五代友厚の生きざまがかっこいい!その生涯と逸話から見える人物像とは?

PVアクセスランキング にほんブログ村
幕末~
この記事は約29分で読めます。
スポンサーリンク

※当ブログは広告を掲載しています

五代友厚は、渋沢栄一とともにこのように評されています。

「東の渋沢栄一、西の五代友厚」

ともに、近代日本経済の礎となった人たちです。

2021年の大河ドラマ『青天を衝け』では、朝の連続テレビ小説『あさが来た』に続いてディーン・フジオカさんが五代を好演され、再び注目されている人物です。

今回は、幕末から明治にかけて、まさに嵐を呼ぶがごとく活躍した五代友厚について、できるだけわかりやすく紹介したいと思います。

私のように近代史が苦手な方でも楽しく読んでいただけるような記事になっていると思いますので、どうぞ最後までお読みくださいね。

スポンサーリンク

五代友厚の生涯 ~明治維新

天保6年(1836年)

五代友厚は、薩摩藩士五代直左衛門の次男として生まれます。

質実剛健を尊ぶ薩摩藩の気風のもとで育った友厚は、幼少のころから優秀で、8歳になると学塾に通い、12歳で聖堂に進んで、文武両道を学んでゆきます。

島津の家紋 丸に十の字

元服後は、才助と名乗っていますが、この記事では友厚で統一しています。

志に燃える青年・友厚

安政2年(1855年)

藩の郡方書役助(農政をつかさどる役所の書記官補助)になります。

ペリーの浦賀来航(1853年)以降、世論(特に武士階級)は開国論者と鎖国論者に分かれ、意見をたたかわせていましたが、友厚は開国派でした

安政4年(1857年)

長崎海軍伝習所へ派遣され、オランダ仕官らから航海術や砲術、数学などを学び、外国の文明にも触れます。

長崎海軍伝習所が描かれた絵

友厚は、この時期に勝海舟やトーマス・グラバーなどと出会い、交流を深めていきます。

3年後に薩摩藩へ帰藩しますが、再び長崎へ遊学して、艦船や武器などの買い付けをい、すでに商務の才を発揮し始めていました。

文久2年(1862年)

幕府は、貿易視察の目的で、上海へ官船千歳丸を派遣します。

しかし薩摩藩士の乗船は許可されていませんでした。

なんとしても乗船したかった友厚は、水夫に変装して乗船しました

千歳丸には、長州藩の高杉晋作も乗船していて、友厚は高杉と交流しています。

上海には、イギリス・フランス・アメリカの居留地(租界)があり、友厚は当時の文明の先端を行く西洋の文化を目の当たりにしました。

西洋の力を知り、国際人としての見識を高める必要性を身に染みて感じた時期だったのではないでしょうか。

友厚、捕まる

文久3年(1863年)

1年前に起きた生麦事件の下手人差し出しと、賠償金を要求するために、横浜にいた英国艦隊が薩摩へ向かいました。

生麦事件
文久2年(1862年)8月、武蔵の国生麦村(神奈川県横浜市鶴見区生麦)周辺において薩摩藩国父・島津久光の行列に騎馬で乱入してしまったイギリス人たちを薩摩藩士が殺傷した事件

 

この時友厚は、長崎にいましたが、急いで薩摩に帰ると、寺島宗則とともに薩摩藩の蒸気船に乗って開戦に備えていました。

しかし、なかなか交渉がはかどらないことにしびれを切らした英国は、突然薩摩藩の蒸気船3隻を拿捕しました。

友厚が乗っていた船もこれに含まれています。

つまり、友厚は英国の捕虜になってしまったのです!

薩摩藩は、これに応戦。

薩英戦争勃発です!

