「鬼の副長」と呼ばれた土方歳三の生涯  多摩から江戸そして京へ

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新撰組 土方歳三 歴史人物
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幕府が終焉を迎える直前、突然現れて最後まで幕府のために戦った集団『新選組』

新選組は、幕末に登場する多くの歴史人物の中でも少し特異な集団です。

当時には珍しく身分にかかわらず入隊を許された、早くから外国の軍隊体制を取り入れていた、隊士の給料が月給制だったなどなど。

なにより決められたルールを破ったら、切腹!という戦慄の掟があったことです。

その新選組の要となっていたのが、副長の土方歳三です。

鉄の掟を守らせ、顔色一つ変えずに隊士を切腹させる…「鬼の副長」と恐れられた土方歳三。

今回は、新選組副長として最期まで武士らしく戦い続けた土方歳三の生涯:多摩時代から江戸へ、そして京へ上るまでを追ってみたいと思います。

新撰組 土方歳三

田本健三 / パブリックドメイン

先にお断りいたしますが、40年以上前からの新選組ファン(特に土方歳三)のため、大いに私見が入るため、ちょっとドラマティックな記事になるかもです。

歴史が得意でない人も楽しく読めると思いますのでどうぞご期待?くださいね。

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土方歳三の生い立ち 多摩から江戸へ

天保6年(1835年)

土方歳三は、武蔵野国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)の豪農土方家の末っ子として生まれました

父は土方隼人義諄(よしあつ)、母は恵津といいます。

長男為次郎・次男喜六・三男周・四男大作・長女のぶ、そして歳三です。

歳三は、父が生まれる前の2月に亡くなっているため、その存在は知らないまま育ちます。

また母恵津も歳三が6歳の時に亡くなっています。

そのため年の離れた兄喜六夫婦が親代わりとなりました。

幼いころに父母とも亡くしてしまった歳三は、親からの愛情というものを十分に受けることはできなかったのではないでしょうか。

長男の為次郎は盲目だったため、次男の喜六が家督を継いでいます

歳三の生まれ育った多摩石田村は、天領でした。

天領とは、藩に属さず、直接幕府が管理している土地のようなものです。

そのため、権力支配が比較的緩やかで、農民の自治がある程度認められた自由の多い地域でした。

幕府に対する忠誠心も強い土地でした。

同じく多摩に生まれ育った近藤勇や井上源三郎も幕府への親近感、忠誠心は強かったのではないでしょうか。

新選組の生き方は、近藤勇や歳三たちの育った環境が大きく影響しているのかもしれません。

歳三 初めての奉公に行く

弘化2年(1845年)

歳三は11歳の時、江戸の伊藤松坂屋呉服店へ丁稚奉公に行きます。

そこは現在の松坂屋の前身であるほどの大店で、奉公先としてはとても恵まれています。

今でいえば、エリートコースまっしぐらというところです。

でも歳三、たった1年で家へ戻ってきました。

店の番頭にひどく叱られて、拳骨で頭をたたかれ、番頭に食って掛かりました。あげく辛抱たまらんと、さっさと店を出てしまったのです。

そして、石田村まで9里(約35㎞)をてくてくと帰ってきました。

驚いた喜六は、おそらくもう一度店に戻るように歳三を説得したことでしょう。

でも歳三は聞きません。

頑固なのか、わがままなのか。

先が思いやられます。

イケメン着物

歳三は、さすがに実家の居心地が悪かったのか、その後はすぐ上の姉のぶの嫁ぎ先佐藤彦五郎宅にいることが多かったようです。

歳三 奉公再挑戦!

嘉永4年(1851年)

あれから5年余り、17歳になった歳三は、再び丁稚奉公に行きます。

今度は落ち着けるのか。

奉公先は、日本橋大伝馬町の呉服屋、松坂屋の支店でした。

歳三は、物差しの扱い方がうまかったという話が伝わっているそうですが、残念ながらというかやはりというか、今回も長続きしませんでした。

この時は女性が原因です。

数年後には

なかなかの美男子で評判だった       『新選組始末記』より

という歳三を江戸の娘が放っておきません。

イケメン着物

奉公先の女中と関係を持ってしまった歳三、すっかり夢中になって結婚まで考えていたといいます。

でも常々世話になっていた義兄佐藤彦五郎に相談すると、大反対の上こっぴどく叱られて、説教をされてしまいました。

歳三自身も己の未熟さに気づいたのか、その後自分で相手の女性のところへ行って、きっちりとケリをつけています

2度目の奉公もこれでおしまい、再び家へ戻ってきました。

土方家のお荷物のようになってしまった歳三は、いよいよ居づらくなったはず。

母代わりとして歳三をかわいがってくれた姉のぶの佐藤家へ入りびたることがどんどん多くなってきました。

歳三に転機が訪れる!

