新選組の歴史がわかる!結成から終焉までを一気に解説します(年表付き)

歴史人物

今回は、新選組が誕生してからの約5年間を中心として紹介します。

幕末に詳しくない方にもわかりやすく、興味深い逸話も織り交ぜつつ、いつものように私の独断と偏見も入った楽しい記事になっていますので、ぜひ最後までご覧ください。

まず初めに新選組の主な歴史を年表で紹介し、後の章でそれぞれの出来事を詳しく解説しています。

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新選組の誕生から終焉まで

和暦西暦  新選組関連の出来事その頃の世情
文久3年1863年2月8日 近藤勇率いる試衛館メンバーが浪士組として江戸を出立
2月23日 浪士組が京に到着
2月24日 清河八郎が朝廷へ建白書を提出
3月13日 浪士組が江戸へ帰る。試衛館メンバーほか数名が京に残り、のち会津お預かりとなる4月13日 江戸で清河八郎が暗殺される
4月16日 会津藩主松平容保の御前で武術披露
8月18日 八月十八日の政変に出陣禁門の変により長州勢と尊攘急進派の公家が追放される
  隊名を「新選組」に変える
9月14日 局長新見錦切腹
9月16日 局長芹沢鴨らが暗殺される
元治元年1864年6月5日 池田屋事件池田屋にて浪士が多数捕縛される
6月10日 明保野亭事件7月11日 佐久間象山暗殺
7月17日 蛤御門の変長州藩と会津・薩摩藩が御所で激突
8月 永倉新八らが近藤批判
9月  伊東甲子太郎の入隊
慶応元年1865年2月23日 山南敬助切腹
3月 屯所を西本願寺へ移す
慶応2年1866年1月22日 薩長同盟成立
7月20日 将軍家茂死去
8月・9月 三条大橋制札事件
12月25日 孝明天皇崩御
慶応3年1867年1月1~3日 永倉新八・斎藤一が伊東甲子太郎とともに島原に居続け、処分される
3月20日 伊東甲子太郎一派が新選組から分離
6月10日 新選組が幕府直参になる
6月15日 屯所を不動堂村に移す10月14日 大政奉還
11月18日 伊東甲子太郎暗殺11月15日 坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺
12月18日 近藤勇狙撃される12月9日 王政復古の大号令
慶応4年1868年1月3日 鳥羽伏見の戦い戊辰戦争勃発
1月7日 新選組 江戸へ敗走徳川慶喜が大坂城から抜け出す
3月6日 甲州勝沼の戦い
土方歳三らが会津へ向かう4月11日 江戸城無血開城
4月25日 近藤勇斬首
閏5月30日 沖田総司病死
8月 会津戦争
明治元年1868年10月 土方歳三ら旧幕府軍が蝦夷へ向かう9月8日 明治に改元される
10月26日 旧幕府軍 五稜郭占領
11月 松前藩攻略
12月15日 土方が陸軍奉行並及び箱館市中取締役に選任される
明治2年1869年3月25日 宮古湾海戦
4月 二股口攻防戦
5月11日 土方歳三戦死
5月18日 五稜郭政府降伏戊辰戦争終結

以上、新選組の歴史を結成から副長・土方歳三の死による終焉までを紹介しました。

ここからは、主な出来事をピックアップして解説します。

まずは、文久3年(1863年)新選組が結成された年からです。

文久3年 新選組結成

新選組の主要メンバーは、近藤勇率いる試衛館の面々と水戸脱藩浪士・芹沢鴨一派です。
どちらも清河八郎の画策により、幕府が募集した浪士組に参加し、京へ上りました。

浪士組とは?

浪士組は、将軍が上洛するにあたり、京の治安維持を図るために結成を決めたもので、発案者は清河八郎という庄内出身の活動家でした。

清河八郎

身分に関係なく、尽忠報国(忠義を尽くして国・幕府の恩に報いる)の志を持った者たちによる将軍警護の隊が、当初清河が唱えた浪士組の形です。

近藤勇や土方歳三らは、将軍家への忠誠心が強かった武州多摩の出身ということもあり、さっそく浪士組に参加を決めます。

試衛館の内弟子だった沖田総司や井上源三郎の他、近藤を慕って集っていた山南敬助・永倉新八・藤堂平助・原田左之助もともに浪士組に参加しました。

水戸脱藩浪士・芹沢鴨(せりざわかも)

