最後の将軍・徳川慶喜 英邁と言われ、臆病者とそしられた生涯とは?

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江戸幕府の終焉を見届けた最後の将軍・徳川慶喜

幕末の動乱期真っ只中に徳川幕府を支えた慶喜には、正反対の評価があります。

立派な人物だという人、臆病で卑怯者だったという人。

幕末の歴史を新選組から知った私は、大坂城に家臣を置き去りにして逃げた卑怯者というイメージがありました。

でも大河ドラマ『青天を衝け』放映にあたり、改めて調べてみると、今までの人物像が少し変わってきました。

今回は、徳川慶喜の生涯や逸話、同時代の人々からの言葉などを通し、彼の本当の思いを探ってみたいと思います。

ややこしい幕末ですが、できるだけわかりやすくお話ししますので、どうぞ最後までお読みくださいね。

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徳川慶喜 生い立ちから青年期

慶喜は、水戸藩主・徳川斉昭の七男として生まれました。

天保8年(1837年)9月29日のことです。

母は、有栖川宮熾仁親王女の吉子、幼名を松平七郎麻呂(まつだいらしちろうまろ)と言います。

誕生したのは、江戸の水戸藩邸でしたが、水戸藩2代藩主・徳川光圀の教育方針

子女は江戸の華美な風俗に馴染まぬように国許(水戸)で教育すべし」

に従い、生後7ヶ月から水戸へ移りました。

七郎麻呂と斉昭

長男(嫡子)以外は、他家へ養子へやるというのが武家の習いでしたが、七郎麻呂は、幼いころから英邁で、父の斉昭も嫡子に何かあったときのために手許に置いておくほどでした。

周囲の期待に応えるべく、七郎麻呂は、藩校・弘道館において、学問に励み、武術の鍛錬を怠りませんでした。

弘道館

水戸から江戸へ

弘化4年(1847年)8月
第12代将軍・徳川家慶の意向を受け、老中・安倍正弘が七郎麻呂改め松平昭到(あきむね)は、御三卿の一橋家を相続しました。

同年12月には、家慶から偏諱を授かり、徳川慶喜と名乗ります。

偏諱(へんき)
将軍や大名が、功績のあった家臣や元服する者に、自分の名前の一字を与えることで家臣にとっては栄誉なこととされる

嘉永6年(1853年)、黒船が来航し、幕府が混乱する中、家慶が亡くなり、徳川家定が第13代将軍になります。

しかし、家定は生来病弱だったため、将軍継嗣問題が起こりました。

慶喜、もらい事故に遭う?

家定の次の将軍は、いったいだれがふさわしいのか!

幕閣は、二派に分かれます。

一橋派…慶喜を将軍に推す人たち:斉昭、安倍正弘、薩摩藩主・島津斉彬たち
南紀派…紀州藩主・徳川慶福を推す人たち:彦根藩主・井伊直弼、家定生母・本寿院ら大奥

しかし、安倍正弘と島津斉彬が相次いで急死し、安政5年(1858年)に井伊直弼が大老になると、将軍継嗣は慶福で決着しました。

慶喜は、さぞがっかりしたのでは?と思いますが、そんなことはなかったようです。
父の斉昭に出した手紙でも、将軍になる気などないと書かれていたそうです。
慶福のちの家茂とも仲が悪いと思われていたようですが、結構良好だったと言います。

ただ、井伊直弼が勅許をえずに「日米修好通商条約」に調印したことには怒りを表し、斉昭や福井藩主・松平慶永(春嶽)たちとともに直弼を詰問します。

水戸藩は、尊王の思想が強く、京の帝(天皇)や朝廷を重んじる心が強かったのです。

「帝の許しを得ないまま、アメリカと条約を結ぶなんて考えられない!」

この行動が井伊直弼には面白くなかった!

安政6年(1859年)
世情の不穏な動きを察した直弼は、自分のやり方に従わない・反抗する(可能性のある)人たちを次々に処罰していきます。

世に言う安政の大獄です。

直弼にとって目障りな慶喜たちも、謹慎・隠居などの処分を受けてしまいました。

罪状は不明なままでしたが、おそらく直弼に対する反抗的な態度と、家茂の権威を揺るがす存在とみなされたのではないでしょうか。

「将軍になるつもりなど、さらさらないよ」と言っているのに、権力を持っている直弼にとって、やはり慶喜は大きな脅威だったのです。

慶喜 動き出す

慶喜が謹慎させられた翌年、安政7年(1860年)の3月3日
井伊直弼は、登城途中の桜田門外において、水戸浪士らにより暗殺されました。(桜田門外の変)