ぶらぶらしているのも芸がないと、歳三は実家の秘伝石田散薬を売り歩くようになります。

薬の行商は、歳三の性格に合っていたのか、今回は長続きしているようです。

このころは後年「鬼」といわれた歳三とはかけ離れた顔を見せていました。

女のようなもの優しい顔で(中略)その頃は如才ない愛嬌者だったので、どこでも親切に扱ってくれた。

新選組として活躍していた時に、噂が村へ聞こえると、「あんな優しい男がなァ」と信じない者さえあった。              『新選組始末記』より

やっと落ち着いてきた歳三に義兄の彦五郎が剣術を勧めます。

土方家と同じように豪農の佐藤家には、剣術道場がありました。

この数年前、日野宿に大火が出て佐藤家も類焼し、その際刀を持った乱心者が彦五郎の祖母を殺したという悲劇が起こっています。

彦五郎は、この事件で自分たちの身は自分たちで守らなけらばならないと強く思い、自宅に道場を作り、剣術を始めます。

歳三は、次第に剣術に熱中していきました。

歳三が励んだ剣術それが「天然理心流」でした。

佐藤家の道場へは、天然理心流の道場「試衛館」から島崎勝太(のちの近藤勇)が来ることもあり、歳三とはここで知り合ったと考えられます。

勝太は、武蔵国多摩郡上石原村の農家、宮川久次郎の三男です。

天然理心流「試衛館」道場主周助に見込まれて養子となり、入門から8か月余りで目録を授けられるほどの実力がありました。

自分よりたった1才上の勝太を見て、歳三は何を思っていたのでしょう。

歳三の生家(現在は土方歳三資料館)には、今でも歳三が植えたという矢竹があります。

矢竹は、武士がたしなみとして自分の屋敷に好んで植えたといわれています。

いずれ武士になりたいという当時ではとてもかなわない夢を、歳三は思い描いていたのでしょうか

天然理心流との出会い、勝太との出会いがまだ何者にもなれていない歳三の心を波立たせていきました。

歳三、お見合いする

嘉永6年(1853年)頃

歳三は、長兄の為次郎からお琴という女性を紹介されます。

為次郎は長男でしたが、盲目だったため家督を継ぐことはなく、三味線や浄瑠璃、俳句をたしなみ、佐藤彦五郎宅へもよく訪ねていたということです。

歳三が俳句をたしなむのは、為次郎の影響があったのではとも言われています。

為次郎は「目が不自由でなければ、畳の上では死ねない」だろうといわれるほどの豪胆な人で、増水して足止めを食らっている人々をしり目に、さっさと泳いで渡ったという逸話も残っています。

「目が見えるというのは不自由だな、俺は見えないおかげで怖くもなんともない」なんて言ったらしいですよ。

剛毅な人。

でも雷だけは大嫌い、雷が鳴りだすと頭から布団をかぶって寝てしまったそうです。

ちょっとかわいい。

そんな兄が探してきてくれたお琴さんとはどんな人だったんでしょうか。

お琴さんは、為次郎が出入りしている三味線屋の一人娘で、器量も気立てもよく、三味線の腕もなかなか。

歳三とは、家格もちょうど釣り合う、最適の相手でした。

歳三自身はどう想っていたのかはわかりませんが、しばらくはお付き合いしていたようです。

大河ドラマ『新撰組!!』では、栗塚旭さんが為次郎を演じておられました

山本耕史演じる歳三とのシーンでは、「平成と昭和の土方が並んでるぅ!」とひとりでテンションが上がりました。

ちなみにお琴さんは田丸麻紀さんが演じていました。

この縁談は、婚約まで進みましたが、歳三が

「俺は武士になりたい。だから当分は身を固める気はない。この話はなかったことにしてくれ」(的な感じじゃないかな?)

