徳川家康の正室「築山殿」は本当に悪女だったのか?

歴史人物

徳川家康の正室であった築山殿(つきやまどの)は、夫を裏切り、嫡子を死に追いやる原因を作った悪女として知られています。

2023年の大河ドラマ「どうする家康」では、有村架純さんが演じるというので、どんな築山殿になるのかとても楽しみなところです。

しかし、実際の築山殿とは、どのような女性だったのでしょうか。

本当に悪女だったのか、歴史にほんろうされた悲しき女性だったのか、今回は築山殿の生涯を追いながら、その人となりを探ってみたいと思います。

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今川義元の姪・瀬名姫

築山殿という名は、家康の性質となったのちの名前で結婚前彼女は瀬名姫と呼ばれていました。

誕生年ははっきりしておらず、家康の数歳上だったとも同い年だったとも言われています。

仮に同い年なら天文11年(1542年)の生まれとなり、父は今川家の重臣・関口親永(せきぐちちかなが)母は、今川義元の妹とされていますが、実はこの両親についてもはっきりしていません。

父とされる関口親永は、今川一門の瀬名氏から関口氏に養子に入っており、築山殿が瀬名姫と呼ばれていた理由は父の出自と関係があったようです。

母も実は遠江国の井伊直平の娘で、今川家の人質となった後、今川義元の側室とされ、その後義元の養妹になったとも言われています。

戦国時代にありがちな複雑な人間関係の中で生まれ落ちた瀬名姫でしたが、名門今川家の姫という誇り高き環境の中で育ちました。

家康との結婚

松平家から人質として今川家に身を寄せていた松平元信(のちの徳川家康)は、弘治元年(1555年)14歳で元服し、弘治3年(1557年)に瀬名姫と結婚します。

今川義元が松平家とのつながりをより強くするための政略結婚であったとみられていますが、家康自身も瀬名姫の美貌に惹かれていたとの説もあります。

瀬名姫は「駿河御前」と呼ばれるようになり、永禄2年(1559年)に嫡子・松平信康を、翌年には亀姫を授かりました。

桶狭間の戦いと夫婦のすれ違い

この時代、戦をすることなく家と家を結びつけるための政略結婚は珍しくありません。

しかし、今川家の姫としてプライド高く育ってきた駿河御前は、今川の人質だった家康との結婚に納得していたのでしょうか。

この時期より後に書かれた資料などには、駿河御前が家康を見下した態度を取り、家康が我慢していたとされています。

ですが、2人の子をもうけているのですから、夫婦として向き合おうという気持ちもあったかもしれません。

名門の姫として育てられた駿府御前ですから、わがままな部分も多かったでしょうが、家康の方もそれを受け止めるだけのおおらかさがなかったのでしょう。

また、夫婦を取り巻く環境も今川家と松平家の確執が見え隠れしていたはずです。

亀姫が誕生した年の5月19日。

桶狭間の戦いで、伯父である今川義元が織田信長に討たれます。

桶狭間古戦場跡

総大将を失った今川軍は、総崩れとなり駿河国へ逃げ帰りましたが、夫・家康は、義元が討たれたとの報を受け、居城・岡崎城へ戻っています。

義元が討たれたことで、長きにわたった家康の人質生活が終わったのです。

しかし、妻である駿河御前と子供たちは駿府に残っていました。

置き去りにされた形の駿河御前の胸中はいかがなるものだったのでしょうか。

義元が討たれたために、今川家にかつての勢いはありません。

たとえ形だけとはいえ、最も頼りにするべき夫からの迎えもなく、夫への怒りや憤り、そしてこれからの行く末への心細さで、彼女の心はいっぱいだったことでしょう。

家康の離反

桶狭間の戦いから1年、義元の嫡男・今川氏真(いまがわうじざね)は、仇の織田信長を討つ様子が一向にありません。

家康は、そんな氏真を見限り、織田信長からの和睦に応じたのです。

家康は、松平家の領地である三河国を守り、晴れて今川家からの独立を果たしました。

これに怒ったのが、今川氏真でした。

氏真は、駿府に置き去りにされていた駿河御前と子供たちを人質としてとらえます。

氏真の怒りは、家康の義両親にあたる関口親永と妻にまで向かいます。

駿河御前の両親は自害に追い込まれてしまったのです。

家康は、捕虜としていた今川家家臣との人質交換をすることで、駿河御前母子を無事岡崎城へ移しました。

ただ、駿河御前たちの居住地は岡崎城内ではなく、築山という地に館を与えられて住まわせられたのです。

これ以後、駿河御前は築山殿と呼ばれるようになりますが、この背景がわかると築山殿という名は彼女にとって侮辱以外の何物でもなかったようにも考えられます。

家康の今川家への裏切りにより、両親を死に追いやられ、正室でありながら幽閉同然の扱いを受けた築山殿の心には、家康への憎しみしかなかったのかもしれません。

子・信康の結婚

永禄10年(1567年)

