たっていた二条天皇が崩御します。

崩御間際に息子の順仁親王に譲位したため、1歳にもならない幼すぎる六条天皇が即位しました。

これにより、院政を停止させられていた後白河上皇が再び政治の場に立ち、清盛も上皇に従う形を取ります。

永万2年(1166年)10月

滋子の子・憲仁親王が皇太子になり、それを補佐する清盛は春宮大夫、そして内大臣になりました。

名実ともに、政権の中心を担う清盛は、まさに絶頂期だったと言えます。

翌年には、太政大臣になった清盛ですが、3ヶ月で辞任し、表向きは引退という形を取りました。

後を継いだのは、嫡子・重盛。

これは、平家の栄華がこれからも続くための布石として、清盛があえて一線から退いたのではないかと考えられます。

実際これ以降も数年間は、平家の全盛期が続き「平家にあらずんば人にあらず」by平時忠(清盛継室・時子の弟)とまで言わしめるようになります。

福原隠棲

仁安3年(1168年)

清盛は、病に倒れます。

原因は寄生虫による病気だったようですが、死を覚悟した清盛は、出家しました。

後白河上皇は、清盛死後の政情不安を考え、(おそらく病床の清盛と相談したうえで)六条天皇から憲仁親王への譲位を急ぎ、高倉天皇として即位しました。

しかし、清盛は驚異の回復力で蘇ります。

その後は、福原(現・神戸市)に別荘を建てて隠居し、日宋貿易と厳島神社の整備などに力を注ぐようになってゆきました。

嘉応元年(1169年)

後白河上皇は、出家して法皇となります。

この時期には、清盛が後白河法皇とともに東大寺で受戒したり、後白河法皇が清盛の住む福原を訪れたりと、まだ両者の関係は良好でした。

承安元年(1171年)

清盛の娘・徳子が高倉天皇の中宮(妻)となりました。

後白河法皇と清盛の姪・滋子との間に生まれたのが、高倉天皇。

もし、高倉天皇と徳子の間に皇子が誕生すれば、清盛は外戚として、政治の最高権力者になれるのです。

平家はこのままどんどん栄えていくように見えました。

安元2年(1176年)

後白河法皇の寵愛を受けていた滋子が、突然病に倒れました。

様々な治療、加持祈祷が行われましたが、滋子の病状は悪化の一途をたどります。

発病からわずか1ヶ月後、滋子は帰らぬ人となり、後白河法皇は悲しみのどん底に落とされました。

平家衰退

清盛と後白河法皇をかろうじてつないでいた滋子が亡くなったことをきっかけに、後白河法皇と清盛との関係は、次第に悪化していきます。

後白河法皇との関係

後白河法皇は、平家との距離を遠ざけ始めます。

まず、清盛が辞めてから空席になっていた内大臣に藤原師長もろながを据えました。

藤原師長は、保元の乱で崇徳上皇側についた藤原頼長の次男です。

内大臣には、清盛の後を継いだ重盛がつくのではないかと思われていただけに、後白河法皇が平家に対し、強硬な姿勢を打ち出したことがわかります。

この人事を始め、後白河法皇は次々に反平家の貴族たちを、政治の主要な地位に任じていきました。

黙っていないのは、清盛です。

後白河法皇と近臣たちに対し、圧力をかけたのです。

その結果、重盛が内大臣に(師長は太政大臣へ)、清盛の三男・宗盛を右大将に任じました。

平家の武力を無視することはできないため、後白河法皇は平家・反平家をバランスよく配置したのです。

鹿ケ谷の陰謀

治承元年(1177年)

