後白河天皇が即位したのは、平氏や源氏が台頭しつつあった平安末期です。
この時代、歴史上には、藤原貴族や武士たちがこれでもかというほど出てくるために、とってもややこしいのです。
誰と誰が味方で、敵か。
昨日は味方だったのに今日は?みたいな。
今まで避けてきたこの時代ですが、一念発起飛び込んでみると、なんだか結構面白い。
ややこしいけれど、様々な人間模様が見えて面白いのです。
中でも後白河天皇は、いろんな面を見せてくれます。
ということで、今回は、後白河天皇の生涯を紹介してみようと思います。
この時代としては、とんでもない長寿(65年)を全うした長~い人生ですが、何とかわかりやすくお話ししたいと思いますので、ぜひ最後までお読みくださいね。
後白河天皇の評価は様々ですが、この記事では私の考える後白河天皇の姿を紹介しています。
あくまでも一つの考え方・見方であることをご理解くださいね。
誕生から青年期まで
大治2年(1127年)9月
後白河天皇は、鳥羽上皇と中宮・藤原璋子(しょうし・たまこ)の第四皇子として誕生しました。
雅仁と命名され、11月には親王になります。
雅仁親王が生まれたときは、曽祖父の白河法皇が権勢をふるっていましたが、2年後に亡くなり、父である鳥羽上皇の院政が始まりました。
この時の天皇は、鳥羽上皇の第一皇子である崇徳天皇です。
母は、雅仁親王と同じ藤原璋子。
鳥羽上皇は、崇徳天皇を璋子と白河上皇の間に生まれた不義の子だと疑っていました。
そのため、崇徳天皇を嫌い、「叔父子」と呼んでいたとも言われています。
同じように、雅仁親王に対しても、鳥羽上皇の愛情は薄かったと考えられます。
一方、第四皇子の雅仁は、皇位継承とは全く無縁だったので、とても気楽な立場でした。
このころにはやっていた今様(今の流行り曲のようなもの)にのめり込んだ雅仁親王は、明けても暮れても今様の稽古をして、喉を傷めるほどだったそうです。
そんな雅仁親王に、周囲の人々はあきれ返っていました。
雅仁親王の知らないところで、皇位継承の戦いが行われます。
院政を開始した鳥羽上皇は、璋子を遠ざけ、藤原得子を寵愛し、体仁という親王が生まれていました。
鳥羽上皇は、崇徳天皇に政権を渡さないための手を打ちます。
鳥羽上皇は、体仁親王を崇徳天皇の養子にすることを条件に、崇徳天皇に体仁親王への譲位を迫りました。
院政を敷くためには、上皇が天皇の父であるという立場が絶対条件でした。
ですので、崇徳天皇の養子となった体仁親王が天皇になれば、崇徳上皇の院政が可能になるのです。
崇徳天皇は、鳥羽上皇の言葉に従いました。
体仁親王はここに近衛天皇となりました。
ところが、近衛天皇は、崇徳上皇の子:皇太子であるはずが、弟:皇太弟のままだったのです。
崇徳上皇は、ただ譲位しただけで、院政もできなくなりました。
鳥羽上皇の院政は続き、雅仁親王の今様三昧の日々も続いていました。
思いもよらない天皇即位
久寿2年(1155年)
近衛天皇がわずか17歳で崩御してしまいました。
そこで候補になったのは、雅仁親王…ではなく彼の子・守仁親王です。
守仁親王を鳥羽法皇(得度して上皇から法皇になっています)の養子にして天皇にすれば、鳥羽法皇の院政は続けられます。
でもなぜ雅仁親王ではないのか。
相変わらず今様に熱中する雅仁親王に、鳥羽上皇もそのほかの人々も彼は天皇の器ではないと考えていたようです。
ですが、父を飛び越えていきなりその息子が即位するというのは、さすがにあからさますぎるという議論でもあったのでしょう。
守仁親王が成長するまでの中継ぎとして、雅仁親王が即位することになりました。
しばらくの間だし、政権は鳥羽法皇が握っているのだから、そんなに問題はないだろうという結論になったのかもしれません。
ここに雅仁親王は、後白河天皇になりました。
このような事態に、おそらく本人が一番驚いていたかもしれませんね。
でも、周りに期待されていないことを自覚していたらしい後白河天皇は、相も変わらず今様に熱中し、真面目に政務に励むことは考えていなかったようです。
鳥羽法皇の政権は、絶対的な安定を迎えたのです。
保元・平治の乱
鳥羽法皇の長い院政が始まると思われたのもつかの間、後白河天皇即位からわずか1年後、鳥羽法皇が崩御しました。
これに反応したのが、完全に政権の外に置かれていた崇徳上皇です。
鳥羽法皇の崩御により、崇徳上皇が院政を行うチャンスが見えてきたのです。
はめられた崇徳上皇
崇徳上皇のもとには、藤原摂関家で家督争いをしていた藤原忠実・頼長父子が接近します。
後白河天皇のもとには、忠実・頼長父子と争っていた頼長の異母兄弟・忠通が接近していました。
後白河側には、とても頭の切れる信西という側近もいました。
保元元年(1156年)7月8日
「忠実・頼長父子が、崇徳上皇を擁し、諸国より兵士を募って、謀反を企てているという噂がある。これを止めさせなさい」
という後白河天皇の綸旨(命令書)が全国の国司に発せられました。
この時点で、崇徳上皇側は、謀反の準備も覚悟もまだできていません。
しかし、もはや挙兵するしかない状況に追い詰められてしまったのです。
保元の乱勃発
7月11日未明
後白河軍が、崇徳上皇側が拠点としていた白川殿を襲撃しました。
兵の数では圧倒的に後白河軍が勝っていたため、崇徳上皇側はあっという間に瓦解しました。
かろうじて逃げだした崇徳上皇ですが、すぐに捕縛されました。
崇徳上皇は讃岐へ流罪となり、味方した主な兵たちは、ことごとく処刑されたのです。
そのころ、後白河天皇は?
保元の乱は、後白河天皇と崇徳上皇の皇位継承争いが中心となった戦いですが、後白河天皇は、この乱の指揮を取っていません。
乱を主導していたのは、藤原忠通と信西でした。
形式的な存在でしかなかった後白河天皇は、乱後の処罰にもほとんど関与していないと考えられます。
保元の乱から2年後、後白河天皇は、予定通り守仁親王(二条天皇)に譲位して、上皇になりました。
後白河上皇となったとはいえ、彼が直接政務に携わることはありませんでした。
政権は、信西が握ったのです。
二条天皇派と後白河上皇派の対立
後白河派の信西が権力を持ったことに反発したのは、二条天皇派です。
鳥羽上皇が本当に皇位を継いでほしかったのは、二条天皇でしたし、後白河上皇のだめだめぶりは朝廷内にしっかり浸透していました。
その上、後白河上皇側でも、信西と藤原信頼(後白河上皇の近臣)が反目していました。
不安定な朝廷の中で、微妙なバランスで立っていた政権は、やがて平治の乱へと向かうのです。
平治の乱勃発
平治元年(1159年)12月9日深夜
藤原信頼は、源義朝の軍勢に後白河院・三条東殿を襲撃させました。
後白河上皇は、二条天皇のいる一本御書所に幽閉され、信西は殺害されます。
信頼は、後白河上皇と二条天皇を監視下に置き、政権を握ったのです。