力の差は歴然、薩摩藩の損害は大きなものでしたが、英国軍の薩摩上陸は阻止します。

薩英戦争に使用された砲台跡

英国軍は横浜へ帰り、捕虜になっていた友厚たちも横浜で釈放されました

しかし、「武士にとって捕虜となるのは生き恥をさらすこと」だと考えられていた当時、晴れ晴れと薩摩へ帰ることができません。

その上、もともと開国派だった友厚が、英国に通じていたのでは?と勘繰られ、命の危機をも感じる事態になってしまいます。

そんな友厚を匿ってくれたのは、かつて交流のあったトーマス・グラバーでした。

グラバー邸

友厚は、グラバーのもとで、日本を囲む世界の情勢を知り、危機感を覚えます。

「このままでは、日本は清(中国)の二の舞になりかねない」

アヘン戦争により、西欧の植民地と化した清国のようにならないためには、自分に何ができる。

友厚は、攘夷の無意味さを改めて感じたことでしょう。

友厚、英国へ密航する

翌年になり、帰参が許された友厚は、薩摩藩へ上申書を提出しています。

上海との貿易によって、利益を得る
得た利益で砂糖の製造をして収益を得る
その収益で、留学生を派遣し、多方面にわたる技術・知識を学ぶ

など、富国強兵の重要さ、それを実現するための方法などが細かく書かれた計画書は、「五代才助上申書」と呼ばれ、その後の薩摩の行く道を決めた1つのきっかけになったと考えられます。

慶応元年(1865年)

薩摩藩遣英使節団がイギリスへ派遣、もちろんその中に友厚も含まれていました。

まだ外国への旅行などが禁止されていた時代ですので、薩摩藩は彼らを密航させているのです。

なんて大胆で、行動力のある藩なのか、これがのちの明治維新へつながった原動力なのかもしれません。

友厚は、イギリスのみならず、欧州各国を視察し、紡績機械の買い付けや技術者の派遣依頼、武器の買い付けなどをしています。

実業家としての友厚の手腕は、この経験が大きな影響を与えたのです。

スポンサーリンク

五代友厚の生涯 明治以降

慶応2年(1866年)

帰国した友厚は、御納戸奉行、勝手方御用席外国掛(会計係)に就任し、どんどん手腕を発揮していきます。

〈グラバーとともに、長崎の小菅でドッグを開設〉
ドッグとは、日本に来る外国の商船や軍艦が修理を行う場所です。
後に明治政府が買収して、長崎製鉄所管理となり、その後三菱が所有し、三菱重工長崎造船所の礎となります。

三菱重工長崎造船所

 

友厚、活躍する

明治元年(1868年)

