徳川四天王の最年少・井伊直政は、全力で家康に忠義を尽くした家臣です。
「どうする家康」では、美少年の板垣季光人(いたがきりひと)さんが演じていますが、実際の直政も超イケメンで、男性女性問わずモテモテだったそうで…。
それだけでなく、直政は非常に勇敢で智謀にも優れた武将でした。
今回は、ひこにゃんで有名ないい彦根藩初代藩主でもある井伊直政の生涯について紹介します。
今川氏から狙われ続けた虎松
井伊直政が誕生したのは、永禄4年(1561)です。
遠江国伊井谷(いいのや)今の静岡県浜松市北区を領地としていた井伊直親の嫡男として生まれます。
幼名は虎松。
当時の井伊家は、今川氏に仕えていましたが、虎松が生まれて1年度の永禄5年、父直親が、徳川家康と内通したという疑いをかけられて、今川氏真に謀殺されました。
今川の討手から逃れ続けた少年時代
今川氏真は、嫡男である虎松をもなきものにしようとしますが、今川家家臣・新野親矩(にいのちかのり)が助命嘆願し、虎松は、母とともに新野の下で暮らすことになります。
しかし、新野が永禄7年(1564)に戦死すると、再び今川氏の討手が虎松に迫ってきたのです。
母と井伊直親の後を継いだ井伊直虎(虎松の又従兄弟)は、虎松の命を守るために彼を出家させ、三河国鳳来寺に入れます。
虎松は鳳来寺でひたすら勉学に励みました。
後年彼が、武勇だけでなく外交にも優れた能力を発揮する背景には、このころの学びが役に立っていたのではないでしょうか。
今川の目を逃れるためとはいえ、この時期に鳳来寺で学びの時を過ごしたことは、虎松にとって決して無駄ではなかったのです。
徳川家康との出会い
天正3年(1575)、虎松15歳の年。
徳川家康が浜松城から鷹狩りに出かけたとき、虎松が家康に目通りを願いました。
「その方の父は、わしのために命を落としたようなものじゃ。井伊家の没落にはわしにも責任があるゆえ、それに報いなければならんの」
家康は、虎松を300石で召し抱えました。
虎松の初陣!
虎松の初陣は、徳川家康が武田勝頼と戦った天正4年(1576)の「芝原の戦い」です。
虎松は、この戦いで先鋒として大きな活躍をしています。
また、家康の寝所へ侵入してきた武田軍の刺客を討ち取り、褒美として家康から3000石の知行を拝領しています。
これを皮切りに、どんどんと戦功をあげていく虎松。
家康の信頼も勝ち取ってゆきます。
美少年・虎松
虎松は、大変な美少年で、衆道の趣味がなかった家康でさえ、虜にしてしまうほどだったようです。
家康の小姓として仕えていた虎松は、一般的な元服年齢(13~15歳)をはるかに超えた22歳で元服して直政と名を改めています。
この遅い元服には、家康の虎松を手放したくないという思いがあったのではないかという考え方もあります。
家康は、自邸の庭近くに虎松の家を建てて、時々通っていたという話もあるほどです。
直政は、家康の深い愛情と信頼に応えるべく、凄まじい忠勤ぶりを見せるのです。
井伊の赤備え
天正10年(1582)に元服した直政は、同年の6月に起こった本能寺の変の際には、家康の伊賀越えに同道しました。
伊賀越えでの忠心ぶりに対し、家康は直政に「孔雀尾具足陣羽織(くじゃくおぐそくじんばおり)」を授けていますが、その陣羽織は与板藩井伊家に伝わり、現在は与板歴史民俗資料館に保管されています。
四番町ダイニングなう。コレ見にきた。井伊直政所用 孔雀尾具足陣羽織(再現)。 pic.twitter.com/52Bn8J3IYN
— ᵃᵖᵖⁱⁿᵍ(あっぴん)@こどもの日 (@gnippa) April 16, 2016
天正壬午の乱
武田氏を滅ぼした信長は、その直後に本能寺の変により亡くなっています。
そのため、旧武田領は、誰が治めるかが決まらないまま混乱状態となりました。
その領地をめぐって徳川が、北条氏直らと争った戦いが「天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)」です。
戦いを優位に進める徳川に対し、北条氏直が和議を申し出たとき、その交渉役として抜擢されたのが直政です。
