この人が祟らなければ今の京都はなかった⁉悲運の貴公子早良親王の生涯とは?

奈良時代歴史人物

日本には、三大怨霊としておそれられた人々がいます。

平将門
菅原道真
崇徳天皇

しかし、この三人に勝るとも劣らないほど恐れられた人がいました。

それが、早良親王(さわらしんのう)です。

実は、早良親王の恐ろしい祟りがなければ、京に都は移されなかったのです。

ですので今の京都があるのは、早良親王のおかげだともいえるのです。

今日は、早良親王の

  • 生涯
  • なぜ怨霊になったのか
  • 平安遷都との関係

などについてわかりやすくお話しします。

平安京の姿を決定づけた一人ともいえる早良親王、ぜひあなたも知ってくださいね。

 

早良親王の生い立ちからその最期まで

早良親王は、天平勝宝2年(750年)に誕生したと言われています。

父は第49代天皇の光仁天皇、母は百済系渡来人氏族の出身である高野新笠です。

同母兄に山部親王(のちの桓武天皇)がいます。

早良親王、出家する

母が低い身分だった早良親王は、父光仁天皇の後継ぎとされること(立太子)はなく、11歳で出家しています。

数年後には、東大寺羂索院や大安寺東院に住むようになり、「親王禅師」と呼ばれ、東大寺を中心とした南都寺院の中で大きな力を持つようになっていました。

早良親王、皇太弟になる

天応元年(781年)兄の山部親王が即位する(桓武天皇)と、父光仁天皇の勧めにより、還俗して、皇太弟となります。

この頃、桓武天皇にはすでに後継ぎである安殿親王が生まれていましたが、桓武天皇が崩御した場合に幼い親王が即位すると混乱をきたす恐れがありました。

それを回避するという目的から、早良親王が立太子されたようです。

そして、延暦3年(784年)桓武天皇は、平城京から長岡京へ遷都しました。

長岡京大極殿跡

長岡京大極殿跡

早良親王、捕まる

政治への影響力が大きくなりすぎていた南都寺院の排除が、長岡京遷都の理由の一つでした。

東大寺

東大寺(南都寺院の中心的存在)

しかし、遷都間もなくの延暦4年9月23日、造長岡宮使の藤原種継が何者かに暗殺されてしまいます。

暗殺を計画・実行したとして、大友竹良・大友継人・佐伯高成など数十名が捕らわれて処刑されました。

実はこれらの人は、皇太弟である早良親王に仕える人たちだったのです。そのため、早良親王が暗殺計画に関わっているとされ、捕らえられました。

早良親王は、実の兄桓武天皇により長岡京の乙訓寺に幽閉されます。

一貫して無実を訴える早良親王ですが、淡路国への配流が決定しました。

早良親王、憤死

一切の食を絶ち、無実を訴え続ける早良親王でしたが、淡路国へ配流される道中、河内国高瀬橋付近(現在の大阪府守口市高瀬神社付近)で亡くなりました。

享年35歳、延暦4年(785年)9月28日のことでした。

実際のところ早良親王が藤原種継暗殺に関わっていたかどうかは、わかっていませんが、亡くなってもなお都に返されることなく、遺体は配流先の淡路国で埋葬されたと言います。

早良親王は、南都寺院との関係が深く権力もあったことから、朝廷が意図的に食事を与えずに餓死させたという説もあります。

早良親王、怨霊になる!

早良親王の死後、皇太子には桓武天皇の第1皇子安殿親王(平城天皇)がなりました。

しかし間もなく安殿親王は、原因不明の病に侵されます。

そして数年の間に、桓武天皇の周りで忌まわしい出来事が次々に起こります。

桓武天皇の妃藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子が病死

桓武天皇と早良親王の母高野新笠が病死

九州の霧島山が噴火

度々の地震

日照りによる飢饉

疫病の大流行

洪水

長引く安殿親王の病の原因を陰陽寮に占わせると、「早良親王の怨霊による」ものだと判明、直ちに怨霊を鎮める鎮魂の儀式が行われますが、度重なる禍に恐れ、桓武天皇は長岡京を離れる決意をします。

長岡京から平安京へ

長岡京遷都からわずか10年、延暦13年(794年)桓武天皇は、長岡京を離れ、平安京へ遷都します。

平安神宮

平安京遷都に際し、早良親王の鎮魂が念入りに行われましたが、災いは続きます。

延暦19年(800年)には、早良親王の遺体は淡路国から大和国へ移葬され、「崇道天皇」と追称されました。

その後も桓武天皇らは、早良親王の怨霊におびえ続け、平安京を禍から守ろうとしました。

京都にある寺院には、怨霊を鎮めるという目的を持ったものが多くあるのもそのためです。

「怨霊を鎮め、祀ることにより、都に平安をもたらす」

平安京の頃からの願いが現在の京の町にも繋がっているのです。

早良親王、祀られる!

