島田魁 新選組結成当初から最後まで義を貫いた武士の生涯

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新選組 歴史人物
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個性的(?)な新選組隊士が多い中で、巨漢で知られているのが、島田魁(かい・さきがけ)です。

島田は、新選組がまだ壬生浪士組と名乗っているときに入隊し、土方歳三とともに蝦夷函館まで北上し、土方亡きあとも最後まで旧幕府軍新選組として戦った人物です。

今回は、島田魁の生涯をその義に厚い人となりを見つめながら、お話ししたいと思います。

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島田魁の生い立ち

島田魁は、文政11年(1828年)、美濃国方県郡雄総村(現在の岐阜県岐阜市長良雄総)の庄屋近藤伊右衛門の次男として生まれました。

しかし、島田が13歳のころ、木曽川が氾濫した際に、御用材木を流失した責任を取って、父親が自害。

母親は、その後再婚しますが、子供たちは連れていきませんでした。

そのため母親の姉妹が嫁いだ先に預けられたり、祖父に預けられたりと苦労をしたそうです。

そんな中で、島田は剣術に出会います。

後に新選組隊士となっただけに剣の才能は十分あり、名古屋城での御前試合で優勝しています。

そこで大垣藩士の嶋田才に見いだされ、嶋田家の養子になりました。

その後、剣術修行のため、島田は江戸に出て心形刀流坪内道場に入門、免許皆伝となります。

実は、坪内道場には師範代として、のちの新選組幹部永倉新八がいたのです。

島田と永倉はこのころからの知り合いで、島田が新選組に入隊したのも、永倉のつてだったと言われます。

島田は、その後も剣術修行に励み、次は大坂へ向かいました。

大坂では、槍術の道場で修業をしますが、その道場を開いていたのも後の新選組隊士の谷三十郎と万太郎兄弟です。

谷兄弟が、新選組に入隊したのは島田の後ですので、谷兄弟を誘ったのは島田だったのではないでしょうか。

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島田魁 新選組に入隊する

永倉が、試衛館道場主の近藤勇らとともに上洛し、新選組の前身壬生浪士組を結成して間もなく、おそらく初めての隊士募集の際に、島田は入隊します。

文久3年(1863年)5月ごろ、島田はすでに36歳になっていました。

新選組の中では、そう若くない年齢でしたが、島田は新選組において幅広い活躍をしています。

特に土方の信頼は厚く、諸士取調役研監察として、隊規の取り締まりによる隊内の粛清などで、土方の裏の仕事を支えました。

島田の活躍

有名な活躍としては、元治元年(1864年)の池田屋事件があります。

池田屋事件の発端となった古高俊太郎の捕縛に貢献し、翌日の池田屋事件では土方隊として出動。

後に永倉が隊長の二番隊の伍長も兼任しています。

慶応3年(1867年)11月18日の油小路事件(伊東甲子太郎暗殺・御陵衛士粛清)にも出動し、剣の達人と言われた服部武雄と戦っています。

その油小路事件の生き残りが引き起こした近藤勇狙撃事件(同年12月)の際にも、島田は近藤の護衛として同行していました。

島田が、右肩を狙撃された近藤が乗っている馬の尻をたたき、走らせたことで、近藤はかろうじて命が助かりました。

慶応4年の鳥羽伏見の戦いでは、永倉らとともに決死隊として敵陣に斬りこんでいます。

新選組と戦った薩摩藩が布陣した御香宮 新選組が布陣した伏見奉行所はた薩摩藩が布陣した御香宮 新選組が布陣した伏見奉行所は直線距離でわずか400m

どこまでも新選組隊士として 土方副長とともに

鳥羽伏見の戦いに負け、江戸へ戻ったのち、永倉や原田左之助は、近藤・土方とたもとを分かちます。

しかし、島田は近藤らと行動を共に、流山で近藤が投降した後は、土方とともに戦い続けます。

函館戦争では、新選組隊士として弁天台場を守り、土方死後も降伏するまで戦い続けました。

弁天台場

降伏後は、名古屋藩に預けられ謹慎生活を送ります。

謹慎が解かれた後は、京都に住み新選組時代に知り合っていた女性と結婚しています。

京都に落ち着いてからは剣術道場を開いたり、なぜか雑貨屋を経営しています。

このころに、新政府に入った榎本武揚から明治政府への出仕の話とともに旧交を温めたいので面会したいと伝えられています。

しかし、島田は「会いたいならそっちから出向いてくるのが道理だろう」と断っています。

ここ、のちに紹介する小説にとってもいい島田のセリフがありますので、紹介します!