半年後、慶喜たちの謹慎は解かれます。

文久2年(1862年)
薩摩藩国父・島津久光が兵を率いて、京へそして江戸へ向かいました。

停滞する幕政の改革を促すためです。

本来なら外様の大名が幕政に口を出すこと、ましてや兵を率いて江戸へ来ることなど、ありえないことでした。
しかし、幕府の力はそれを許してしまうほど衰えていたのです。

島津の圧力に押される形で、幕府は慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁職に任命しました。

慶喜は、春嶽とともに京都守護職の設置・参勤交代制の緩和・洋学研究の推進などの幕政改革を行いました。(文久の改革)

文久3年(1863年)
しきりに攘夷を迫る朝廷と協議をするために将軍家茂が230年ぶりに上洛するのに先駆けて、慶喜が上洛、朝廷との交渉に当たります

慶喜自身は、攘夷をする気はなかったのですが、異人嫌いの孝明天皇を筆頭に、朝廷は攘夷一辺倒でした。

そこで、いったんは攘夷決行に同意します。

ただし、孝明天皇の石清水八幡宮への攘夷祈願には、仮病を使って家茂を同行させませんでした。

神前で攘夷決行を宣言するわけにはいかなかったからです。

慶喜は江戸へ戻ると、攘夷決行の第一段階として、幕閣の反対を押し切って横浜港の鎖港を決めます。

同年8月18日のクーデターにより、朝廷に大きな力を持っていた長州が排斥されると、

慶喜
松平春嶽
京都守護職・会津藩主 松平容保
土佐藩主 山内容堂
宇和島藩主 伊達宗城
薩摩藩国父 島津久光

による合議制の政治制度=参預会議が発足します。

参預会議に出席するために、再び上洛する慶喜ですが、朝廷とのつながりを強めてゆく薩摩藩、横浜鎖港に反対する諸侯を警戒して、大芝居を打ちました。

中川宮らも参加していた参預諸侯との酒席において、慶喜は泥酔(のふりを)して、久光・春嶽・伊達宗城を「天下の大奸物である」と罵倒。

中川宮には「薩摩からいくらもらっているのか」と暴言を吐いたのです。

これに怒った久光が参預会議を辞職し、この体制は慶喜の思惑通り崩壊しました

慶喜、禁裏御守衛総督になる

元治元年(1864年)3月
慶喜は、将軍後見職を辞し、禁裏御守衛総督に就任します。

これ以後、慶喜は京に滞在して、京における幕府勢力の中心的存在として、

禁門の変・第一次長州征伐への出兵
安政五ヵ国条約の勅許を得る

などの活躍をしました。

安政五ヵ国条約
安政5年に幕府が、アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスそれぞれと結んだ条約。
慶喜が勅許を得るまで、仮条約の形だった。

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 第15代将軍徳川慶喜

慶応2年(1866年)
慶喜は、第2次長州征伐の勅命を受けます。

しかし、すでに薩長同盟を結んでいた薩摩藩が出兵しなかったため、幕府軍は連敗でした。

その最中(7月20日)、将軍家茂が大坂城で逝去し、長州征伐は休戦することになりました。

将軍不在となる中、徳川宗家を相続した慶喜でしたが、将軍就任は拒みます

結局慶喜が将軍になったのは、慶応2年も終わる12月でした。

〈慶喜は、なぜそこまで将軍就任を拒んだのか〉

実は、家茂は遺言で、次期将軍を田安亀之助を指名していました。

篤姫など大奥の助言が背景にあったようですが、それ以外にも強硬な尊王攘夷派だった水戸藩など多くの幕臣が、慶喜の将軍就任に反対していたと言われています。

そのため、慶喜はすぐに将軍就任を受け入れず、幕臣や諸侯の推挙がそろう時期を待っていたのではないでしょうか。

慶喜の改革

将軍となった慶喜は、朝廷と密接な関係を築きつつ、また、小栗忠順ら対立関係にあった幕閣と連携し、次々と改革をしていきます。(慶応の改革)