と言ったためにご破算になってしまいました。

多摩に伝わる歳三の姿

歳三が多摩にいたころは、新選組時代からは想像もできないような気さくで心優しい一面のある人でした。

地元に残る逸話をいくつか紹介します。

佐藤家での餅つき

佐藤家では、毎年大みそかに餅つきをしていました。

歳三も参加するのですが、ふざけて踊るようについたり、わざとつき損ねたり、ちょっとエッチなポーズをとってみたりと、サービス満点

周りに人達は大笑いだったそうです。

そのくせ、お餅を食べるときは何もなかったかのように黙々と食べるので、それがまた面白いと笑いを誘う。

主っとしたイケメンがそんなことをすると一層楽しく感じますよね。

(私だけ?)

熱いお風呂が大好き!

歳三は熱いお風呂が大好きだったそうです。

自分だけが楽しむならいいのですが、兄喜六の長男作助を捕まえては、その熱い風呂に放り込んで「このくらい熱い湯に入れなければ偉い人にはなれないぞ!」と言っていたとか。

作助君にはいい迷惑です。

また歳三は、お風呂から上がるとふんどし姿のまま大黒柱にどんどんと力いっぱい張り手をすることも多かったそうです

その大黒柱は今も健在!土方歳三資料館の入り口に置かれています。

 イケメン歳三はやっぱりおしゃれ

歳三は、天然理心流の出稽古で胴着をつけるとき、赤い面紐を長く垂らしていたという話が伝わっています。

剣術をするときの後ろ姿まで気を配る、まさにおしゃれ剣士ですね。

そりゃあモテる。

天然理心流

天然理心流の稽古に励みながら、家業の薬も行商。

そんな暮らしがどのくらい続いたのでしょうか。

そろそろ江戸試衛館へ参りましょう。

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イケメン歳三の本領発揮?!試衛館時代

歳三は、生涯の朋友となる勝太改め近藤勇の試衛館で過ごす日が次第に多くなります

薬の行商もしばらくは続けながら、剣術の修業をする日々。

ついでに吉原などにも行ったり…。

20代前半のまさに青春を謳歌、でも将来について漠然と悩む歳三です。

近藤勇が経営する試衛館には、歳三と同じような居候が何人もいました。

それは近藤の器の広さ、懐の深さのなせるわざ。

いえ単に居心地がよかったのかも。

試衛館の仲間たち

歳三が通うようになった頃の試衛館には、のちの新選組の幹部メンバーがずらっと揃っています。

近藤勇

試衛館道場主で剣の実力、胆力はもとより、何よりその実直な人柄が魅力です。

歳三にとってあこがれであり、神輿として担ぎ上げるに値する人物だったと思います。

2020年公開予定だった(コロナウイルス感染により2021年10月に延期)の「燃えよ剣」では、鈴木亮平さんが演じます。

井上源三郎

次に同じ多摩出身で近藤の兄弟子に当たります。

小説やドラマでは、気の優しいおじさんで、剣術の腕はもう一つのように描かれることが多いですが、実際は天然理心流免許皆伝

時間はかかったそうですが、努力家でしかも実力もあるすごい人なのです。

私は『新撰組!!』の源さんが一番好きです。

沖田総司

内弟子として試衛館で暮らしています。

歳三とは7歳違いのまだまだ少年です。

でも剣術は天賦の才があり、油断すると近藤でさえ負けてしまいます。

土方家では末っ子の歳三にとっては、可愛い弟分というところですね。

私の好きな沖田総司は、草刈正雄さんが演じた総司です。

ちょっと影のある、それでいてクシャっとした笑顔がたまりません。

今の草刈正雄さんももちろん素敵ですが、数十年前の草刈さんの神がかったカッコよさはすごかったです。

1977年のTBSドラマ『新選組始末記』での草刈正雄さん、興味のある方は一度ご覧ください

永倉新八

松前藩脱藩浪士。

始めは神道無念流そして心形刀流に入門しますが、剣術好きが高じてあちこち放浪、気づいたら試衛館に居候していました。

竹を割ったようなサッパリとした性格で気骨ある人物だったといわれています。

新選組幹部の中で数少ない生き残りで、新選組についての逸話を数多く残しています。

山南敬助

一説には仙台藩脱藩浪士といわれています。

小野派一刀流で免許皆伝後、北辰一刀流千葉周作の門人となります。