平治物語より 信西の首がさらされている絵
藤原信頼はなぜ後白河上皇の館を襲った?
信頼は後白河上皇の近臣で後白河上皇にも近しい存在でしたが、それ以上に信西の存在が憎かったのです。
信西を亡きものにして、後白河上皇と二条天皇を自分の手駒にしたかったのだと考えられます。
しかし、政権は信頼の手からすぐに逃げてしまいました。
平清盛の台頭
都の政情異変にいち早く対応したのが、平清盛でした。
平清盛は、保元の乱の時、後白河派について一躍台頭していました。
平治の乱の時には都を離れていたため、急いで戻ってきます。
清盛は、幽閉されていた後白河上皇と二条天皇を助け、藤原信頼と源義朝を追討しました。
これにより、清盛を中心とする平氏一門の地位は一躍高まったのです。
後白河上皇の失脚
平治の乱により、信西と信頼という近臣を失った後白河上皇でしたが、かろうじて政権の一端を握ることができていました。
しかし、中心となって政事を行ったのは、若年ながら聡明な青年に育っていた二条天皇です。
「天皇として政務を司る器にはない」という後白河への評価はいまだに変わっていません。
それは、平清盛も同じことでした。
清盛は、非常にバランス感覚のある人で、常に周りに心配りをして中立を保ちつつ、自分が最も有利になる位置を選ぶ人物でした。
ですので、後白河上皇の政治的な能力は認めていないけれど、その存在価値には一目置いています。
一方、後白河上皇も清盛との結びつきは重要だと考えていました。
そんな時、後白河上皇は、平滋子という女性に一目ぼれします。
滋子は、清盛の妻・時子の異母妹にあたるため、後白河上皇と平家とのつながりは(清盛の望みとは裏腹に)ぐんと強くなりました。
やがて滋子は、男児を産みます。
後白河上皇は、この子を皇太子にするように動きますが、その計画はすぐに二条天皇側にばれてしまいました。
清盛も後白河の計画には反発し、結局後白河は政治の場から排除されてしまいました。
清盛に頼る後白河
これ以後約4年の間、後白河上皇は政権から遠ざかります。
その間、後白河は仏教にのめり込んでゆきました。
比叡山延暦寺や日吉神社へ度々参詣し、特に紀州の熊野詣は生涯で34回にもなります。
車も電車も飛行機もない時代、徒歩で紀州和歌山まで、何と34回も行っているのは、後にも先にも後白河上皇だけです。
その大変さは、後白河自身も身にしみてわかっていたため、京の都に熊野権現を勧請した社をいくつも建立させています。

