平安時代末期、貴族中心の政権から武家政権へ移行するきっかけを作ったのが、貴族の下で働いていた武将たちでした。
その一人・平清盛は、後白河法皇との関係の中で、次第に勢力を強め、武家による政権への道筋を作りました。
この時代は、朝廷や平氏、源氏など多くの人物が入り乱れて、とてもややこしいので、正直なところ、苦手な時代です。
でも調べていくうちに、だんだんと興味が深くなってきました。
教科書でもおなじみの平清盛、本当はいったいどんな人だったのか、ちょっと気になりませんか?
今回は、出来るだけわかりやすくお話ししようと思いますので、この時代がちょっと苦手だという方も、ぜひお読みくださいね。
平清盛 平氏の棟梁から武士の棟梁へ
清盛の生涯を3つの時期に分けて紹介しますので、時代の流れとともに彼の生きざまに思いを馳せてみてください。
早すぎる出世の裏には?
元永元年(1118年)
平清盛は、伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれました。
誕生したところは、京都であったというのが最も有力です。
一説には、白河法皇の寵愛を受けていた祇園女御が清盛の父・忠盛に下賜され、その後生まれたのが清盛で、彼は白河院御落胤であると言われています。
真実のほどはわかりませんが、のちに述べるように当時の武士には考えられないような出世をしているところ、そして祇園女御の庇護を受けていたことから、白河院の子ではないかと考えられる要因の一つとなっています。
大治4年(1129年)
わずか12歳(数え年)で従五位下・左兵衛佐に任命されます。
当時の貴族たちも、清盛の早すぎる出世に驚いていました。
保延3年(1137年)
肥後守に任じられます。
父・忠盛は、白河院によく仕え、その父と祇園女御の庇護のもと、清盛も順調に出世の道を進んでいました。
ところが清盛の昇進に暗雲が垂れ込めます。
祇園社乱闘事件
久安3年(1147年)6月15日
清盛は宿願成就を祈願し、祇園社(八坂神社)に田楽を奉納しようと楽人(演奏家)を連れてやってきました。
その時、楽人を護衛していた清盛の郎党たちに、祇園社が武装解除をするように求めます。
それに反発した郎党たちと神官たちが小競り合いとなり、郎党の放った矢が宝殿に当たり、負傷者も出てしまったのです。

今の八坂神社(祇園社)
祇園社の本寺であった延暦寺は、忠盛・清盛父子の配流を求めて、強訴しました。
強訴(ごうそ)とは、寺社が神輿や神木などを担ぎ出して洛中に乗り込み、強引に要求を通そうとするこです
鳥羽法皇は、何とか延暦寺をなだめ、清盛の罰金刑だけで済ませました。
しかし、清盛はこれ以降しばらく謹慎させられていたようです。
平氏の棟梁に
仁平3年(1153年)
父・忠盛死去により、清盛が平氏一門の棟梁になります。
清盛は、嫡子となっていましたが、忠盛の正室・宗子との間に家盛という息子もいました。
祇園社の事件以降、家盛が次第に頭角を現し、忠盛の跡を継ぐのではないかとみられていたのですが、久安5年(1149年)に家盛が急死します。
その結果、家督を継ぐのは清盛が最も有力となったのです。
家盛は、死の直前まで健康だったことから、謀殺されたのではという説もあります。
清盛が直接手を下したことは考えにくいですが、清盛の周辺にそのような計画があったのかもしれません
保元の乱
保元元年(1156年)
鳥羽法皇の子・崇徳上皇と後白河天皇の争いに、藤原摂関家の家督争いという問題に、平氏と源氏の武士たちが力を貸すという形で起こったのが、保元の乱です。

崇徳上皇
清盛は、のちに争うことになる源義朝とともに、後白河天皇側につき、勝利しました。
この乱で、崇徳上皇側についた清盛の叔父・平忠正は斬首されますが、後白河天皇の側近・信西の命により、実行したのは清盛自身でした。
恩賞として、清盛は播磨守に任ぜられ、知行国4ヶ国を与えられます。
2年後には、九州大宰府の実質的な権力者である大宰大弐に任ぜられ、父・忠盛の頃から行われていた日宋貿易が一層盛んになりました。
日宋貿易
当時の中国・宋との貿易。平氏は、日宋貿易により、多大な財を得ていました
平治の乱
平治元年(1159年)
後白河天皇が、息子の二条天皇に譲位し、院政を行うようになると、側近の信西が大きな権力を持つようになります。
すると、日に日に信西の独裁が強くなってきたため、周囲からの反感も強くなっていきました。
また、保元の乱で清盛とともに戦って勝利した源義朝は、
・清盛よりも恩賞が少なかった
・敵方についたために自ら処刑をしなければならなかった身内も清盛よりも多かった(義朝の父・為義を始め、兄弟6人が処刑されている)
ことなどから、非常に大きな不満を持っていました。
後白河上皇の近臣たちは、清盛が熊野詣に出かけている時を狙い、義朝とともにクーデターを起こします。
後白河上皇と二条天皇を幽閉、信西を自害へ追いやりますが、知らせを聞いた清盛はすぐに京へ戻り、反撃を開始。