試衛館へ他流試合を申し込み、近藤に負けたのですが、近藤の人柄に魅かれ、試衛館へ出入りするようになります。

温厚で学識も深かった山南は、試衛館メンバーの中では一目置かれる存在だったようです。

藤堂平助

沖田総司より2才若く試衛館メンバーの中では最年少の藤堂。

北辰一刀流千葉周作の道場「玄武館」に入門し、10代の半ばには目録を授けられています。

その後、同じ北辰一刀流の伊東甲子太郎(のちの新選組参謀)の道場にも出入りしていました。

そんなエリートがどういうきっかけか、試衛館に入門し、代稽古などにも行くようになりました。

剣術では超メジャーな北辰一刀流、それも宗家である千葉周作門下だったこともあり、人脈も多く、試衛館メンバーが京へ上るきっかけになった浪士隊のことを知らせたのも藤堂ではないかといわれています。

(同じ理由で、山南が知らせたのではとも言われています)

藤堂は、由緒ある津藩藩主藤堂家のご落胤では?という説があります。

その説にたがわず、藤堂は品のある美男子だったそうです。

写真がないのが残念

原田左之助

美男子ということなら、原田を忘れてはなりません。

伊予松山藩の足軽出身の原田は、とても短気な性格で、若いときは上司とやりあった末に切腹未遂を起こしています

その時のお腹の傷は、気候がじめじめすると痛むらしく、お腹を出して日光に当てていることがあったとか。

また新選組時代もすぐに「斬れ、斬れ」という人だったらしいですが、案外(失礼)イケメンだったのです。

試衛館の歳三、藤堂、原田がつるめば、江戸の女性はえらいことになっていたのだろうか…。

斎藤一

明石藩脱藩浪人の斎藤一は、試衛館にの食客として住んでいたというより、時々顔を出していたと考えられます。

斎藤はなぞの多い人物で、浪士隊にも参加していません。

江戸に暮らしているときある旗本と口論になり、斬り殺してしまったために京へ逃げ、そこで近藤らと合流したのではないかと考えられます。

剣の流派ははっきりわかっていませんが、一刀流ともいわれ、剣の天才沖田総司に引けを取らないほどの腕だったそうです。

永倉が、「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と語ったともいわれています。

ちょっとニヒルでクールな印象のある斎藤一。

『新撰組!!』オダギリジョーさんの斎藤が、まさにイメージどおりでした。

もちろん個人の見解です

以上おそらく歳三とともに剣術の腕を競い、世情を憂いて議論したり、時には吉原へ繰り出したり、若き血の騒ぐままに過ごした仲間です。

ちょっと余談ですが

一説には歳三と知り合いだったという伊庭八郎

伊庭八郎は、江戸の4大剣術道場の一つ心形刀流の宗家です。

でもなぜかよく試衛館へ遊びに来ていたという話があります。

(幕末から明治にかけて活躍したジャーナリスト福地桜痴(福地源一郎)の話として伝わっています)

永倉新八が、心形刀流に入門していましたから、おそらくその縁ではないかと思います。

試衛館に遊びに来ていた伊庭八郎と歳三は、気が合ったようで一緒に吉原へも行っていたという悪いうわさもあります!

伊庭八郎も美男子として有名でした。

歳三と二人並んだ姿は…、たまりませんね。

試衛館で仲間と過ごす日々は、歳三が29歳のころまで続きました。

歳三、仲間と京へ!

ペリー来航以来、桜田門外の変など徳川幕府を揺らがす出来事が続き、試衛館の面々も顔を突き合わせてこれからの江戸、幕府そして自分たちの生き方などを論じ合っていたことでしょう。

かといって 一介の浪士や道場主たちに何ができるかもわかりません。

ましてや、歳三も近藤も身分は農民です。

武士になることもできず、鬱屈した気持ちで日々を過ごしていたのではないでしょうか

そんな時に持ち込まれた話が、京へ上る将軍の護衛のために募集されていた浪士組のことでした。

浪士組

尊王攘夷論者の清川八郎が発案し、14代将軍徳川家茂の上洛に際し、その警護のため浪士を募集したものです。

江戸に集まっている危なっかしい浪士たちをひとまとめにして京へ追いやるためだったともいう説もありますが、清川はこの浪士組を尊王攘夷を実行するために利用するつもりだったといわれています。

いざ、京へ!