芹沢鴨は、尊王攘夷の思想が強い水戸藩出身です。

芹沢自身も、過激な尊王攘夷派と言われていた「水戸天狗派」の一員とされています。

尊王攘夷とは、天皇と貴び、天皇のために夷敵(異国)を倒すという考え方ですが、徳川幕府御三家である水戸藩の場合は、天皇とともに幕府をも重んじる思想でした。

芹沢が将軍を警護する浪士組に参加したのも、自然の流れだったのです。

清河八郎の裏切り

浪士組が無事京都に入り、洛西の壬生へ落ち着いたその夜、本陣の新徳寺において清河八郎は浪士たちを前に、とんでもないことを言い出したのです。

「我々の本当の目的は、将軍家を警護するのではなく、天皇の軍隊となって攘夷を決行することだ!」

つまり、幕府のお金を使って京へやってきたのは、幕府のためではなく天皇のために働くためだというのです。

難しい言葉で演説する清河の意図をすぐに理解できる浪士は少なく、その場では大きないさかいが起こっていません。

新徳寺 新選組

浪士組の本部だった新徳寺

清河はすぐに朝廷へ建白書を提出し、朝廷軍として従うことへの許しを願っています。

そして、後日再び浪士組を集め、攘夷決行のために江戸へ戻ると宣言したのです。

京に残った浪士たち

ここで、清河の言葉に異を唱え、将軍を守ることを目的として、京に残留すると決めた浪士がいました。

それが近藤率いる試衛館メンバーと芹沢鴨率いる一派だったのです。

京の治安維持を行うことにこだわる彼らは、江戸へ帰る浪士組と袂を分かち、壬生村へ残ることになります。

奇しくも近藤一派と芹沢一派は同じ八木邸を宿舎としていたため、八木家は以後数年間彼らのために邸内を貸すことになったのです。

八木邸

彼らは、京都守護職会津藩を頼ります。

京の治安維持を行うための人数確保に困っていた会津藩は、彼らを臨時雇用という形で迎えました。

たとえ臨時でも会津藩お預かり・壬生浪士組となった彼らの身分は、武士といってもよいでしょう。

農民出身で武士になるのが念願だった近藤や土方は、ここにそれを実現させたのです。

彼らは、会津藩とともに幕末の動乱を走りぬくことになります。

京に残ったのは何人だったのか

浪士組から分離し、京に残留した浪士の人数は、本当のところ何人だったのか。

会津藩に提出した嘆願書には、17名の名が記されています。

記載順に並べてみると、次の通りです。

芹沢鴨・近藤勇・新見錦(にいみにしき)・粕谷(かすや)新五郎・平山五郎・山南敬助・沖田総司・野口健司・土方歳三・原田左之助・平間重助・藤堂平助・井上源三郎・永倉新八・斎藤一・佐伯又三郎・阿比留鋭三郎(あびるえいざぶろう)

この中の斎藤一という人物は、実は浪士組には参加していません。

ですが、試衛館一派とは旧知の仲だったと言われ、ある理由で京に滞在していた斎藤が近藤らに合流したのでしょう。

この17名以外にも京に残留していた浪士がいますが、近藤・芹沢という主流派との対立などにより、ほとんどが江戸へ帰ったり、暗殺されたりしています。

会津藩主・松平容保の御前で晴れ舞台を飾る

4月16日の昼過ぎ、壬生浪士組は黒谷金戒光明寺の会津藩本陣へ向かいました。

金戒光明寺

彼ら一同は、会津藩主・松平容保に謁見後、上覧稽古を申し付かったのです。

容保の御前で、剣術の稽古を披露するという名誉に預かった彼らの心中はどのようなものだったか、今の私たちに想像できないほどの高揚感と緊張感だったはずです。

上覧稽古のメンバーに選ばれたのは、

  • 土方歳三・藤堂平助
  • 永倉新八・斎藤一
  • 平山五郎・佐伯又三郎
  • 山南敬助・沖田総司
  • 川島勝司(棒術)
  • 佐々木愛次郎・佐々木内蔵之丞(柔術)

以上11名でした。

秋山香乃さんの『歳三往きて また』の冒頭には、土方・藤堂の上覧稽古の様子が描かれています。

この本の主人公は土方歳三で、物語自体はすでに藤堂平助は亡くなった後から始まるのですが、回想シーンとして登場する2人の上覧稽古は、とても美しくて一気に引き込まれます。