平治物語より 信西の首がさらされている絵
後白河上皇と二条天皇を救い出すと、義朝との合戦に挑み、勝利しました。
近臣たちは処刑・処分され、義朝は、関東へ逃亡しますが、途中でつかまって殺されました。
義朝の嫡子・頼朝は、逃げる途中でつかまり京へ連れ戻されますが、命は助けられ、伊豆へ流罪となりました。
源氏は事実上、京から排除され、清盛は武家の棟梁となるのです。
平家全盛の時代へ
保元の乱・平治の乱により、貴族の争いには武士の力が不可欠だということが証明され、次第に武士の権力が大きくなってきます。
盤石な政権へのスタート
永歴元年(1160年)
清盛は、参議を任ぜられ、武士として初めての公卿になりました。
ここから朝廷の軍事・警察力を掌握したことで、来る武家政権への基礎を築くのです。
その後も清盛は、検非違使別当・権中納言・権大納言そして太政大臣へと昇り詰めることになります。
応保元年(1155年)
後白河上皇と清盛の妻の妹・平滋子との間に憲仁親王(後の高倉天皇)が生まれます。
後白河上皇は、憲仁親王を次の天皇にするために皇太子にしようとしましたが、これが二条天皇にばれてしまいます。
二条天皇は、若年ながら非常に聡明で、後白河上皇の院政を許しながら、自身も政務を行っていました。
後白河上皇の動きを警戒した二条天皇は、後白河上皇の院政を停止します。
清盛は、二条天皇の御所を警護させることで、二条天皇への支持をほのめかす一方で、後白河上皇に対しても、しっかりとフォローしています。
清盛は、バランス感覚に優れ、立ち位置をしっかりと見定める能力の高い人だったようです。
見ようによってはどっちつかずのようなのですが、朝廷の権力がしっかりと定まっていない時期には、清盛のような立ち振る舞いの方が生き残れたのではないでしょうか。
長寛2年(1164年)
清盛は、後白河上皇のために蓮華王院(三十三間堂)を造営します。
また、熊野信仰の篤い後白河上皇のために、熊野権現を勧請した寺社なども建立しています。
これらの費用は、日宋貿易などで大きな利益を得ていた平家が負担していました。
同じ時期に清盛は、33巻のお経を写経させ、平氏が信仰していた厳島神社に納めています。
美しい絵画や金箔銀箔で彩られたお経は、平家納経と呼ばれ、現在は国宝に指定されています。

平家納経の一部
長寛3年(1165年)7月
後白河上皇を警戒し、精力的に政務に当たっていた二条天皇が崩御します。
崩御間際に息子の順仁親王に譲位したため、1歳にもならない幼すぎる六条天皇が即位しました。
これにより、院政を停止させられていた後白河上皇が再び政治の場に立ち、清盛も上皇に従う形を取ります。
永万2年(1166年)10月
滋子の子・憲仁親王が皇太子になり、それを補佐する清盛は春宮大夫、そして内大臣になりました。
名実ともに、政権の中心を担う清盛は、まさに絶頂期だったと言えます。
翌年には、太政大臣になった清盛ですが、3ヶ月で辞任し、表向きは引退という形を取りました。
後を継いだのは、嫡子・重盛。
これは、平家の栄華がこれからも続くための布石として、清盛があえて一線から退いたのではないかと考えられます。
実際これ以降も数年間は、平家の全盛期が続き「平家にあらずんば人にあらず」by平時忠(清盛継室・時子の弟)とまで言わしめるようになります。
福原隠棲
仁安3年(1168年)
清盛は、病に倒れます。
原因は寄生虫による病気だったようですが、死を覚悟した清盛は、出家しました。
後白河上皇は、清盛死後の政情不安を考え、(おそらく病床の清盛と相談したうえで)六条天皇から憲仁親王への譲位を急ぎ、高倉天皇として即位しました。
しかし、清盛は驚異の回復力で蘇ります。
その後は、福原(現・神戸市)に別荘を建てて隠居し、日宋貿易と厳島神社の整備などに力を注ぐようになってゆきました。
嘉応元年(1169年)
後白河上皇は、出家して法皇となります。
この時期には、清盛が後白河法皇とともに東大寺で受戒したり、後白河法皇が清盛の住む福原を訪れたりと、まだ両者の関係は良好でした。
承安元年(1171年)
清盛の娘・徳子が高倉天皇の中宮(妻)となりました。
後白河法皇と清盛の姪・滋子との間に生まれたのが、高倉天皇。
もし、高倉天皇と徳子の間に皇子が誕生すれば、清盛は外戚として、政治の最高権力者になれるのです。
平家はこのままどんどん栄えていくように見えました。
安元2年(1176年)
後白河法皇の寵愛を受けていた滋子が、突然病に倒れました。
様々な治療、加持祈祷が行われましたが、滋子の病状は悪化の一途をたどります。
発病からわずか1ヶ月後、滋子は帰らぬ人となり、後白河法皇は悲しみのどん底に落とされました。