武勇でも名高い直政は、外交交渉の技術も高く、この時も北条側にとっては厳しい和議条件のほとんどを承諾させています。
この功績により、直政は、武田家旧家臣のほとんどを直属の配下として任され、徳川重臣の一翼を担うまでになったのです。
直政は、武田家最強と言われた山県昌景(やまがたまさかげ)の朱色の軍装を引き継ぎ、以後「井伊の赤備え」として戦場でひときわ目立つ部隊となります。
その先頭に立つ直政は、少年のような顔立ちで小柄な体つきながら、鬼の角のような脇立(わきだて)の赤い兜をかぶり、敵を蹴散らす様子から「井伊の赤鬼」と恐れられるようになるのです。
直政は、天正12年(1584)の小牧長久手の戦い、天正13年の上田城攻防戦、天正18年の小田原征伐にも参戦し、功績をあげています。
小田原征伐後に家康が関東へ移ると、直政は上野箕輪城、そして高崎城に報じられました。
石高12万石の高崎城主となった直政は、徳川家臣団の中で最高の石高となります。
関ケ原の戦い
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいても直政の活躍は止まりません。
石田三成率いる西軍の武将を調略し、京極高次・因幡貞路らを東軍へ引き入れています。
また、鉦て懇意にしていた黒田長政を通じ、小早川秀秋を裏切らせ、毛利軍の吉川広家には軍を動かすことのないよう約定を取っていたそうです。
いざ戦が始まると、直政は本多忠勝とともに、凄まじい働きぶりを見せます。
戦の大勢が見えてくると、西軍の島津軍が東軍の真っただ中を正面突破しようと向かってきました。(島津の退き口)
それを向かい討つのは、直政と家康の四男・松平忠吉です。
直政は、島津義弘の甥である島津豊久を討ち取り、さらに追い詰めます。
退却する島津軍を、猛追する直政に、配下の家臣も追いつけないくらいでした。
島津義弘の面前まで迫った直政、あと一歩で島津を討ち取るというところで、足を狙撃され、落馬してしまったのです。
ほぼ単騎がけのような無謀な状況が招いた不運でした。
井伊彦根藩藩主 直政
関ケ原の戦い後、直政は傷をいやす間もなく、戦後処理に奔走します。
西軍総大将を務めながら、全く兵を動かさなかった毛利輝元との講和交渉、島津氏との和平交渉、真田正幸・信繁(幸村)父子の助命嘆願も行っています。
これは、東軍として戦った真田信之の願いを受けての澤山で、直政は、信之が将来にわたり徳川家に忠義を尽くすだろうことを見越しての行動だったと考えられています。
これらの功績により、直政は石田三成の旧領・近江国佐和山(現・滋賀県彦根市)18万石を拝領されました。
直政は、琵琶湖に近い金亀山(こんきさん)に新たな城を築城させますが、これが今に残る彦根城です。
しかし、彦根城の完成を見ることなく、直政は亡くなりました。
死因は、関が原の戦いで受けた傷が原因で、敗血症になったためと考えられています。
享年42歳、関ケ原の戦いから2年後の慶長7年(1602)のことでした。
徳川譜代の武将ではないながら、おのれの智勇をフル回転させ、一途に家康への忠義を果たした井伊直政。
彼の命を燃やし尽くすような生き方は、まさに戦国武将そのものでした。
井伊直政 イケメンエピソード
勇猛果敢な直政のもう一つの魅力が、その美貌です。
ここからはちょっとゆる~く、イケメン直政の逸話について紹介します。
秀吉の母もゾッコン!直政のもてなしぶり
本能寺に斃れた信長に代わり、秀吉が天下人として名乗りを上げたのちも、家康はすぐに臣従していません。
そこで秀吉は、家康の上洛においてその安全を保障するために、自らの母である大政所を人質として岡崎へ送りました。
大政所たちの監視役となったのが直政です。
直政は、大政所や侍女たち人質としてではなく、客人のようにもてなしたといいます。
美貌の直政が、美しいほほえみを浮かべながら、お菓子を持ってきたり、体を気遣ってくれたりするのです。
メロメロになるなと言う方が無理です。
無事家康が臣従したのちに、大政所が秀吉のもとへ変えさせるときには、彼女の懇願により護衛を任されるほどにお気に入りになっていたそう。
ところが大坂城では!
