全国に多数ある天満宮。
その全てに菅原道真が祀られています。
でも、菅原道真が実際に平安の世に生きた人です。
なぜ人が神として祀られるようになったのでしょうか?
それは、道真の悲運と悲嘆に暮れた最期が関係しています。
今日は、菅原道真の生涯を紹介しつつ、道真が天神様になった道なりをお話しします。
そろそろ北野天満宮の梅が開花し始める時期、お参りに来られる前に道真公のことを少し勉強してみましょう。
菅原道真の生涯
道真の父は、菅原是善、母は伴氏です。
両親とも文学に秀でた家系で、道真はその血統をしっかりと受け継いでいました。
神童道真誕生!
道真が生まれた場所は、様々な説があります。
- 現在の奈良市菅原市付近
- 菅大臣神社(京都市下京区)
- 菅原院天満宮神社(京都市上京区)
- 吉祥院天満宮(京都市南区)
- 菅生天満宮(堺市美原区)
- 菅生寺(奈良県吉野郡吉野町)
- 菅原天満宮(島根県松江市)
ですが確実な資料がないために、明確な場所はわかりません。
幼い頃から、詩歌の才能が豊かで、わずか5歳で和歌を詠んでいたと言われています。
18歳になると文章生(今なら大学生のようなものです)の試験に合格し、その後文章生の中から優秀な2人だけが選ばれる文章得業生に選ばれています。
大学で例えれば、東京大学の首席クラスで卒業、高級官僚へのエリートコースまっしぐらってところでしょうか
何はともあれ道真さん、とんでもなく優秀な頭をお持ちだったのですね。
道真、朝廷でどんどん出世する
朝廷に仕えるようになると、順調に官位が上がっていきます。
880年(元慶4年)に父菅原是善が亡くなると、私塾「菅家廊下」を主宰し、朝廷内の文化人の中心的存在となりました。
道真の際立った才と政治的手腕は、時の帝宇多天皇の信任を受けるまでになります。
関白藤原基経が亡くなると、宇多天皇は道真を重用し、藤原氏をけん制しました。
その後道真は、衍子(えんし)を宇多天皇の妃とし、三女寧子を宇多天皇の皇子・斎世(ときよ)親王の妃とし、皇族との姻戚関係を強化しています。
藤原氏なども皇族との姻戚関係を深め、朝廷での勢力を強める足掛かりとしていますので、当時は、珍しいことではなかったようです
宇多天皇を後ろ盾とした道真は、どんどんと昇進し、897年(寛平9年)ついには大納言兼右近衛大将になります。
この時の大納言兼左近衛大将左は藤原時平。
道真は藤原時平とともに太政官のトップクラスとなったのです。
同年、宇多天皇は子の醍醐天皇に譲位しますが、引き続き道真を重用するように強く要請しました。
道真、左遷される
宇多天皇の助言と道真の政治的手腕の高さにより、道真は醍醐天皇の御代でも昇進を続け、899年(昌泰2年)には、とうとう右大臣にまで上り詰めました。
藤原時平は、右大臣です。
道真は、学者としてはあり得ない出世をし、あの藤原氏と肩を並べたのです。
しかし、このような道真の破格の出世にねたむ廷臣も多かったようです。
いつの世も同じですね。
901年(昌泰4年)、道真は従二位になりましたが、それからしばらくして誰かが密告しました。
「道真が醍醐天皇を廃して、娘婿の斎世親王を皇位につけよう謀っている」
という情報です。
もちろん道真には、まったく心当たりがありません。
ですが、この密告により、道真は九州の太宰府に左遷されてしまいました。
道真の子4人も島流しの刑に処せられます。
実際誰がこのような嘘の密告をしたのかはわかっていません。
藤原時平の謀り事か、宇多上皇と醍醐天皇が対立していてそれに道真が巻き込まれたかなど、さまざまな説が考えられています。
少し話がそれますが、以前顔見世興行(師走の京都で行われるオールスター歌舞伎のようなものです)で、道真と時平の演目がありました。
正式には「天満宮菜種御供(てんまんぐう なたねのごくう)」という演目で「時平(しへい)の七笑い」という別称があります。
実際の藤原時平は「ときひら」と読みますが、歌舞伎では「しへい」と読みます。
左遷が決まった道真を時平が味方の立場を取り、道真を慰めるます。
本当は、道真を追い落とすためにすべて時平が仕組んだことなのですが、それを微塵も見せず、時平は左遷されてゆく道真に同情し、道真もそれに感謝をしつつ、舞台から退場します。
時平一人の舞台上。
謀略が上手くいったことが愉快でたまらない時平。
1人で不気味に笑い続けます。
この時に7種類の笑い方をすることから「時平の七笑い」と言われるのですが、その七笑いがまさに圧巻でした。
歌舞伎のことはあまりわからない私でも、役者さんのすばらしさ、演技の力がビンビン伝わってきました。
歌舞伎はハードルが高いと思いがちですが、結構面白いですよ。
その時その時に流行っている事柄なども取り入れて、笑いも多くて楽しいです。
良ければ一度観てくださいね。
道真、怨霊になる!