後白河天皇が熊野権現を勧請して建立された新熊野神社 京都フリー写真素材
また、後白河上皇の住まいである法住寺殿の敷地内には、千体の観音像をお祀りした蓮華王院(三十三間堂)を建立しました。

蓮華王院三十三間堂
これらの寺社建立の背景には、清盛からの大きな資金援助がありました。
政権から遠ざかっている後白河でしたが、清盛は完全に後白河との縁を絶つことはしませんでした。
無駄な敵を作らないのが清盛のモットーですから、当然と言えば当然ですが、それにしてもすごい資金力です。
そんなこんなで、政治からはのけ者にされていた後白河上皇は、それなりに好きに生きていたとも言えますね。
後白河の院政、復活!
永万元年(1165年)6月25日
二条天皇が病気のため、崩御しました。
その間際に二条天皇の子・順仁親王へ譲位し、六条天皇が即位します。
しかし、六条天皇は、まだ1歳にもならない乳飲み子でした。
天皇を補佐する摂関家・藤原氏にも力のある人物はいません。
すると…棚ぼた式に政権が後白河上皇のところに戻ってきたのです。
平清盛も、今回は後白河上皇に付くしかありませんでした。
翌年10月
後白河は、滋子との間に生まれた子・憲仁親王を皇太子にします。
仁安3年(1168年)2月
六条天皇を譲位させ、憲仁親王が即位、高倉天皇となります。
息子が天皇となったことで、後白河上皇の院政が改めて開始されました。
翌年、後白河上皇は出家して、後白河法皇となりました。
後白河と平家
高倉天皇の実母・平滋子は、皇太后となり、建春門院と呼ばれるようになります。
天皇の秘書的な位置の蔵人頭には、清盛の弟・教盛と滋子の叔父・信範が就任。
天皇の側近は、平家一門で固められていったのです。
清盛は、次に娘の徳子を高倉天皇へ入内させようとしました。
もし、徳子と高倉天皇との間に、男児が生まれれば、清盛は天皇の外祖父となり、平家の力が絶大なものになるのです。
そうなると後白河の存在は、平家の権力増大にとって必要がなくなります。
さすがの後白河もこの提案にはいい顔をしません。
しかし、ここで後白河の背中を押したのは、後白河が寵愛する建春門院滋子です。
建春門院は、非常に美しいうえに頭が良く、清盛と後白河の微妙な関係をうまく調整していました。
彼女に頼まれると断れない後白河は、徳子の入内も結局認めたのです。
これで平家の隆盛は約束されたようなものでした。
好奇心旺盛な後白河
朝廷内での平家の立場が安定したことに安心したのか、清盛は、政界の表舞台から引退します。
息子の重盛に家督を譲ると、京を離れ、福原(現・兵庫県神戸市兵庫区周辺)へ移り住みました。
そして、大輪田泊(現・神戸港西部)を整備して、日宋貿易を始めたのです。

今の神戸港
これにより、平家は大きな利益を得ます。
平家との密な関係を維持したい後白河は、清盛の日宋貿易にも口を挟まず、逆に積極的に知りたがっていたようです。
他の天皇や貴族とは一味違った後白河法皇の逸話が残っています。
日宋貿易を始め、福原に宋人までやってくるようになっていたころ、清盛は、後白河を福原へ招いています。
近臣の招きに応じて、天皇や上皇が都を離れるなど前代未聞のことです。
その上、後白河は宋人にも会っているのです。
当時の日本は極めて排他的で閉鎖的でした。
貴族たちは、唐物は珍重し、喜んで買うのですが、外国人に対しては、卑しい存在だという認識でした。
そんな外国人に、天皇の父たる後白河が面会しているのです。
それを聞いた貴族の九条兼実は日記に「まさに天魔の所業だ」とまで書いています。
後白河法皇には、そのような一般常識はどうも通じなかったようです。
というか、それ以上に好奇心が勝ったのです。
後白河の好奇心旺盛なばかりに起こした行動は、ほかにもあります。
謀反人が処罰され、首がさらされると、お忍びで見物に行ったり、賀茂祭(葵祭)をお忍びで見に行っています。
また、芸能に関しても熱中しています。
もっとものめり込んだ今様は「梁塵秘抄」という本を出すほど追及しています。
今様というのは、庶民から貴族まで幅広い層に愛された芸能で、今ならポップスに当たるでしょうか。
後白河は、絵にも興味を示しています。
有名な「信貴山縁起絵巻」や「伴大納言絵巻」なども後白河の指示で作られました。

信貴山縁起絵巻 空を飛ぶ穀倉の絵
政治の世界では、もう一つだった後白河ですが、趣味の世界では水を得た魚のように生き生きしているようです。
ですが、後白河法皇という立場は、彼を趣味の世界に没頭させませんでした。