京・東山鹿ケ谷にあった僧・俊寛の山荘。

そこに後白河宝塔と近臣が集まって、平家打倒の密議を開いていたというのです。

これを清盛に密告したのは、後白河法皇を守る北面の武士・多田行綱です。

清盛は、迅速に動きました。

密議の場にいた近臣たちが、次々と捕縛され、処刑されたり、流罪(俊寛らは鬼界ヶ島へ)となっています。

勢力が一気に崩壊した後白河法皇に対し、清盛は院政を停止させました。

俊寛の山荘跡の道しるべがある鹿ヶ谷の霊鑑寺

鹿ケ谷の陰謀は、本当にあったのか

実際に平家打倒の蜜謀があったかどうかは、確かではありません。

この直前、清盛は後白河法皇から、比叡山延暦寺への攻撃を命じられていました。

清盛は、しぶしぶ承知はしていましたが、出来れば戦いたくありませんでした。

当時、大勢力を誇っていた比叡山延暦寺の掃討することは、簡単なことではなかったのです。

そんな時に起こったのがこの事件です。

タイミングがあまりにも良いことから、清盛が捏造した陰謀ではないかとも考えられています。

俊寛の別荘へ集まったことは事実でも、単なる酒宴を開いていただけで、それを密議と決めつけて、一方的に処罰してしまったのではないか。

首謀者たちへの迅速すぎる処罰も、そう考える1つの理由となっています。

とにもかくにも、この事件により清盛は、無駄な戦いをせずに済みました。

安徳天皇の誕生

治承2年(1178年)11月12日

高倉天皇と徳子(建礼門院)の間に皇子が生まれました。

清盛は、1日でも早く皇子を立太子するように朝廷に働きかけます。

すでに60歳を超えた清盛は、自分が死んだ後も平家の繁栄が続くように、出来る限りの手を打っておこうとしたのです。

同年12月15日

誕生してわずか1ヶ月で、皇子は言仁親王と名付けられ、皇太子となりました。

朝廷の人事は、ほとんどを平家が独占し、清盛にとっては降伏の絶頂となっていたことでしょう。

でもこれは、滅亡前の最後のきらめきだったのです。

後白河の反撃

治承3年(1179年)6月

清盛の娘・盛子が死去。

後白河法皇は、清盛に無断で盛子が所有していた荘園を没収します。

同年7月

重盛が病死すると、法皇は重盛の知行地も没収しました。

穏健派だった重盛は、清盛と法皇の間の修復に心を砕いていました。

しかし清盛の法皇への叛意は強く、また鹿ケ谷の陰謀への自責の念に駆られ、体調を崩していたようです。

清盛と法皇のパイプ役であった滋子に続き、重盛まで亡くなったことで、二人の関係は悪化の一途をたどることになります。

治承三年の政変

11月、後白河法皇の独断に対し、清盛は福原から軍を率いて、クーデターを起こします。

反平家派の近臣をすべて解任し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉したのです。

清盛は、後白河法皇についていた公家や近習を処刑し、あとを宗盛に任せて福原へ帰りました。

平家による独裁政治が始まろうとしていました。

治承4年(1180年)4月

高倉天皇が譲位し、数え3歳の安徳天皇が誕生します。

名目上は高倉上皇の院政ですが、事実上は平家が政治の実権を掌握したのです。

平氏打倒の波

平家の独裁が強くなると、これに不満を持つ者が増えてきました。

その中心が、後白河法皇の第三皇子・以仁王もちひとおうです。

以仁王の挙兵

以仁王は、とても優秀な人で、天皇になる可能性もあったのですが、平家に邪魔されていました。

そして今、自分よりはるかに幼い安徳天皇の即位により、完全に天皇即位の望みは絶たれたのです

治承4年4月

安徳天皇の即位まもなく、以仁王は全国の武士たちに平氏打倒の令旨を出しました。

平家と平氏という呼び方

平一族を呼ぶときに「平家」と「平氏」という2つの呼び方があります。

基本的には「平家」は、清盛一族のみに使われ、平一族全体を指す言葉として「平氏」があるとされていますので、こちらの記事もそれに基づいて、呼び分けています。

しかし、計画は未然に発覚し、準備不足のまま挙兵した以仁王の軍は、奮戦むなしく敗れます。

以仁王は、反平氏勢力として協力的だった奈良の興福寺へ向かう途中に宇治平等院の戦いで平氏軍に打ち取られました。

京都府木津川市 高倉神社にある以仁王の墓

以仁王は亡くなりましたが、平氏打倒の令旨を受け取った源頼朝が立ち上がり、平氏への反乱が始まりまるのです。

福原遷都

同年6月

清盛は、反平氏勢力に囲まれている京から福原へ遷都します。

これには、平氏一門からも反対がありましたが、清盛は強硬に都を遷しました

ですが、福原には、まだ屋敷も整備されておらず、貴族たちが住める場所も少なかったため、不満が大きく、結局半年ほどで京へ遷都することになります。

仏敵・清盛

福原遷都の間に、源氏の勢力は拡大してゆきます。

頼朝を迎え撃つため、軍を出した平氏ですが、富士川(現・静岡県富士市)の戦いでは、水鳥の羽音に驚き逃げ出すという、とんでもない失態を犯しました。

この敗戦をきっかけとして、以仁王に協力的だった園城寺や興福寺が密かに動き出します。

治承4年12月

京へ戻った清盛は、園城寺へ軍を差し向け、焼き払ったのです。

更に清盛は、南都へ大軍を派遣、民家に火を放ち、反平氏勢力の中心となっていた興福寺・東大寺をも焼き払います(南都炎上)

