岡田以蔵:人斬りと言われた彼の素顔とは?最期に残した言葉とは?

歴史人物

幕末の動乱期、尊王攘夷を唱える過激な浪士たちの中に、「人斬り以蔵」と呼ばれた男がいました。

大河ドラマ『龍馬伝』では、佐藤健さんが演じ、話題になった岡田以蔵です

すさまじい剣の使い手の彼は、師匠とも慕う男の言うままに、暗殺を続け、最期は無残に斬首されました。

彼は、なぜ人を斬り続け、なぜ悲惨な最期を迎えることになったのでしょうか。

今回は、岡田以蔵の生涯を振り返りながら、彼の哀しい生き方を決めてしまった理由を探ってみたいと思います。

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岡田以蔵の生い立ち

岡田以蔵のイメージを決定づけたともいえる司馬遼太郎さんの『人斬り以蔵』

その中の彼は、土佐藩でも特に身分の低い貧困層出身として、無教養な人物として描かれています。

でも本当の彼は、一般的な郷士の家に生まれて、それにふさわしい教育を受けていたことがわかっています。

天保9年(1838年)2月14日

以蔵は、土佐国の郷士・岡田義平の長男として生まれました

(弟・岡田啓吉は、同じく勤皇党に加わり、以蔵の死後も活躍しています)

父・義平は、縁組みの世話(仲人のようなこと)を良くしていて、近所では「七軒町の出雲の神様」と呼ばれていたそうです。

人斬り以蔵の父というイメージには程遠く、人の幸せを喜ぶ、人の好い乞う人物だったと考えられます。

幼いころの以蔵は、優しい父母に囲まれた幸せな日々を暮らしていたことでしょう

武市半平太との出会い

以蔵の父も母も、ある程度の学問を収めていたことから、以蔵も郷士の身分にふさわしい教育を受けていたようです。

ですが、以蔵に学問の才はなく、言葉巧みに使いこなすという技はありませんでした。

その代わり、身体が丈夫で運動神経は良かったと言われています。

武芸をするにふさわしい猛々しい性格もあったことから、父は以蔵を、剣士として名高かった武市半平太と小野派一刀流・麻田勘七に委ねました。

特に人格に優れ、見識も高い武市には、以蔵の精神面の教育も期待していたようです。

以蔵が武市の弟子になった年は、はっきりわかっていませんが、おそらく以蔵が12,3歳の頃だと考えられます。

以蔵は、天性の才能と、優れた師により、剣の腕がぐんぐんと上達していきました。

以蔵の武者修行

安政3年(1856年)9月

以蔵は、武市半平太の供として、江戸へ出ます。

江戸において、以蔵は、桃井春蔵の道場・士学館で鏡心明智流の剣を学びました

以蔵は熱心に修行をしていたようで、翌年には目録を受け、揚々と土佐へ帰ってきます。

刀

帰国してからも、以蔵の剣術修行は続いていました。

生来の剣才に加えて、自信とたくましさは、以蔵をどんどん強くしていきます。

武市半平太の道場では、武市に代わり稽古をつけることも増えていました。

武市半平太の邸宅・道場の跡 出展:Wikipedia

中国・九州へ武者修行

万延元年(1860年)8月

以蔵は、同門の久松喜代馬・島村外内らとともに、武市の供として、中国・九州へ行きました。

武市は、諸国の事情探索をするためでしたが、以蔵らはそのようなことには関わらず、ひたすら剣術の修業をしていました

武市は、諸国探索が終わると、土佐へ帰り、再び江戸へ向かう予定でした。

しかし、以蔵は武市と別れ、九州の岡藩に滞在し、剣術の修業をしています。

これは、以蔵の実家が彼の旅費を出すのに苦労しているだろうから、このまま自分と土佐へ帰ると、もう土佐から出ることができないと思った武市の、以蔵への配慮でした。

武市は、岡藩のある藩士に、以蔵の岡藩での滞在と修行、その後の江戸行きまでの世話を頼んでいたのです。

岡藩 岡城跡

武市にとって以蔵は、頭の回りは良くなくて手のかかる弟子ではあるが、その分、余計に気になる、愛すべき弟子だったのではないでしょうか。

武市は、以蔵のことを「あの阿呆(あほう)」と呼ぶことがよくあったそうですが、このころはまだ愛情のある「あほう」だったのです。

師の愛情に応えるべく、以蔵は剣術修行に励みました。

もしかしたら、以蔵はこのころが一番楽しかったのではないでしょうか。

尊敬する師とともに、諸国をめぐりながら、大好きな剣の修業ができる。

剣の腕は、自分が思うようにどんどん上達する。

学問ではあまり目立たない自分だけど、剣の世界では堂々と勝負ができる。

剣士・岡田以蔵が最も純粋に輝いた時期だったように思います。

土佐勤皇党結成

文久元年(1861年)5月

岡藩を出た以蔵は、江戸へ着きました。

江戸・桃井道場には、竹刀をふるう以蔵の姿が再び見られるようになっていました。

同年8月

武市半平太は、土佐勤皇党を結成します。

全国で湧き上がっていた尊王攘夷運動を勧めるためであり、以蔵も加盟しました。

尊王攘夷
天皇を敬い、異人を追い払うという思想 
当時の日本人は多かれ少なかれこの思想を持っていたようです

剣以外に興味のない以蔵は、ただ師の意向に従っただけと思われますが、とりあえず以蔵は攘夷志士となったのです。

以蔵の人生がここから大きく変わってゆきます。

武市と以蔵

土佐勤皇党の党首として、武市は多くの志士の指揮をするようになります。

複雑な密談も増えてくると、以蔵は次第に武市から距離を置かれることが増えていきました。

土佐勤皇党結成から1ヶ月ほどたったころ、武市は土佐の同志を募り、尊王攘夷運動を実現するために、仲間を連れて土佐へ帰りました。

江戸には、以蔵1人が残されてしまったのです。

以蔵の修業期間が、文久2年正月までだったことも理由でしたが、以蔵には取り残された思いがあったことでしょう。

修業が終わると、以蔵は、土佐まで初めての一人旅をしますが、途中で病に倒れてしまいました。

土佐で、攘夷運動を進める武市でしたが、出来の悪い弟子・あほうな弟子だからこそ気にかかっていたようです。

予定の日になっても帰ってこない以蔵を心配する武市の手紙が残っています。

東海道筋にて病気になったらしい。とても心配だ

吉田東洋暗殺

以蔵がやっと病から復活し、土佐への帰路を急いでいたころ、土佐では武市が大きな壁にぶつかっていました。

藩をあげて、尊王を進めたい武市でしたが、藩主・山内容堂と、彼の信頼する部下・吉田東洋は、公武合体路線を進めており、尊王重視へ傾くことが難しかったのです。

公武合体

朝廷と幕府が手をつなぎ、揺れ動く世情を安定させ、権威を取り戻そうという考え方

このままでは、土佐が尊王攘夷の先駆けになれない…危機感を持った武市は、吉田東洋の暗殺を指示します。

文久2年(1862年)4月8日

武市の命を受けた土佐勤皇党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助は、城から帰る途中の吉田東洋を暗殺しました。

吉田東洋

以蔵、京へ上る

目の上のたんこぶを斬り捨て、ようやく土佐藩の尊王路線が実現実を帯びてきたころ、以蔵は土佐へ帰ってきました。

同年6月

参勤交代の衛士として、以蔵は、初めて京へ上ることになりました。

その途中、大坂で、以蔵は初めて人を殺したのです。


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