「おれがさような途を選んだならば、若くして賊徒の汚名のもとに死に、地下に眠っている友人たちはどうするのだ。死すべきところを生きながらえただけでも相済まぬことなのに、おれが、この島田魁がかつての敵になど仕えられるか!」

「新選組伍長島田魁伝 いつの日か還る」より

さすが新選組隊士‼

明治19年(1886年)には、新選組の屯所があった西本願寺の夜間警備員となります。

そして明治33年(1900年)3月20日。

勤務先の西本願寺で倒れ、そのまま死去しました。

享年73歳。

懐には、敬慕する土方歳三の戒名が書かれた紙が入っていたそうです。

島田の葬儀には、永倉新八も参列しています。

余談ですが、永倉はこの時、京都に残した娘に再会したとか、してないとか…。

島田魁の遺骨は、大谷祖廟(東大谷)に納骨されています。

 

島田魁の人柄が偲ばれるエピソード

島田は、身長180㎝・体重150㎏

今でも十分大きな人ですが、当時なら超巨漢。

体格通り、相撲が得意で隊内では「力(リキ)さん」と呼ばれていたそうです。

ニックネームがつくように島田は、温厚な人柄で隊内でも親しまれていたようですが、彼の甘党ぶりには、みんな閉口していました。

超甘党のリキさん

ある日、リキさんは、お汁粉を作りました。

屯所にいると、そうそう甘いものは食べられない、仲間が連れ立っていくときはたいていお酒なので、リキさん、無性に甘いものが食べたかったのですね。

大鍋いっぱいのお汁粉を作ったのですが、砂糖が大量に入っていて糸を引くほどの甘さ

リキさんのことですから、ほかの隊士にも勧めたのでしょうが、甘すぎるほど甘いお汁粉を食べられる隊士はいません。

結局、リキさん一人で平らげたという恐ろしいお話。

以来このお汁粉は「島田汁粉」と呼ばれ、隊内で恐れられたとか、られないとか…。

明治に入って京都に戻ってきたときも、剣術道場や雑貨や以外にレモネードを作っていたそうです。

リキさん、お汁粉以外の好物を見つけていたのですね。

想像通り、そのレモネードは流行りませんでした。

甘かったんでしょうね「島田レモネ」

体格に引けを取らない怪力

慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いでのこと。

島田は、永倉たちと敵陣に斬りこんだが、敵の銃に阻まれあえなく退却をします。

ですが、重装備のため永倉が土塀を乗り越えられずに、今にも敵の銃弾を受けそうです。

島田は、自分の土塀の上から自分の銃を差し出し、つかむように永倉に言うと、そのまま軽々と引き上げたのです

怪力で通っていた島田でしたが、まさに土壇場でその力を存分に発揮しました。

新選組への義を持ち続けた

島田は、土方歳三の戒名を書いた紙を亡くなるまで肌身離さず持ち続けていたほど、土方を敬愛していました。

同時に、近藤勇・土方歳三をはじめとする新選組隊士の菩提を弔うために毎日欠かさず念仏を唱えていたと言われています。

また、自分たち新選組がやってきたこと、その意味を後世に伝えるため『島田魁日記』を残してくれました。

『島田魁日記』は、永倉新八の『新撰組顛末記』『浪士文久報国記事』とともに、今日の新選組研究にとって多大な貢献をしています。

アマチュアファンの私たちにも新選組幹部として生きてきた二人の言葉は、幕末に生きた新選組を間近で感じさせてくれる貴重な本になっていると思います。

島田魁ゆかりの場所と作品

最後は島田魁に関する作品とゆかりの場所を紹介します。

島田魁ゆかりの場所

京都には新選組隊士として活躍した場所のほか、明治になってから妻と住んでいた場所もある程度わかっています。

新選組最初の屯所があった八木邸・旧前川邸

池田屋跡
伊東甲子太郎殉難の地
西本願寺(新選組の屯所が置かれていた)

不動堂村屯所跡
近藤勇が狙撃された地周辺
伏見奉行所跡(鳥羽伏見の戦いで布陣した地)
島田邸跡( 西本願寺のすぐ脇、平安小学校の裏道と言われています)
長円寺(島田魁の菩提寺:過去帳に名前があります)

 

島田魁に関する作品

先ほど紹介した『島田魁日記』現在は京都の霊山博物館に収蔵されています。

霊山歴史館 出展:Oilstreet

新選組日記 木村幸比古

『島田魁日記』と永倉新八の『浪士文久報国記事』の原文と訳文がまとめてあります。

小説ではないので文章は味気ないですが、実際に活動してきた彼らの息吹が聞こえるようです。

新選組伍長島田魁伝 いつの日か還る  中村彰彦

寡黙でまじめな島田の視線から新選組を語り、明治以降の生きざまを描いています。同じく明治まで生き延びた永倉新八もよく描かれています。


歴史人物新選組
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