現在の興福寺

貴重な仏像や堂宇、書籍類ばかりではなく、未来有望な多くの若き僧侶たちの命も失いました。

これを聞いた公家たちは、皆震え上がりました。

バランス感覚に優れ、比叡山延暦寺や朝廷ともうまく付き合っていた清盛は、「仏敵」の汚名を着ることになったのです。

高倉上皇崩御

院政を行っていた高倉上皇は、このころ病に臥せっていました。

平氏の傀儡かいらいとはいえ、政権の象徴であった高倉上皇ですが、病状は悪くなるばかりです。

まだ幼すぎる安徳天皇では、平氏政権の安定を図ることができません。

清盛は、高倉上皇の死後も見据え、非情な手段をも取っていたと考えられます。

南都を焼き尽くしたことで、反平氏勢力をかろうじて抑えている状況ではありますが、東から頼朝やその従兄弟・木曽義仲などが虎視眈々と平氏への襲撃準備をしているはずです。

清盛は、奥州の藤原秀衡と越後国の城助職しろすけもとに頼朝追討の宣旨を出します。

畿内周辺の軍制も整え、平氏の権力体制の強化を進めていきました。

そんな中、高倉上皇は必死で病と闘っていました。

この時代、極楽浄土が当たり前のように信じられていたため、死期を悟ると、出家することが常識でした。

高倉上皇は、出家もせず、何とかして生き抜こうとしていたのです。

「自分が死んでしまえば、必ず国が混乱する」

自身の成仏より、世の乱れを憂い、最期まで闘いましたが、とうとう力尽きます。

承和5年(1181年)1月14日

高倉天皇崩御 享年21歳

清盛は、平氏政権の安定を求め、高倉上皇の中宮・建礼門院徳子を後白河法皇に入内させようとします。

高倉上皇は、後白河法皇の息子、徳子にとって後白河法皇は義父です。

当時においても、常軌を逸するような手段に、公家たちはあきれてしまいました。

結局徳子本人が、これを拒んだために実現はしませんでした。

清盛の最期

清盛は、都を防衛するために、平安京のの南・今の京都駅以南に防塁や柵を築いたり、将来的な本拠地として、安徳天皇の里内裏を八条周辺に建てます。

精力的に動く清盛を、突然病が襲いました。

承和5年(1181年)2月22日

激しい頭痛に襲われた清盛は、2日後には高熱を出し始め、症状はどんどんと悪くなっていきます。

体中の毛穴から煙が出て、雪を頭にのせてもすぐに湯になってしまう

という医者の報告もあるほどの重病でした。

死を覚悟した清盛は、後白河法皇に「自分の死後は宗盛とともに、天下のことを計らってほしい」と使いを出しますが、法皇は返事を返しませんでした。

清盛は、怨み深い表情で

天下のことはすべて宗盛に任せた、異論はあるまい

と一方的に言い残しました。

閏2月4日

平清盛死去 享年64歳。

発病から1週間余りというあまりにもあっけない死でした。

貴族の中には、仏罰が下ったという者もあったようです。

「平清盛炎焼病之図」 月岡芳年
閻魔大王と清盛の犠牲者の幽霊に対峙する、熱に苦しむ清盛が描かれている

8日に行われた葬式の日には、後白河法皇がいる法住寺殿から、今様(はやり歌)がにぎやかに聞こえてきました。

清盛が亡くなったことを、後白河法皇は悲しむどころか、喜んでいたのです。

『平家物語』によると、清盛は

死後の供養などは要らない。頼朝の首を吾が墓前に供えよ

子孫は東国の謀反を治めることに力を尽くし、たとえ最後の1人となっても、そのむくろを頼朝の前に晒すまで戦え

と遺言したとされています。

しかし、後を継いだ宗盛は、後白河法皇の院宣に従い、源氏追討から融和へと転換させました。

清盛の遺言は、死後わずか2日で破られたのです。

清盛亡き後、平氏は木曽義仲の軍勢に都を追われ、頼朝軍との戦いに敗れ続け、滅亡しました。

源平最後の戦いである壇ノ浦の合戦は、清盛が亡くなった4年後のことです。

平清盛という人物

平清盛とは、いったいどんな人だったのでしょうか。

文献に残る逸話などから、探ってみましょう。

合理的で現実主義

『平家物語』に由来した異本の『源平盛衰記』によると、

ある年、農民が日照りでとても困っていたところ、比叡山の僧が雨乞いをした

するとたちどころに雨が降り、みんながその霊験に驚いた