興味のある方は、ぜひご一読を。

壬生浪士組の組織図

新しく浪士を募集したことで、壬生浪士組は隊士が日々増加し、組織としての体制を整える必要が出てきました。

永倉新八が残した記録によると、主な役職は次の通りとなっています。

局長:芹沢鴨・近藤勇・新見錦(のちに副長に降格とも)
副長:山南敬助・土方歳三
助勤(組頭とも):沖田総司・永倉新八・原田左之助・藤堂平助・井上源三郎・平山五郎・野口健司・平間重助・斎藤一・尾形俊太郎・山崎烝・谷三十郎・松原忠司・安藤早太郎
調役:島田魁・川島勝司・林信太朗
勘定方:岸島芳太郎・尾関弥四郎・河合耆三郎・酒井兵庫

八月十八日の政変

文久3年8月18日未明、武装した会津藩兵・薩摩藩兵が御所の門を固め、長州藩を締め出すという事態が起こります。

この日は、攘夷決行を前に天皇が大和行幸を行う予定でした。

大和行幸に併せて、過激な討幕攘夷思想を持つ天誅組が、天皇を擁して討幕の挙兵を図っていたのです。

しかし、会津藩と薩摩藩に先手を打たれ、長州勢と尊王攘夷急進派の三条実美(さんじょうさねとみ)ら7人の公卿が京から一掃されました。

壬生浪士組にも、会津藩より動員命令が出され、御所へ出陣しています。

蛤御門

御所 蛤御門

ただ、お預かりという身分のせいで、会津藩士にもまだ彼らのことは周知されておらず、蛤御門を通る際には、会津藩兵に身分を問われています。

それでも御所の御花畑門をしっかりと守護したことで、のちに会津藩の伝統ある精鋭部隊の名称である「新選組」という名を与えられたのです。

新見錦の切腹

順調に隊としての活動を進めていたように見える新選組でしたが、乱暴狼藉を働く芹沢一派のせいで隊の評判は日に日に落ちていました。

新選組を預かる松平容保の耳にまで、その悪評が届く事態に陥ると、もう見過ごすことはできなくなります。

会津藩より密かに芹沢一派の一掃をほのめかされた近藤たちは、まず芹沢の片腕である新見錦をターゲットにしました。

新見は、時には芹沢ですら手を焼くほどに横暴を繰り返していたこともあり、祇園「山の緒」に居るところを急襲した土方らにより、隊の掟に照らして切腹をさせた…ことになっていますが、おそらくは無理やり腹を斬らせたのだと思われます。

隊の掟とは?

新選組の掟と言えば、有名な「局中法度」を思い浮かべるのではないでしょうか。

しかし、「局中法度」という名は、子母澤寛氏の創作であり、実在していなかったというのです。

永倉新八が残した『新撰組顛末記』には、

一、士道をそむくこと
二、局を脱すること
三、勝手に金策をいたすこと
四、勝手に訴訟を取り扱うこと
この四か条を背くときは切腹を申しつくること

という禁令、法令が記されています。

「局中法度」という名ではないものの、その内容はやはり非常に厳格な隊規だったのです。

芹沢鴨暗殺

新見錦が切腹させられて、わずか2日後。

今度は芹沢鴨が何者かに暗殺されました。

この日は、禁門の変の働きに対する会津藩からの褒美を受けて、島原において宴会が行われています。

島原 角屋

例のごとく浴びるように酒を飲む芹沢たちをしり目に、土方・山南・沖田・原田(諸説あり)は、壬生の屯所へ戻ります。

芹沢・平間重助・平山五郎の3人は、それぞれの愛妾とともに屯所へ戻り、酔いつぶれて寝てしまいます。

深夜八木邸へ侵入した土方らは、芹沢とその妾お梅、平山を斬殺、平間は愛妾とともに逃亡し、行方知れずとなりました。

表向きは芹沢らは長州浪士らに暗殺されたと報告され、屯所では近藤を喪主とした盛大な葬儀が執り行われます。

以後、残りの芹沢派も年末までに一掃され、新選組は近藤派の手に握られることになるのです。

そしてよく元治元年、新選組を一躍有名にした池田屋事件が起こります。

元治元年(1864年) 新選組飛翔

元治元年は、新選組にとってまさに飛躍の年となります。

京の治安維持という仕事を地道に勤めてきた彼らに晴れの舞台が待っていたのです。

池田屋事件

元治元年6月5日未明。

新選組は、四条小橋近くの桝屋という炭薪商の主人を捕縛します。

島田魁・山崎烝ら探索方の調査により、枡屋は尊攘派志士の集会所となっているという情報があったからです。

古高俊太郎 新選組

枡屋跡

枡屋の正体は、古高俊太郎という志士でした。

屯所での厳しい拷問により得られた情報は、驚くべきものだったのです。

「来る6月20日前後の風の強い日を選び、御所の風上に火を放つ。その混乱に乗じて中川宮朝彦親王(公武合体派の公家)を幽閉し、松平容保を暗殺し、天皇を長州へ連れ去る」