徳川幕府が崩壊し、明治政府が発足すると、友厚は参与職外国事務掛になります。

上海や欧州各国への視察経験やその手腕を認められての任命でした。

友厚は、幕末に起きた外国人殺傷事件の解決にも奔走する中で、初めて大阪市にやってきました。

外交的手腕を評価された友厚は、大阪の在勤となり、大阪府権判事・初代大阪税関長に任命、その後大阪府判事にも任じられて大阪府政を任されるようになりました。

しかし、翌年には横浜へ転勤することに。

大阪の商人たちは、何とか残ってほしいと嘆願するほどだったと言います。

友厚は、横浜へ行ってわずか2ヶ月で辞職、再び大阪に戻ってきたのです。

友厚、大阪を救う

江戸時代に「天下の台所」と呼ばれて大いににぎわった大坂でしたが、明治になり様々の経済政策が進められる中で、大阪の経済は混乱し、衰退していきました。

これからの進むべき道を見失い、混乱する大阪の商人たちに、救いの手を差し伸べたのが、五代友厚でした。

大阪通商会社・為替会社の設立

江戸時代には、藩ごとに行っていた貿易や商品流通を国主導で行うために主要な港、都市に通商司が、その下に為替会社と通商会社が作られます。

友厚は、大阪の豪商らに働きかけ、大阪為替会社・大阪通商会社が設立されました。

大阪活版所の設立

友厚の要請により、本木昌造が大坂活版所を創立させ、日本で初めての英和辞典を刊行させます。

大阪造幣局の設置

海外貿易を発展させるうえで、統一された日本通貨の必要性が明らかになる中、友厚は国際的に通用する通貨を作るための造幣寮を大阪に設置しました。

大阪造幣局

大阪商法会議所(現大阪商工会議所)の設立

友厚は、大阪の経済を復活させるためには、大阪の実業家たちが一致団結して、信用第一主義の商売をしなければならないと考えます。

そのための意見交換の場として、大阪商法会議所設立の願書を知事に提出しました。

友厚は、鴻池善右衛門・三井元之助(のちの三井財閥)・広瀬宰平らとともに創立委員となり、大阪商法会議所を設立させ、初代会頭に就任します。

大阪商工会議所前にある五代友厚像

大阪株式取引所(現大阪取引所)の設立

江戸時代以来、金融取引が活発だった大阪の姿を取り戻すべく、またこれからの大阪経済の発展のために、友厚は大阪株式取引所の設立に動きました。

大阪取引所

友厚は、筆頭株主であったにもかかわらず、役員には加わらずに渋沢栄一が設立に携わった第一国立銀行系の人物を頭取に推薦しています。

五代友厚と渋沢栄一は、これ以前からすでに交流があり、お互いに刺激しあう良好な関係を築いていたようです。

大阪商業講習所(現大阪市立大学)の創設

商法や簿記などを教えるための学校を作るためにも友厚は奔走しています。

前出の鴻池善右衛門や広瀬宰平、杉村正太郎なども加わって設立されたのが大阪市立大学の前身・大阪商業講習所で、友厚は多額の寄付金を出しています。

大阪商業講習所跡

これらは友厚の功績のほんの一部です。

友厚は、命を削るように大阪の発展のために奔走し続けました。

しかし…。

友厚を悼む

明治18年(1885年)初夏

友厚は、大阪中之島の自宅(元日本銀行大阪支店)から東京へ移り住みます。

理由ははっきりとしていませんが、このころの友厚は、糖尿病を患っていて東京で療養生活を送っていたようです。

同年9月25日

五代友厚は49歳で亡くなりました。

あまりにも早すぎる死に、大阪府民ならず多くの人々が悲しみに暮れました。

友厚の遺体は、中之島の自邸に運ばれ、葬儀が行われましたが、弔問客は数千名にもおよんだといいます。

大阪の復興に尽力した友厚が、死後に残したのは多大な借金でした。

友厚自身大きな成功を収めながら、その利益は自らの貯えとすることなく、復興事業につぎ込んでいたのです。

滅私奉公の精神を貫いた五代友厚の姿

「今の政治家にこそ見習ってほしい」と思うのは私だけでしょうか。

 

五代友厚の墓所

明治18年10月2日

友厚は、阿倍野の墓地に葬られました。

従五位勳四等五代友厚墓と刻まれた墓石は、安倍の墓地の中央にそびえたつようにして立っています。

男前すぎる!友厚のイケメンエピソード

友厚は、ただ経営手腕にたけているだけでなく、行動力と男気にあふれた人でした。

それがわかる逸話を少し紹介します。

俺がやらねば、だれがやる

友厚は、横浜への転勤が決まったとき、大久保利通にこのようなことを言っていたそうです。

政府には、優秀な人材はいくらでもいるが、民間にはいない。だからこそ私が、大阪で一般の商工業の発展に努めるんだ

強引だけどかっこいい

大阪商法会議所を立ち上げるときに、友厚は大阪の商人たちに協力と加盟を呼びかけました。

しかし、思うように進みません。

友厚は、強引ともとれる勧誘をしました。

「万が一、あとで会に加盟すると申し出ても、拒絶、もしくは巨額の入会費を徴収するが、よろしいか」と。

その結果、60人にも及ぶ同志を集め、会議所設立にこぎつけたのです。

これが大阪のためになるという固い信念があってこその行動です。

あっぱれ日本男児!

