五代友厚は、渋沢栄一とともにこのように評されています。
「東の渋沢栄一、西の五代友厚」
ともに、近代日本経済の礎となった人たちです。
2021年の大河ドラマ『青天を衝け』では、朝の連続テレビ小説『あさが来た』に続いてディーン・フジオカさんが五代を好演され、再び注目されている人物です。
今回は、幕末から明治にかけて、まさに嵐を呼ぶがごとく活躍した五代友厚について、できるだけわかりやすく紹介したいと思います。
私のように近代史が苦手な方でも楽しく読んでいただけるような記事になっていると思いますので、どうぞ最後までお読みくださいね。
五代友厚の生涯 ~明治維新
天保6年(1836年)
五代友厚は、薩摩藩士五代直左衛門の次男として生まれます。
質実剛健を尊ぶ薩摩藩の気風のもとで育った友厚は、幼少のころから優秀で、8歳になると学塾に通い、12歳で聖堂に進んで、文武両道を学んでゆきます。
元服後は、才助と名乗っていますが、この記事では友厚で統一しています。
志に燃える青年・友厚
安政2年(1855年)
藩の郡方書役助(農政をつかさどる役所の書記官補助)になります。
ペリーの浦賀来航(1853年)以降、世論(特に武士階級)は開国論者と鎖国論者に分かれ、意見をたたかわせていましたが、友厚は開国派でした。
安政4年(1857年)
長崎海軍伝習所へ派遣され、オランダ仕官らから航海術や砲術、数学などを学び、外国の文明にも触れます。
友厚は、この時期に勝海舟やトーマス・グラバーなどと出会い、交流を深めていきます。
3年後に薩摩藩へ帰藩しますが、再び長崎へ遊学して、艦船や武器などの買い付けをい、すでに商務の才を発揮し始めていました。
文久2年(1862年)
幕府は、貿易視察の目的で、上海へ官船千歳丸を派遣します。
しかし薩摩藩士の乗船は許可されていませんでした。
なんとしても乗船したかった友厚は、水夫に変装して乗船しました。
千歳丸には、長州藩の高杉晋作も乗船していて、友厚は高杉と交流しています。
上海には、イギリス・フランス・アメリカの居留地(租界)があり、友厚は当時の文明の先端を行く西洋の文化を目の当たりにしました。
西洋の力を知り、国際人としての見識を高める必要性を身に染みて感じた時期だったのではないでしょうか。
友厚、捕まる
文久3年(1863年)
1年前に起きた生麦事件の下手人差し出しと、賠償金を要求するために、横浜にいた英国艦隊が薩摩へ向かいました。
文久2年(1862年)8月、武蔵の国生麦村(神奈川県横浜市鶴見区生麦)周辺において薩摩藩国父・島津久光の行列に騎馬で乱入してしまったイギリス人たちを薩摩藩士が殺傷した事件
この時友厚は、長崎にいましたが、急いで薩摩に帰ると、寺島宗則とともに薩摩藩の蒸気船に乗って開戦に備えていました。
しかし、なかなか交渉がはかどらないことにしびれを切らした英国は、突然薩摩藩の蒸気船3隻を拿捕しました。
友厚が乗っていた船もこれに含まれています。
つまり、友厚は英国の捕虜になってしまったのです!
薩摩藩は、これに応戦。
薩英戦争勃発です!
力の差は歴然、薩摩藩の損害は大きなものでしたが、英国軍の薩摩上陸は阻止します。

薩英戦争に使用された砲台跡
英国軍は横浜へ帰り、捕虜になっていた友厚たちも横浜で釈放されました。
しかし、「武士にとって捕虜となるのは生き恥をさらすこと」だと考えられていた当時、晴れ晴れと薩摩へ帰ることができません。
その上、もともと開国派だった友厚が、英国に通じていたのでは?と勘繰られ、命の危機をも感じる事態になってしまいます。
そんな友厚を匿ってくれたのは、かつて交流のあったトーマス・グラバーでした。

グラバー邸
友厚は、グラバーのもとで、日本を囲む世界の情勢を知り、危機感を覚えます。
「このままでは、日本は清(中国)の二の舞になりかねない」
アヘン戦争により、西欧の植民地と化した清国のようにならないためには、自分に何ができる。
友厚は、攘夷の無意味さを改めて感じたことでしょう。
友厚、英国へ密航する
翌年になり、帰参が許された友厚は、薩摩藩へ上申書を提出しています。
得た利益で砂糖の製造をして収益を得る
その収益で、留学生を派遣し、多方面にわたる技術・知識を学ぶ
など、富国強兵の重要さ、それを実現するための方法などが細かく書かれた計画書は、「五代才助上申書」と呼ばれ、その後の薩摩の行く道を決めた1つのきっかけになったと考えられます。
慶応元年(1865年)
薩摩藩遣英使節団がイギリスへ派遣、もちろんその中に友厚も含まれていました。
まだ外国への旅行などが禁止されていた時代ですので、薩摩藩は彼らを密航させているのです。
友厚は、イギリスのみならず、欧州各国を視察し、紡績機械の買い付けや技術者の派遣依頼、武器の買い付けなどをしています。
実業家としての友厚の手腕は、この経験が大きな影響を与えたのです。