常軌を逸した計画に近藤たちも驚き、会津藩へ連絡をします。

市中に潜む不逞浪士どもを一刻も早く捕えるためには、新選組だけでは人数不足だったからです。

さらに調べを進めると、古高を奪われたことを知った浪士たちが、協議を行うために急ぎ集会を行うということを突き止めます。

新選組は会津藩とともに、彼らを捕縛すべく、祇園会所(八坂神社前)で待ち合わせをしますが、会津藩兵はなかなか現れません。

「このままでは、浪士を一網打尽にする機会を逃してしまう」

近藤は、自分たちだけで捕縛に向かうことを決めました。

近藤隊10名と土方隊24名に分かれた新選組は、旅籠や商家をくまなく調べます。

そして、午後10時ごろ、近藤隊が池田屋に到着しました。

そこには、20名以上の浪士が集まっていたのです。

近藤と沖田は2階へ駆けあがり、藤堂と永倉が1階を、ほかの隊士が出入り口や裏口を固めます。

ひとりで数人の浪士と立ち向かうような厳しい状況の中、彼らは土方隊が到着するまで必死で持ちこたえました。

この事件で新選組が討ち取った浪士は9名、捕縛者は4名。

浪士の指導者的立場で、もし生きていれば、必ずや明治政府の重鎮になったであろう宮部鼎蔵(みやべていぞう)のほか、吉田稔麿(としまろ)や北添佶摩(きたぞえきつま)らの逸材も命を失いました。

新選組側では、3名が死亡しています。

銭湯がほぼ終結するころに、ようやく会津藩兵が到着しますが、土方は彼らを近づけず、この日の手柄は新選組の独り勝ちとなりました。

池田屋跡

この事件により、壬生狼と揶揄された集団の名が京の都に響き渡ったのです。

明保野亭事件

池田屋事件から間もなく、会津藩からの応援として数名の藩士が派遣されます。

新選組隊士とともに市中見回りを行っていたある日のこと。

東山にある明保野亭で不審者を見つけた会津藩士・柴司(しばつかさ)は、逃げる彼らを追いかけ、槍で突きました。

すると相手は土佐藩士の麻田時太郎だと名乗ります。

れっきとした土佐藩士を会津藩士が襲ったことになるのです。

これでは会津藩と土佐藩の問題に発展しかねません。

柴司の行動には落ち度がなかったとみられ、いったんは心配無用とされました。

しかし、会津藩が土佐藩へ見舞いを贈ると丁重に断られ、相手の様子から、浅田が切腹することがわかります。

会津藩主・松平容保は、柴司には何ら責めるところはないが、懇意だった土佐藩との関係が崩れる恐れがあると嘆きます。

会津藩の予想通り、麻田はその日のうちに「士道不覚悟」として切腹したのです。

そして、容保の心情を慮った柴もまた切腹して果てました。

享年21歳。

会津藩と土佐藩の友好関係は、彼らの死によって保たれたのです。

柴司の遺体は、会津藩墓地に埋葬されますが、一部始終を聞いた新選組隊士はこれに同行し、一同涙を流しました。

武士になりたいとあこがれを抱き続けてきた近藤や土方にとって、柴に死に様はまさしく士道そのものだったのです。

以後新選組内では「士道不覚悟」という名の下で、多くの隊士が切腹していますが、それは柴の死が大きく影響していたのかもしれません。

蛤御門の変(禁門の変)