明治になって海外との取引が増えるに従い、大阪では外国商人の不正行為が後を絶ちませんでした。

外国貿易になれていない日本人に付け込み、購入料金の不払いや賃金不払い、家賃の不払いなどが平気で行われていたのです。

友厚は、これらの不正行為に断固とした姿勢を貫き、一切の妥協を許しませんでした。

大阪港では、外国船の荷物検査が厳しすぎると明治政府に抗議が届くほどでしたが、友厚はそれにも動じることはありませんでした。

商売をするうえで「信用」は最も大事なことであり、不正を見逃すことは、「信用」を失うことにつながるという強い思いが、友厚にはあったのです。

大隈重信に送った言葉

早稲田大学の創設者である大隈重信と友人であった友厚は、彼のワンマンぶりを見かねて手紙を送っています。

あえて、大隈重信の欠点を述べたうえで、このような助言をしています。

第一条 愚説愚論だろうときちんと最後まで聞いてあげる(途中で話を取り上げない)
第二条 自分より地位の低いものが自分と同じ意見なら必ずその人の意見として採用する(手柄は部下に譲る)
第三条 怒りに任せ、怒気怒声を発すれば、あなたの徳望が失われるだけ(常に穏やかに接する)
第四条 事務上の決断は、部下の話が煮詰まってからする(独断で決めない)
第五条 自分が嫌っていれば、相手も自分を嫌ってしまう。だから、気に入らない人とも積極的に交際をする(懐を広く持つ)
友厚自身も心掛けていたことなのでしょう。
なんとも大きな心を持っていた人です。

本当にこのような人が、今の日本政府の中心にいてくれたら、と心の底から思ってしまいます。

五代友厚をもっと知りたい人へ おすすめの作品

五代友厚の生涯や功績、友厚自身の魅力をもっと知りたい方におすすめの作品を紹介します。

五代友厚 蒼海を越えた異端児  高橋直樹

薩英戦争から友厚が亡くなるまでを描いた小説です。

魅力的な友厚が縦横無尽に、破天荒に動き回る面白い作品です。

五代友厚の偉業を楽しく学ぶのにおすすめです。

五代友厚 士魂商才  佐江衆一

薩摩藩士としての友厚から商人としての友厚を描いた小説です。

友厚の根っこには薩摩隼人の血が流れ、もって生まれた商才を余すことなく発揮して思う存分生きた彼が描かれた読みやすい作品です。

幕末を呑み込んだ男 小説・五代友厚  黒川十蔵

薩摩に生まれ、幕末を生き、大阪を復活させた男・五代友厚の生涯を描いています。

複雑な時代背景を簡潔に説明していますので、幕末・明治が苦手な方にも読みやすいと思います。

臨場感にあふれた文章で、一気にのめり込んでしまうかも。

NHK連続テレビ小説『あさが来た』 2015年後期

ディーン・フジオカさんが五代友厚を演じ、話題になった作品です。
2021年の大河ドラマ『青天を衝け』でもディーン・フジオカさんが五代友厚を演じていらっしゃいますね。


『天外者(てんがらもん)』 2020年公開映画

幕末を生きた五代友厚を描いています。

三浦春馬さんが友厚を熱く演じていらっしゃいました。

終わりに

今回は、五代友厚についてお話ししました。

何しろ五代さんの偉業がすごすぎて、簡単な記事には収まりきらない!

大阪を立て直す事業については、ずいぶんと端折ってしまいました。

この記事で、少しでも五代さんのすごさがわかっていただけたらうれしいです。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

幕末~歴史人物
スポンサーリンク
小春

こんにちは、このブログを運営している小春です。
地元京都の素顔やおすすめ情報、歴史人物、季節や旧暦の行事、好きな本のことなどを、思うままに綴っています。
*おすすめの本や映画の記事は、sakuramochさんも書いていますよ*
温かな木漏れ日のようなほんわかした気分になっていただけるようなブログを目指します!
どうぞ楽しくお読みくださいね。

《当メディアは、Amazonのアソシエイトとして、適格販売により収入を得ています》

コメント

タイトルとURLをコピーしました