左遷後道長は、大宰府浄妙院で謹慎していましたが、2年後の903年(延喜3年)2月25日、失意のうちに無くなりました。
享年59歳。
道真の死後、京では次々に異変が起こります。
他にも都で疫病が流行ったことなど、すべて道真の祟りだと恐れられました。
朝廷は、道真の怨霊を恐れ、道真の罪を許して死後にもかかわらず、右大臣に復し、正二位を与えました。
道真の子どもたちの流罪も解き、京へ呼び戻しました。
しかし・・・、
道真を罪人にしたほとんどの人が亡くなってしまいました。
道真の怨霊、超強いです!
道真が亡くなって90年後の993年(正歴4年)には、贈正一位左大臣となり、やっと道真の名誉回復ができました。
道真、神になる!
清涼殿落雷の事件により雷神と結び付けられた道真の怨霊を鎮めるため、朝廷は当時火雷神を祀っていた北野の地に北野天満宮を建立しました。
また、道真最期の地大宰府には、道真が葬られた安楽寺を改修し安楽寺天満宮(太宰府天満宮のもとになる)を作り、道真の怨霊を鎮めようとしました。
この後も100年余りの間、天災や異変が起こると、道真の祟りだと恐れられます。
そして雷神を信仰する天神信仰として天神様が全国に広まります。
道真の祟りが次第に忘れられると、学問の才能豊かだった道真にあやかり、天満宮は学問の神様として信仰されるようになりました。
こうして、菅原道真は、怨霊から天神様になりました。
現在は、全国に天満宮がありますがそのどれもが菅原道真をご祭神としています。
怨霊としての力のすごさと同じくらい神様としてもご利益がたくさんいただけるのかもしれませんね。
知っておきたい道真の逸話
学問の神様になった道真は、私たちからは少し遠い存在のように感じるかもしれません。
ここでは道真の人となりがわかる逸話を少し紹介します。
道真の人間性を少し探ってみましょう。
道真は文武両道だった!
学問に秀でたことで有名な道真ですが、実は武芸にも優れていました。
若い頃は、矢を射れば百発百中だったと伝わっていますし、大蛇を矢で射て退治したこともあるそうですよ。
生真面目で堅そうだけど・・・!
平安朝きっての天才のように言われる道真ですが、普通の貴族と同じように生活をし、妾もたくさんいたそうです。
遊女遊びもしていたとか。
結構やわらかい人じゃないですか!
もしかしてこの人に教わった?
子宝に恵まれた人
妾から正室まで、道真は子宝に恵まれた人でした。
古文書によるとなんと23人以上の子供がいたそうです。
エネルギッシュな人ですね。
子孫には「更級日記」の作者、菅原孝標女もいます。
お茶の習慣を世間に広めた
道真はお茶の調査や研究もしていて、お茶の習慣を広めたことから「茶聖菅公」という別称があります。
太宰府天満宮人気のお土産に「梅ヶ枝餅」という和菓子があります。
全く同じものではなかったでしょうが、道真も梅ヶ枝餅を食べたそうです。
なんだかお茶菓子に梅ヶ枝餅をいただいてみたくなりました!