しかし清盛は、「日照りが何日も続いた後に祈祷すれば、雨が降るのもありうることだ」と一蹴した

とあります。

また、経ヶ島には、清盛が人柱の習慣を廃止したという伝説などもあり、迷信にとらわれない、合理的な考えを持っていたと思われます。

立ち回りの上手い人物

鎌倉時代初期の歴史書愚管抄ぐかんしょうでは

清盛は対立する両者との間で微妙な距離を保ちながら、うまく立ち回る、処世術にたけた人物

と評されています。

どちらにもいい顔をする政治力のある八方美人という感じでしょうか。

穏やかな人物

鎌倉時代中期の説話集十訓抄じゅっきんしょうでは、清盛についてこのようなエピソードが書かれています。

折り悪く苦々しき事なれども、その主の戯れと思いてしつるをば

(とんでもなく困ったことをしても、冗談だと思うようにした)

彼がとぶらひに可笑しからも笑い

(彼のふるまいがおかしくなくても、にこにこと笑い)

いかなる過ちをも、物を打ち散らし、浅ましき技をしたれども、言えわけ無しとして荒き声も発てず

(大変な失敗をして物を壊したりしても、役立たずと言って声を荒げず)

寒き日は小侍共を我衣の裾の下に臥せて、努めては彼等が朝いしたらば、やをら抜け出し思うばかり寝せけり

(寒い日には幼い従者たちを自分の衣の裾に寝かせ、彼らが朝寝坊をしていれば、そっと抜け出して、思う存分寝かせてやる)

召使いにも及ばぬ末のものなれども、それが様々の者の見る事にては、人かずなるよしをもてなし給いけるなれば、

(一番下の召使でも、彼の家族が見ている前では、一人前として扱えば)

いみじ面目にて、心染みて嬉と思いけり、斯様な情けにて、有りと有るたぐい思いつきり、人の心を感じさせるとはこれなり。

(面目が立ったととてもありがたく思って喜ぶものだ)

情け深く、人の心をつかむことのできる清盛という人物が見えてきます。

『平家物語』で描かれていた成り上がりで傲慢な暴君とは、全く違った清盛の姿ですね。

彼の生涯で紹介した通り、晩年は「仏敵」と呼ばれるような、残忍なことや非情な処分などが目立ってきますが、これは平氏の衰退と年齢を重ねたゆえの頑迷さが表れた結果とも考えられます。

基本的には感情に左右されない冷静で温厚な人だったのではないでしょうか。

平清盛が登場する作品

平清盛について、もっと知りたい方には、こんな書籍がおすすめです。

平清盛の闘い 幻の中世国家   元木泰男 

平清盛が目指した政治とは何だったのか?

彼の波乱に満ちた生涯を振り返りながら、先進的な政治家という一面を描き出した歴史書です。

読みやすくて、清盛の新しい姿が見える興味深い本です。

歴史に裏切られた武士 平清盛   上杉和彦

長い間「非道な独裁者」の評価が定着していた平清盛の実像を丁寧に描いています。

清盛という人をデフォルメすることなく、生涯と彼への評価が書かれている本です。

日本史の基礎知識があれば、読みやすい本だと思います。

平家物語 ビギナーズクラッシックス   角川書店

平家一門の盛衰を詩的に描いた歴史書『平家物語』の訳本です。

全文が載っていますが、原文と訳が載っているのは一部ですので、あらすじでカバーしている形になっています。

『平家物語』入門書としておすすめです。

平清盛・源平時代の京都史跡を歩く   ユニプラン

平清盛を始め、源平の時代に生きた人々の京都史跡をめぐる13のコースを紹介したガイド本です。

すべてにそれとわかるような史跡が残っているわけではありませんが、彼らの足跡をめぐることで、平安末期から鎌倉初期の時代の空気が感じられるのではないでしょうか。

京都巡り、史跡めぐりがお好きな方におすすめです。

終わりに

2022年の大河ドラマは、北条義時を描いた『鎌倉殿の13人』です。

物語の前半には、平清盛も登場します。

松平健さんが演じる迫力ある清盛、いったいどんな人物として描かれるのか、楽しみですね。

最後までお読みいただき、ありがとうござしました。


歴史人物平安時代
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小春

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