文久3年(1863年)2月8日

29才の歳三は試衛館のメンバーとともに浪士組に参加、京へ向かいました。

道中、のちの新選組局長一人芹沢鴨とひと悶着ありながらも、2月23日には無事京へ到着。

三条大橋

京の西に位置する壬生村が浪士組の宿舎になっていました。

清川は本部とした新徳寺へ、歳三たち試衛館のメンバーは、のちに新選組の屯所となる八木邸を宿舎とします。

八木邸 新選組

なぜかあの芹沢鴨一派も同宿です。

これから将軍の警護をすると思っている歳三たち。

自分たちが将軍を守るなんて、考えもしなかったでしょうし、ましてや将軍が自分たちを頼りにしてくれるということにどれほどの責任と生きがいを感じていたでしょう。

歳三、清川を見限る

歳三たちが将軍警護の役目に意気込んでいたころ、清川八郎は、朝廷へ手紙(建白書)を出しています。

「自分たちは、幕府から独立した形で朝廷の力になりたい、尊王の心をもって働きたいと考える者たちです」

わかりやすく言うとこんな感じの内容です。

いろいろ端折って言うと、京へ上るお金が幕府に出させておきながら、実は朝廷のいわば私兵になりたいと訴えたわけです

これを聞いて驚いたのが、お目付けとして浪士組に同行していた山岡鉄太郎(鉄舟)など幕府側の人たちです。

「このまま浪士組を京に置いておくと、清川の思うつぼになるかもしれない」

そこで山岡らも考えます。

浪士組はひとまず江戸へ帰り、そこで改めて攘夷を実行する隊としようではないかと、清川に提案。

それを清川が受けました。

ところが江戸下りに反対する者が!

試衛館連中と同宿の芹沢一派です。

彼らがなぜ反対したのか、実際のところはわかりませんが、いろいろな本を読んだうえで想像してみました。

将軍の警護という大役を仰せつかった(と信じた)実直な近藤は、

「清川は卑怯だ、これでは上様がお可哀そうだ。俺は京に残って上様を守る覚悟だ」

歳三は近藤ほど将軍警護への責任感はなかったかもしれないが、清川に対してはあまりいい感情を持っていなかった。

「それは、清川の薄っぺらい論者面のせいかもしれねえ。たとえ卑怯なやり方とはいえこれだけの浪士を動かしたことへの俺のひがみかもしれねえな」

まだ何も成し遂げていない歳三の苛立ちがそんな気持ちを起こさせたのかもしれない。

とにかく、試衛館の面々は近藤の「清川卑怯なり」という気持ちに同意、江戸へ帰ることを反対する

一方芹沢鴨は、なぜ近藤たちと意見を共にしたのか。

同じ宿舎ということで、もしかしたらなにがしかの話し合いをしたのだろうか。

「水戸浪士の芹沢は、無名の俺たちよりは押しが利くし、顔も広いだろう。今後京で活躍するためには、今は手を組んでおくほうがいいぜ」

そう考えたのは、おそらく歳三。

京へ上ると決めた時から、歳三は近藤とともに一旗揚げる決心をしていた。

「近藤さんを神輿として担ぎ上げ、俺は参謀として近藤さんを助ける。俺と近藤さんがいれば、必ず上手くいくさ。そして俺は武士になる」

江戸から中山道を通り、京へ向かう間に歳三はそんな決意をしていた。

相当な私見が入っていますことを、ここにお断りしますm(__)m

こうして、歳三と近藤たち、芹沢鴨一派は京に残り、壬生浪士組と名乗るようになります。

そしていよいよ新選組結成へ!

でも今回はここまで。

長~い記事になってしまいましたので、ちょっと休憩。

続きをお楽しみに!

土方歳三ゆかりの場所 多摩~京都

今回の記事に登場した歳三ゆかりの場所はこちらです。


歴史人物新選組
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小春

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