池田屋事件により多くの尊攘志士を失ったという情報が、長州藩に届いたのは、6月12日ごろのことです。

長州藩は、京への出兵を決意し、動き出します。

6月25日に久坂玄瑞(くさかげんずい)、真木和泉らの率いる軍が山崎天王山に陣取ったのを皮切りに、伏見、嵯峨天龍寺と次々に長州軍が布陣しました。

久坂玄瑞

新選組も会津藩とともに伏見の竹田街道に陣を張ります。

長州の久坂玄瑞は、朝廷に対し、長州藩の名誉回復と入京の許しを得るための嘆願書を何度も送りますが、拒否され続けました。

業を煮やした長州の急進派は、ついに動き出します。

御所蛤御門の付近で長州兵と会津・桑名藩兵が衝突し、戦闘が開始されました。

しかし、最新鋭の武器を持っていた薩摩藩が長州を圧倒します。

厳しい戦いを強いられた長州藩は、ついに撤退。

久坂玄瑞ら数名は御所内で自害しました。

戦闘に間に合わなかった新選組

伏見に布陣していた新選組は、残念ながら大きな戦いには参加できませんでした。

しかし、長州藩の追撃に加わり、天王山へ逃げた真木和泉らを追い詰めています。

真木和泉らの兵は、山頂付近の建物で見事な割腹自殺を遂げており、それを見た近藤は「敵ながらあっぱれ」と称賛、丁重に埋葬して引き上げました。

蛤御門のどんどん焼け

この戦闘により、各地で起きた火災は、京の市中へ広がり大きな被害をもたらし、京の人々は、この時の大火災を「どんどん焼け」と呼びました。

永倉新八の不満

新選組の名が大きくなると、局長である近藤勇の態度まで大きくなってきた…と永倉は感じていました。

「もともとは同志だったはずなのに、最近の近藤は、まるで俺たちの主君のような顔をしている」

そんな不満を持っていたのは、永倉だけではありません。

隊内の不満をまとめる形で、永倉・斎藤一・原田左之助は、ほかの隊士たちと共に会津藩主・松平容保に建白書を提出します。

近藤の非行を五か条にまとめて書かれたもので、「これに対して近藤がきっちりと申し開きをするなら、我々は切腹する、もし近藤が申し開きできなければ即刻切腹を命じて欲しい」という内容でした。