嫡男・信康と織田信長の長女・徳姫との結婚を機に、信康が岡崎城に移され、生母である築山殿も岡崎城に入りました。

岡崎城

信康・徳姫は、ともに9歳という幼い夫婦でしたが仲は良く、やがて2人の娘にも恵まれました。

一方、数年ぶりに同じ城の中で暮らす築山殿と家康でしたが、すでに夫婦仲は崩壊しています。

元亀元年(1570年)家康は、浜松城へ移りますが、築山殿は岡崎城主となった信康とともに残りました。

築山殿には、帰るべき実家はもうなく、岡崎城には味方と言える者はほとんどいません。

ただ嫡男の信康だけが、築山殿の支えとなっていました。

しかし、信康とその正室・徳姫の夫婦仲はとても良く、築山殿にはそれが気に入りません。

伯父の敵である信長の娘である徳姫を目の敵にしていたのです。

築山殿にとって幸いだったのは、信康夫婦に男子が生まれていなかったこと。

築山殿は、信康に側室を持たせました。

信康は、側室を寵愛し、徳姫との仲が次第に悪くなっていきます。

織田信長の娘として育った徳姫は、築山殿のように非常にプライドの高い女性だったようです。

彼女は次第に信康と築山殿への不満を募らせていきました。

築山殿の行動は、信康の幸せを願ってのことというより、自身のプライドや今川家の仇を打ちたいという気持ちによるものだったのかもしれません。

家康憎しの強い思いが、次第に築山殿の心を頑なに変えていったように思います。

築山殿の陰謀

天正7年(1579年)徳姫は、父・信長に書状を送っています。

書状の内容は、築山殿の徳姫への嫌がらせ、夫信康への不満とともに、築山殿が武田勝頼と内通し、家康と信長を討とうとしているという陰謀にまで及んでいました。

武田勝頼像

娘・徳姫の言葉をすべて真に受けたとは思えませんが、信長は真相を正すために家康の家老・酒井忠次を呼びます。

忠次は、弁解することなく、信長からの命を承知したとされています。

信長の命は、信康と築山殿の処刑という厳しいものでした。

家康苦渋の決断

「今の信長に背くことは、すなわち松平家の滅亡を意味する」

家康は、悩みぬいた結果、妻子の処断を決めます。

信康は、岡崎城から大浜城、堀江城そして二股城へ移されました。

築山殿の最期

天正7年(1579年)8月29日。

築山殿は、浜松城に近い遠江国敷智郡(ふちぐん)の佐鳴湖周辺にあった小藪村(現・浜松市富塚)において徳川家家臣の手で殺害されました。

出典:Wikipedia 静岡県浜松市の青雷院にある築山殿の霊廟。

約半月後の9月15日。

二股城において、信康が切腹して果てます。

享年21歳という若さでした。

築山殿・信康殺害の真相

前述の通り、徳姫からの訴状により、信長が家康に築山殿・信康の処刑を命じたというのが、歴史の通説となっています。

しかしこの説には疑問点も多く、故意に作り上げられた罪状である可能性もあると言われています。

信康は、戦上手で非常に勇敢だったと言われており、信長から見れば、将来的な脅威だと考えられていたかもしれません。

大きな脅威になる前に、その芽を摘み取ってしまおうという考えが信長にあったとも考えれらます。

また、家康と信康の間に深刻な対立関係があったとも言われています。

徳川家が分断してしまうのを未然に防ぐために、家康自身が信康の処断を決めたという可能性も捨てきれません。

お家第一の戦国大名にとって、たとえ子と言えど、心を鬼にして切り捨てなければならないことがあったのです。

築山殿の冤罪

ではなぜ築山殿までが殺害されてしまったのか。

これは想像でしかありませんが、家康にとって、信康がここまで自分と対立することになったのは、築山殿の責任が大きいと考えていたのかもしれません。

また、信康を処刑するに至ったのは、今川家出身の築山殿が大きな原因となったことにすれば、家臣たちの怒りは今川家に向きます。

徳川家の結束を守るため、信長との同盟関係を続けるため、苦渋の決断をした家康は、戦国大名としては、優れているのかもしれません。

そんな戦国の習いに翻弄された築山殿は、女性としての幸せを求め続け、拒否され、失望し、そして殺された悲しい女性だったと、私は思いました。

終わりに

息子を死に追いやり、自身も殺害された築山殿について、私の中ではあまり良い印象がありませんでした。

戦国物の作品の中でも、たいてい気の強い、プライドが高い女性として描かれています。

しかし、「どうする家康」では、清楚で可憐なイメージが強い有村架純さんが演じられるということで、急に興味が出てきました。

一体どのような築山殿になるのか、今から楽しみです。

きっと今までにない築山殿像が見られるのではないでしょうか。

よろしければ、有村築山殿の感想をコメントくださいね。


歴史人物戦国時代
小春

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