無事に大政所を送り届けた直政。
褒美に秀吉から茶をふるまわれたのですが、その席には、先年家康を裏切り秀吉の家臣となった石川数正の姿が!
「先祖より仕えた主君(家康)を裏切り、殿下(秀吉)に従うような憶病者と同席することはできん」
と怒鳴ったそうです。
イケメンと言うだけでなく、権力にもおもねらない強いメンタルの持ち主が直政なのです!
男性にも持てていた?!
直政は家康の寵童だったという話があります。
実際のところは確かではありませんが、同僚の武将にも夜這いをかけられたことがあるそうです。
ある夜、直政が寝ていると不審な気配が…。
ふと目を開けると、すぐ目の前にむさくるしい武士の顔が!
すんでのところで、逃げ出したため、直政は無事だったそうですが、あまりの美少年が同僚だと、気もそぞろになるのかもしれませんね。
家康から強い信頼を受けていた直政
家康という人は、あまり人の評価をすることが無かったそうですが、直政についてはこのような言葉を残しています。
「井伊直政は、局面にあたると的確な意見を述べる。特に自分が考え違いをしているときなどは、誰もいないところで物柔らかに意見をしてくれる。だから何事も彼に相談するのだ」
また、同僚の榊原康政は、
「大御所(家康)のご心中を知るものは、わしと直政くらいだ」
といい、直政に絶対の信頼を置いていました。
直政が築いた井伊彦根藩
直政は、あまり無駄口をたたく人ではなかったそうですが、肝心なことはしっかりと意見し、自らを厳しく律し、ひたすら家康への忠義を果たした人でした。
直政が初代藩主となった井伊彦根藩は、徳川幕藩体制の下、幕末、明治まで続いてゆくのです。
井伊直政が登場する作品
最後は井伊直政が登場する作品を紹介しておきます。
直政のことをもっと知りたい方は、ぜひお読みください。
主君井伊の赤鬼・直政伝 高殿円
家康に寵愛された直政。その苛烈さから「井伊の赤鬼」と呼ばれた井伊直政の生涯を、家臣である木俣守勝の視点で描かれています。
テンポがよく、一気に引き込まれるような魅力がある一冊です。
井伊直政と家康 江宮隆之
少年・直政と家康の出会い、そして井伊の赤鬼として恐れられるまでに成長する直政。
深い信頼関係で結ばれた2人が天下への道のりを歩くさまが描かれています。
直政の生涯全体を見通せるような本です。
赤備えの鬼武者 井伊直政 近衛龍春
女城主井伊直虎に育てられた直政の生涯を描いた歴史小説です。
家康に、軍師としての才能を見出された直政が赤備えを引き継ぎ、天下無双の鬼武者として活躍する合戦シーンなど、エンターテインメント性に優れた本です。
終わりに
「どうする家康」では、家康と直政の出会いは、直政が家康を討とうとするシーンになっています。
その理由は?そしてこれからの展開は?
気になる所ですが、「おんな城主直虎」など、これまでの大河にも登場している井伊直政ですので、それぞれ見比べて見るのも面白いかもしれません。
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