容保は、もし新選組が解散するようなことになったら、それは責任者である自分のせいでもあると話します。

それを聞いた永倉たちは、容保の迷惑を考えて建白書を取り下げました。

その後容保は、近藤を呼びつけ、永倉たちと和解させましたが、両者のわだかまりは完全に消えることはなかったようです。

伊東甲子太郎入隊

武士は江戸に限るという近藤の方針に従い、新選組の隊士募集は江戸で行われることが多くありました。

この時も先ぶれとして江戸にいた藤堂平助に声をかけられた伊東甲子太郎という人物が新選組への入隊を決めています。

伊東甲子太郎は、藤堂の師にあたる人でもあり、論客としても剣客としても一目置かれるような存在でした。

このころはすでに幕臣とも意見を交換することがあった近藤にとって、伊東の入隊は何より大きな戦力として期待するものだったのです。

しかし、伊東の新選組入隊は、新選組の行く道に暗い影を落とすものでした。

慶応元年(1865年)~慶応2年(1866年)ひびが入り始めた新選組

伊東入隊以降、隊内は近藤派と伊東派に大きく分かれます。

伊東派には、近藤とともに江戸へやってきた試衛館の仲間である藤堂平助や山南敬助もいたようです。

山南敬助 切腹

山南敬助は、総長という閑職に担ぎ上げられ、隊内にはもう居場所がないように思われていました。

そして2月22日。

山南は置手紙を残して、隊を脱走しました。

追手は沖田総司。

「私は山南さんを見逃すかもしれませんよ」

それを承知で沖田に命じたのは、近藤だったのか、それとも土方だったのでしょうか。

しかし、山南は沖田に伴われて屯所へ戻ってきました。

永倉たちは、山南に逃げるように勧めますが、山南は拒否。

介錯を沖田に頼んだ山南は、見事に切腹をしたのです。

江戸試衛館以来の仲間が一人欠けた瞬間でした。

屯所移転

山南が切腹して間もなく、新選組の屯所は、壬生から西本願寺へと移転しました。

西本願寺は、長州びいきで尊攘派の浪士を匿っているという情報もあり、それを阻止するための移転だもと考えられます。

将軍家茂の死去

翌慶応2年の1月には、幕府や会津の知らぬところで薩摩と長州は手を組みます。

幕府の長州征伐を命じられた各藩は、本気で戦うことがなく、その上薩摩藩から武器を仕入れ始めた長州は、次第に力をつけてきました。

7月20日、大坂城にて将軍家茂が亡くなると、それを契機に長州征伐は中止されます。

幕府の権威は、すっかり失墜してしまったのです。

そして、12月。

会津藩主・松平容保を最も頼みとし、信頼を寄せていた孝明天皇が崩御しました。

会津藩そして新選組はいつの間にか時代の潮流から離れ始めていたのです。

慶応3年(1867年) 新選組分断

新選組内は、慶応3年の正月から大荒れとなります。

そして10月には大政奉還、12月に王政復古の大号令が出され、徳川の時代は終わりを告げるのです。

永倉・斎藤処分

伊東甲子太郎とともに島原へ上がった永倉新八と斎藤一は、元日から3日間も居続けたのです。

島原遊郭の大門

幹部と言えど、これは隊士たちに示しがつきません。

もはや切腹も免れないと覚悟した3名は、4日になりやっと屯所へ戻ってきました。

激怒した近藤は、全員切腹だと意気込みます。

それをなだめたのは、いつもなら厳しい処断を下す土方の方でした。

結局、伊東は近藤のもとで、斎藤は土方のもとで、永倉は別室で謹慎することになります。

これは、おそらく伊東が近藤派分裂を画策しての行動だったと考えられます。

斎藤はもともと一匹狼的なところがあったようですが、伊東の目から見ると永倉も近藤と一線置いているように見えていたのかもしれません。

伊東甲子太郎一派の分離

昨年崩御した孝明天皇の御陵を守る御陵衛士を拝命することに成功した伊東甲子太郎は、3月20日、新選組からの分離を果たします。

伊東に従う面々の中には、藤堂平助と斎藤一の姿がありました。

藤堂平助は、かねてより伊東と考えを同じくしていたのですが、斎藤が新選組から離れることには、近藤にとっては思いがけないことでした。

しかし、斎藤はスパイだったのです。

おそらく正月の謹慎事件の際も、斎藤はスパイとして伊東たちの動向を探っていたと思われます。

御陵衛士の屯所となった高台寺月真院

不動堂屯所

西本願寺を屯所としていた新選組は、境内で砲術の訓練や隊士の処断なども行っていました。

毎日のように聞こえる大砲の音や、隊士たちの大声に西本願寺の僧侶は頭を痛めます。

たまりかねた西本願寺は、新選組に新しい屯所を提供することにしました。

それが、不動堂村に作られた屯所です。

まるで大名屋敷のような広大な屯所の中には、表門や客間、幹部クラスの居室や広間の他に、一度に30人は入れるような大きな風呂まで設置されていました。

しかし、この屯所に新選組が暮らしたのは、わずか半年足らずでした。

伊東甲子太郎暗殺

慶応3年11月15日。

京近江屋で、坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺される大事件が起こりました。

その3日後、伊東甲子太郎が暗殺されます。

斎藤の密告により、伊東派の近藤暗殺計画を知った近藤・土方が先手を打ったのです。

近藤の妾所へ呼び出され、ひとりで向かった伊東は、その帰りに斬殺されました。

