平将門
この人物からあなたはどんなことを想像しますか?
関東で乱を起こした人
菅原道真・崇徳天皇とともに日本三大怨霊とされる人
徳川家康をはじめ、多くの武士の崇敬を受けている人
平将門が生きた時代は、貴族が政治の中心だった平安中期です。
この時代の武士は、貴族を警護する役目、家来でした。
平将門も朝廷・貴族にとっては、単なる家来だったと思います。
そんな時代に起こした彼の行動は、朝廷にとって青天の霹靂のようなものだったことでしょう。
将門が、なぜ関東で乱を起こしたのか、なぜ怨霊と恐れられるのか、そんな人物がなぜ武士たちに尊敬されるのか。
それらを考えながら、私なりに平将門の生涯を解説したいと思います。
平将門の生涯
将門は、桓武天皇の孫(曾孫とも)高望王(たかもちおう)の三男平良将の子として生まれます。
つまり、桓武天皇は、将門にとっておじいちゃんのおじいちゃんって感じですね。
生年ははっきりしておらず、903年とも889年ともいわれています。
父平良将は、下総国(現在の千葉・茨城・埼玉・東京の一部)を領地とする陸奥国鎮守府将軍でした。
将門、上洛する
10代の初めころ、将門は、当時の武士にとってのあこがれだった検非違使(けびいし)になるために上洛します。
左大臣の藤原忠平に仕え、真面目に働きます。
忠平にもその人柄は認められていたようですが、簡単に出世することは難しく、将門は、滝口の武士にとどまっています。
【検非違使と滝口の武士の違い】
検非違使は京の治安維持や民生をつかさどる警察・裁判所のような役職
滝口の武士は清涼殿(帝のおられるところ)の警備をする
桓武天皇の血を受け継いでいる将門には内心、そのプライドはあったのではないでしょうか。
でも、朝廷で認められることはなく、将門の朝廷への失望は小さくなかったと思います。
京へ出て10数年たったころ、父良将が亡くなったため、将門は下総へ帰りました。
将門、怒る
下総に帰ってみると、父が治めていた領地は、伯父平国香が奪っていたではありませんか!その上将門の妻(良兼の娘!)や、伯父たちの妻や娘などをめぐる争いにまで巻き込まれていきます。
承平5年(935年)2月
将門は、平国香とその舅にあたる源護(みなもとのまもる)に襲撃され、戦います。
国香は、この戦いで戦死、将門が勝利しました。
同年10月
今度は別の伯父平良正が襲撃をしてきますが、将門はこれも撃退します。
承平6年(936年)
良正に助けを求められた良兼が、国香の息子貞盛とともに復讐戦を挑んできます。
これもまたまた将門は撃退。
将門に追い立てられるように逃げた良兼らは、下野国の国府(役所)に助けを求めます。度重なる襲撃に怒っている将門は、国府を包囲し、良兼らは逃亡しました。
お分かりのように、すべて相手からの襲撃、将門は撃退しただけです。
そして、すべて内輪もめ。
なんだかなぁ…。
戦いで無駄に死んだ人にとってはいい迷惑かも。
将門 訴えられる
国府から逃げ出した良兼たちは、源護を頼り、そこから朝廷に訴えました。
「何を?」
将門が国府を包囲したことが朝廷に対する反逆だとかなんとか…。
まあ言いがかりみたいなもんでしょう。
承平7年(937年)4月
将門サイドは、朝廷に呼び出され、尋問されます。
でも運よく朱雀天皇元服の恩赦により許され、無事帰国します。
腹の虫がおさまらないのは、良兼側です。
同年8月
良兼を筆頭として将門と対抗する平一族が、またまたまた将門を襲撃しました。
この時は、将門が敗走し、妻子が奪われています。
妻子は良兼の娘・孫でもあるので、危害が加えられる心配はなかったでしょうが、その後将門のもとに戻っています。
妻の弟の助けがあったそうですが、それって良兼の息子ですよね。
自分の娘は、父より夫を選び、その逃亡を助けたのは息子!
これは、何よりも将門の人望があったためではないでしょうか。
おそらく良兼の怒りは沸点を超えたでしょうね。
将門は、この襲撃についての自分の正当性を朝廷に訴えます。
朝廷は、将門に対し、良兼追討の太政官符(命令書)を出し、将門は良兼を追放しました。
これより3年後、良兼は病死し、平一族の大きな内輪もめは一応の終止符を打ちます。
将門 頼られる
朝廷からも一目置かれている人物として、そして何よりその強さと人柄で将門は、関東一円で誰よりも慕われる存在となっていきました。
様々なもめごとの仲裁を頼まれたり、頼ってきた人を匿ったり、助けたり。
でもその親分肌が、将門を窮地に立たせてしまいました。
武蔵国に赴任していた興世王(おきよおう)・源経基らが常陸国の郡司(地方役人)ともめたときも、仲介をします。
いったん治めたもめごとでしたが、常陸国郡司がいきなり経基の陣を包囲、経基は将門が裏切ったと勘違いし、京へ逃げかえって「将門に謀反の疑いあり」と朝廷に訴えています。
これは、将門の元上司藤原忠平が手ずから調べた結果、常陸・下総・下野・武蔵・上野5ヶ国から将門の謀反は事実無根という証明を取り、治まりました。
将門 乱を起こす
先のいさかいの後武蔵国に赴任していた興世王は、今度は国司(国の役人)藤原維幾(これちか)ともめ、再び将門を頼ってきます。
興世王はそのまま将門に従い、任地に帰りませんでした。
いさかいの種火がチリチリと燃え始めます。
天慶2年(939年)
常陸国の国府に追捕された藤原玄明(はるあき)が、将門に救いを求めてやってきました。
将門は玄明を匿います。
常陸国府は、玄明の引き渡しを命じますが、将門は応じず、やむなく国府と戦いました。
兵の数では劣っていながら、将門は勝利しますが、国の役所を襲ったことが朝廷に反旗を翻したとみなされてしまいました。
側近となっていた興世王は、将門に関東制覇を進言します。
「常陸国一国を襲ったことで朝廷に責められるなら、いっそ関東一円を手に入れてしまいましょう」
将門は、それを受け、下野国・上野国の国府も攻め落とし、関東一帯を占領しました。
将門は、親分肌なだけに乗せられるとどんどん乗っちゃうタイプだったのかも。勢いに乗ればすごい活躍をしていきます。
将門は新しい国を建て、「新皇」を名乗ったのです。
京の朱雀天皇に対して、新しい天皇。
これはまさしく朝廷に対する反逆でした。
将門 攻められる
天慶3年(940年)
将門追討の軍が関東にやってきます。
軍を率いるのは、平貞盛とその叔父藤原秀郷(ひでさと)
戦況は、将門有利で進みます。
そして最後の一戦。
折からの北風に乗じた将門軍は、貞盛・秀郷連合軍を攻め立てます。
あと一歩で勝利というとき、急に風向きが変わり、連合軍が反撃してきました。
将門は、先頭に立って馬上で奮闘しますが…。
一本の矢が将門の頭に命中し、将門は討死しました。
享年38歳。
将門が乱を起こしてわずか2ヶ月余り後のことでした。