フランスの援助を受けて、横須賀製鉄所・造船所などを設立し、軍制改革を行いました。

幕府の人事では、新しく陸軍総裁・海軍総裁・外国事務総裁などを設置します。

慶喜の実弟・徳川昭武をパリ万国博覧会へ派遣させたり、幕臣の子弟の欧州留学も奨励しています。

ちなみに、渋沢栄一も昭武に同行してパリへ留学しています

こうして慶喜は、日本の開国を見据えた改革を進めました。

しかし、薩長をはじめとする討幕派の勢いを止めることは難しかったのです。

大政奉還

武力でもって幕府を倒そうとする薩長の動静に、慶喜は内乱の発生を危惧していました。

慶応3年(1867年)10月14日
多くの血を流すことなく、徳川幕府を終わらせるために、慶喜は、明治天皇に政権の返上を奏上しました。

大政奉還です。

大政奉還の舞台となった二条城

ただ、当時の朝廷に政治能力はなかったので、大政奉還後は、旧幕臣や諸侯を中心とした政治体制を取っていました。

慶喜も内大臣となり、政治に関わりました。

これに納得しなかったのが、薩長を中心とした討幕派です。
なんとしても徳川家を政治の中心から引きずり下ろしたい討幕派は、密かに動き出しました。

そして、同年12月9日、討幕派はクーデターを起こします

御所を封鎖し、岩倉具視らにより新政府の樹立を宣言しました。

これが「王政復古の大号令」です。

歴史上は、明治天皇が発令したことになっていますが、朝廷はほぼ親幕府派でしたので、明らかに討幕派のクーデターです。

してやられた形の慶喜でしたが、むやみな衝突を避けるために会津・桑名藩主とともに大坂城に退去しました。

大坂城

大坂城

ですが、家臣たちは黙っていられません。

いきなり京を奪われ、主君が大阪へ追い払われたことで薩長への憎しみは膨らむばかりでした。

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慶喜の評判が落ちまくった戊辰戦争

慶応4年(1868年)1月3日
京を制圧した討幕軍と旧幕府軍がとうとう衝突しました。

鳥羽伏見の戦いの勃発です。

数では勝っていた旧幕府軍は、はじめのうちは優位でしたが、旧式の武器が多く、次第に劣勢に立たされて行きます。

会津藩士・桑名藩士・新選組などが果敢に戦いますが、形勢は不利です。

退却しつつ、立て直そうとしたその時、彼らの目に映ったものは、

「錦の御旗」でした。

敵陣に、錦旗が揚がったのです。

これは自分たち(旧幕府軍)が賊軍になったことを示します。
中立を保っていた諸藩は、雪崩を打つようにして討幕軍(今や官軍)に寝返っていきました。
なんと井伊直弼が藩主だった彦根藩まで、寝返ったのです。

旧幕府軍は、敗走に敗走を続け、やっとの思いで大坂城へ入りました。

大坂城には、まだ多くの兵が無傷で残っています。

その上、大阪湾には、海軍が控えていました。

「もう一戦だ!薩長を叩き潰してやる!」

大坂城で開かれた軍議で、慶喜は旧幕府軍の兵たちに言いました。

「最後の一兵になろうとも、決して退いてはならぬ」

大合戦を前に沸き立つ兵たち。

しかしその夜、慶喜は会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬らわずかな側近とともに大坂城を抜け出し、軍艦開陽丸で江戸へ退却したのです。

その時、大坂城にいた開陽丸艦長の榎本武揚は、置き去りにされています。

”敵前逃亡”ともとられかねない慶喜のこの行動は、後々まで慶喜の評判を貶めています。

実際、江戸城においても大クレームでした。

なぜ慶喜は、こんな行動に出たのでしょう。

内乱を避けるための恭順姿勢を貫いた
・尊王の思想が強い慶喜は、朝敵として名を残すことを恐れた
・水戸藩の家訓「朝廷と幕府が対立するようなことがあった場合は、幕府に背いてでも朝廷に弓を弾いてはならない」に従った

などの理由が考えられます。

江戸へ帰ったとき、逃げかえったことを勝海舟に責められたとき、慶喜は言いました。

「錦旗が揚がったのだ」

その一言で、勝はすべてを理解したと言います。

この時期、慶喜のブレーンであり、良き相談相手だった平岡や原市之進、中根長十郎らは、(おそらく水戸藩士らによって)すでに暗殺されていました。

聡明で、頭脳明晰で自分をよく理解してくれていた彼らを失うことは、慶喜にとっては、羽をもがれたようなものだったかもしれません。

彼は、あまりにも孤独でした。

もしも慶喜の傍に彼らの一人でも残っていれば、また違った結果になっていたかもしれません。

その後、戦は翌明治2年(1869年)5月まで続きますが、慶喜は上野寛永寺(のち水戸の弘道館)でずっと謹慎していました

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