伊東の遺体は、路上に捨て置かれ、それを取り返しに来た御陵衛士は、待ち伏せしていた新選組隊士との乱闘となります。

激闘の末、御陵衛士側では、服部武雄・毛内有之助、そして藤堂平助が討ち取られました。

近藤勇 狙撃される

10月の大政奉還を受けて、12月9日に出された王政復古の大号令により、幕府は消滅し、新選組の立場も揺らいでいました。

にわかに不穏な世情となった京では、長州を中心とした討幕軍と旧幕府軍のにらみ合いが始まります。

新選組は、市中警護の役を解かれ、伏見奉行所へ陣を移すことになりました。

近藤は、毎日のように二条城へ通い、旧幕臣と今後の対応について意見を進上します。

いつものように二条城へ登城した帰り道、伏見へ向かう途中の墨染辺りで、馬上の近藤は、大きな銃声を聞きます。

と同時に右肩に強烈な痛みが走りました。

待ち伏せしていた御陵衛士に狙撃されたのです。

かろうじて落馬を免れた近藤は、馬を走らせ伏見奉行所へ急ぎました。

近藤の傷は骨にまで達する深いものだったため、土方はすでに重病となっていた沖田総司とともに、大坂城にいる医師・松本良順のもとへ送ることにします。

以降は近藤に代わり、土方が指揮を取ることになるのです。

慶応4年(1868年)戊辰戦争

慶応4年の幕開けは、旧幕府軍と討幕軍のにらみ合いで始まります。

そして1月3日、とうとう戦いの火ぶたが落とされました。

緒戦では、人数で優位だった旧幕府軍が優勢でしたが、新式の武器を揃えていた討幕軍が次第に勢いをつけてきます。

新選組は、伏見奉行所から出陣し、各所で戦いますが、こちらも銃火器が充実している討幕軍に苦戦していました。

その上、必死で戦っているのは、会津・桑名藩と新選組位のもので、ほかの藩はどちらが優位になるか様子見をしているような状態でした。

鳥羽伏見の戦い

劣勢に立たされた旧幕府軍は、伏見奉行所を捨てて、淀方面へ敗走することになります。

兵器に勝る討幕軍が次第に有利になってくると、どっちつかずだった藩が少しずつ討幕軍の味方をします。

旧幕府軍も必死で応戦しますが、そのとき、討幕軍に錦の御旗が上がったのです。

この瞬間に、討幕軍は官軍に、旧幕府軍は賊軍となりました。

新選組 江戸へ

大坂城まで敗走した旧幕府軍は、まだあきらめていませんでした。

大坂城には、将軍徳川慶喜がいます。

誰もが、大将を担いでもう一戦、城を枕に戦うつもりだったのです。

ところが、肝心の慶喜が夜陰に紛れて大坂城を脱出し、江戸まで逃げ帰ってしまいます。

残された幕臣たちは、もう戦うための義がありません。

新選組は、大坂から船で江戸へ向かい、もう2度と京へ戻ってくることはありませんでした。

鳥羽伏見の戦いで、試衛館以来の仲間、井上源三郎が戦死し、監察の山崎烝は重傷を負い、江戸へ向かう船の中で息絶えました。

甲州勝沼の戦い

多くの討幕派浪士を斬ってきた新選組は、江戸の中でも落ち着ける場所はありませんでした。

彼らは勝てば大名にしてやるという絵に描いた餅を見せられて、甲州勝沼へ向かいます

西からやって来る官軍と戦うためです。

しかし、近藤たちが勝沼へ到着したときは、城はすでに官軍の手に落ちていました。

新選組に再び幸運はやってこなかったのです。

甲州勝沼の戦い 近藤勇

未だに大将然としている近藤に愛想をつかした永倉・原田たちは、とうとう袂を分かちました。

すでに病のために離脱していた沖田総司を除き、新選組の初期メンバーで残っているのは、近藤・土方・斎藤・島田魁などわずかとなります。

流山にて

近藤・土方は、再び兵を集め、下総の流山へ陣を置いていました

しかし、そこにも官軍の手が伸びてきます。

覚悟を決めた近藤は、腹を切ろうとしますが、あきらめきれない土方が止めます。

そこで近藤は、官軍へ出頭することにしたのです。

「大丈夫、向こうには俺の顔を知っている奴などおらん。大久保大和という名で通し切ってやる」

後ろ髪をひかれながらも、近藤の意に同意した土方は、後でひどく後悔することになります。

土方歳三 会津へ

近藤と別れた土方は、会津へ向かうべく旧幕府軍と合流し、戦を続けます。

わずかに残った新選組隊士も土方に従いました。

途中宇都宮城を見事に攻め落としますが、その攻防戦の最中、土方は足の指を負傷します。

歩くこともままならない土方は、養生のために今市へ送られ、その後会津の東山温泉で療養することになりました。

近藤勇 斬首

大久保大和という近藤の偽名は、すぐにばれました。

官軍の中に、御陵衛士の生き残りがいたのです。

近藤は、切腹することも許されず、板橋で斬首されました。

4月25日、享年35歳。

土方は、近藤の死を知らないまま、戦い続けていました。

沖田総司 病死

近藤の死から約2ヶ月後の閏5月30日。

千駄ヶ谷にある植木屋の離れで、沖田総司がひっそりと息を引き取ります。

剣の天才と言われ、土方の右腕として多くの浪士を斬り続けた沖田は、近藤の死を知らず、剣を抜くこともなく静かに逝ってしまいました。

享年25歳。

土方は会津でまだ戦い続けています。

慶応4年改め明治元年(1868年) 新選組 蝦夷へ

会津では閏4月から新政府軍(官軍)との戦が続いていました。

会津戦争

8月に入り、鶴ヶ城(若松城)への新政府軍の攻撃が激化します。