怨霊となった早良親王を鎮めるために、京をはじめとする各地に御霊神社が建てられました。

崇道神社

洛北の上高野西明寺山のふもとにあるのが、崇道神社です。

出典:京都フリー写真素材集

平安時代には、都の鬼門に当たる場所であるとともに、若狭北陸へ続く鯖街道沿いにあります。

早良親王だけを祀った唯一の神社で、創建は貞観年間(859~877年)と言われています。

未だに京都一こわい神社と言われ、お参りに来る人はあまり多くありません。

一の鳥居から参道を通り本殿へ向かう道も鬱蒼とした森のようで、昼間でも少し怖い感じがします。

でも早良親王は、神としてこの地で都を守っていてくださるのです。

一度訪れてみてください。

ただし、できれば夏の方がいいですよ。冬はより一層寒い…。

上御霊神社

延暦13年(794年)に桓武天皇が、早良親王と光仁天皇の妃だった井上内親王らの怨霊を鎮めるために建立しました。

出典:京都フリー写真素材集

井上内親王は、光仁天皇を呪詛した疑いで皇后を廃され、子他戸親王(皇太子を廃される)と共に大和国宇智郡(現在の奈良県五条市)に幽閉され、死去しています。

その後天災が相次いだため、二人が怨霊になり祟っていると恐れられていました。

上御霊神社には、他にも平安初期に悲運の最期を遂げた人々(藤原吉子・橘逸勢・文屋宮田麿・吉備真備など)計13柱の怨霊が祀られています。

また、上御霊神社は、応仁の乱の際には東軍の畠山政長が陣を張った場所で、「応仁の乱勃発の地」の碑が立っています。

下御霊神社

出典:京都フリー写真素材集

京都御所の南東角にあり、以下の8柱の御霊と天中柱皇神が祀られています。

  • 早良親王
  • 吉備聖霊(吉備真備とは別人)
  • 伊予親王と藤原吉子(伊予親王の母)
  • 橘逸勢
  • 文屋宮田麿
  • 藤原廣嗣
  • 火雷天神(六座の御霊の荒魂)
  • 天中柱皇神:霊元天皇

藤森神社

京都市伏見区にある藤森神社は、勝運・学問・馬の神様として有名ですが、こちらの西殿には、早良親王・伊予親王・井上内親王の3柱が祀られています。

毎年5月5日の藤森祭では、早良親王が蝦夷征討の際、こちらの神社で戦勝を祈願したことにちなみ、駆馬神事と早良親王東征の扮装をした行列が行われます。

早良親王、映画に登場!

早良親王が主人公の小説や映画は、ほとんど見かけませんが、印象に残っているのはこちらですね。

「陰陽師」2001年公開 原作夢枕獏

野村萬斎さんが安倍晴明を演じ、伊藤英明さんが相棒の源博雅、真田広之さんがライバルの道尊を演じたとても面白い作品でした。

早良親王の無念を利用して、都を混乱させようとする道尊とそれを阻止する晴明のバトルはとても迫力がありました。

この映画では、萩原聖人さんが早良親王を演じ、桓武天皇を木下ほうかさんが演じていました。

切なく哀しい早良親王の懊悩にウルウルします。

これ以上お話しするとネタバレしちゃうので、ここまでです。

興味のある人は、一度ご覧くださいね。

今日は早良親王についてお話ししました。

平安京の昔には、特に怨霊を恐れる人々が多く、政争に巻き込まれて無念の死を遂げた人たちが何柱もの怨霊になり、御霊として祀られています。

京都巡りをするときには、御霊をテーマにして周ってみるのも、また違った京の風景が見えてくるかもしれませんよ。

 


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