東北各藩が次々と降伏する中で、会津藩では老若男女すべてが、容保のもとで最後の戦いに挑みました。

しかし9月22日、とうとう降伏します。

降伏時の会津若松城

慶応から明治に改元されてすぐの出来事でした。

会津戦争には、土方ら新選組も参戦していましたが、敗色が濃くなってくると土方は、新しい戦場を目指すかのように会津を離れます。

しかし、斎藤一ら数人の新選組隊士は、会津に残りました

激しい戦いの中で、彼らの生死は全くわからない状態となります。

会津を離れた土方の姿は、仙台にありました。

土方はこの仙台で、旧幕府軍海軍副総裁の榎本武揚(えのもとたけあき)に出会います。

仙台藩が降伏すると、土方は榎本らとともに、蝦夷へ渡るという選択をしました。

蝦夷は、旧幕府軍に残された最後の地だったのです。

蝦夷そして箱館五稜郭へ

明治元年10月26日

旧幕府軍は、箱館五稜郭へ入ります。

間もなく、土方は彰義隊・額兵隊・陸軍隊・守衛新選組ら700名余りを率いて松前城を攻略しました。

以後、土方が率いる隊は、最後まで無敗を誇ることになります。

12月になると蝦夷地は旧幕府軍により平定され、箱館政府(蝦夷共和国)を設立しました。

箱館政府の役員を決めるために行われた士官以上で入札(投票)で、土方は陸軍奉行並箱館市中取締に任命されます。

京の治安維持を担っていた新選組は、今度は箱館市中の治安維持を任されたのです。

明治2年(1969年) 新選組終焉

蝦夷地の厳しい冬に守られ、箱館政府はしばしの休息を過ごしていました。

しかし、雪解けの季節が近づくとともに、新政府軍が蝦夷へ向かってきたのです。

甲鉄艦ストーンウォール号 奪還作戦

甲鉄艦ストーンウォール号は、江戸幕府がまだ健在だった頃に、アメリカから購入していた戦艦です。

しかし、引き渡しの時期には、すでに幕府はなく、新政府軍の手に渡っていました。

箱館政府は、このストーンウォール号を奪還すべく、宮古湾へ向かいます。

3月25日早朝。

まだ日が明けきらぬ暗闇の中で、ストーンウォール号に箱館政府の軍艦・回天が接弦。

甲鉄艦に突っ込む回天艦

回天から、ストーンウォール号の甲板へ、慌てふためく新政府軍のただなかに飛び移る兵の中には、新選組隊士・野村利三郎や最後の新選組隊長となる相馬主計の姿もありました。

次第に落ち着き始めた新政府軍の反撃が始まります。

彼らのもとには1分間で約200発もの弾を放つガトリング砲がありました。

箱館政府側は、野村利三郎を含め多くの死傷者を出したにもかかわらず、ストーンウォール号の奪還は失敗したのです。

新政府軍は、もうそこまでやってきています。

負け知らず 土方

4月になると、新政府軍は蝦夷へ上陸を始めます。

箱館政府は、土方率いる軍を二股口へ、大鳥圭介率いる軍を木古内(きこない)方面へ進撃、新政府軍を迎え撃ちました。

4月13日。

土方軍の守る二股口に1000名にも及ぶ新政府軍が現われました。

わずか300名ほどの土方軍は、夜を徹して銃を討ち続け、16時間後新政府軍を撤退させたのです。

新政府軍は、兵を追加し再び二股口に攻撃を仕掛けます。

4月23日、2度目の二股口攻防戦

激しい銃撃戦の中、土方は兵士を鼓舞し、自らも銃撃します。

熱くなり過ぎた銃身を、桶に組んだ水で冷やしながら撃ち続け、苦戦を強いられながらも二股口を破られることはありませんでした。

土方は、勝ち続けたのです。

しかし、ほかの軍は大敗、挟み撃ちに遭うことを避けるため、土方軍は、勝ちながらも五稜郭へ引き上げざるを得ませんでした。

土方歳三 戦死

すでに新政府軍に囲まれた箱館五稜郭において、土方は覚悟をしていました。

「あとは思い切り戦って死ぬだけだ」

5月11日、明治新政府軍の函館総攻撃が始まります。

新選組が守る弁天台場は、激しい攻撃により孤立します。

五稜郭にいた土方は、新選組の仲間を助けるため、周りの反対を押し切って出陣。

従う者はわずかです。

弁天台場に通ずる一本木関門へ。

そのとき、土方の腹部を銃弾が貫きました。

土方歳三戦死。

享年35歳。

新選組は、ここに終焉をむかえたのです。

五稜郭降伏

土方の死から7日後、箱館政府は降伏し、戊辰戦争が終結します。

幹部の中で戦死したのは、土方ただ一人でした。

土方亡きあと新選組の隊長となった相馬主計は、一切の責任を受け、八丈島へ流罪となります。

数年後明治の東京へ戻った相馬は、妻が留守をしている間に切腹して果てました。

彼がなぜ切腹したのかは、定かではありません。

新選組初期メンバーで、明治の世をを生き長らえたのは、永倉新八・斎藤一・島田魁ら数名だけでした。

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終わりに

新選組約5年間の歴史を駆け足で紹介しました。

本当ならもっとお話ししたい事件や出来事があるのですが、今回は新選組の結成から土方の死までの流れを知っていただきたかったので、あえて詳細は省略しています。

もっと新選組について知りたいという方は、ぜひほかの記事もご覧になってください。

そしてこれからも、もっと新選組関連の記事は書き続けますので、どうぞご期待くださいね。


歴史人物新選組
小春

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