新選組の内部抗争の果てに暗殺された新選組局長芹沢鴨。
京の町を守る立場でありながら、数々の乱暴狼藉を働き、新選組の評判を落とす「悪」とされています。
ですが、本当にそうなのでしょうか?
今回は、芹沢鴨の生涯を振り返りながら、彼の素顔と暗殺された本当の理由を探ってみたいと思います。
芹沢鴨 上洛するまでの経歴
芹沢の生い立ちは、はっきりとしていません。
天保3年(1832年)、多賀郡松井村(現・北茨城市中郷帳松井)の下村裕の子で、名は嗣次だったというのが通説です。
水戸藩領で青年期を過ごした芹沢は、ほかの若者と同様に、尊王攘夷を唱える水戸学の影響を強く受けます。

尊王攘夷論を唱えた徳川斉昭
剣術は、神道無念流を学び、免許皆伝を受けるほどの腕前でした。
芹沢、玉造党へ
万延元年(1860年)ごろ、ペリーの浦賀来航以来、混乱していた世の中を憂い、過激な尊王攘夷思想を持った「天狗党」の前身「玉造党」が結成されると、芹沢も加入します。
「玉造党」は、過激な運動や強引な金策を行ったため、水戸藩から捕縛命令が出ます。
主要メンバーが次々につかまる中、芹沢も捕縛され、入牢し、死罪を言い渡されました。
しかし、文久2年(1862年)末、恩赦が行われ、翌年初めに赦免されました。
芹沢、上洛する
文久3年(1863年)2月
清河八郎の進言により、幕府は将軍警護のため浪士組を組織し、浪士を募集しました。
芹沢は、新見錦ら仲間とともに参加します。
江戸試衛館道場の近藤勇・土方歳三らもこの浪士組に参加しています。
浪士組は、京の西にある壬生村へ入り、芹沢たちは、近藤ら試衛館メンバーとともに郷士・八木源之丞の屋敷を宿としました。

八木邸 屯所跡
上洛した浪士組は、清河八郎の画策により、朝廷直属の攘夷軍に鞍替えし、攘夷決行のため江戸へ帰還することが決定されます。
しかしこれに反対したのが、芹沢一派と近藤一派でした。
壬生浪士組から新選組
浪士組と袂を分かった芹沢たちは、連名で京都守護職の会津藩に嘆願書を提出、受け入れられます。

京都守護職会津藩の本陣となった金戒光明寺
芹沢たちは、八木邸を屯所として「壬生浪士組」を立ち上げました。
芹沢・新見錦・平山五郎・平間重助・野口健司
近藤勇・土方歳三・沖田総司・井上源三郎・山南敬助・永倉新八・原田左之助・藤堂平助
殿内義雄・家里次郎・根岸友山ほか
全24名(諸説あり)
それから半月ほどの間に内部抗争により、暗殺されたり、離脱した者が出たのち、「壬生浪士組」は、芹沢・近藤両派が牛耳ることになりました。
芹沢、局長になる
芹沢・近藤らは、壬生浪士組が活動するにあたり、京・大阪で隊士募集をして正式に組織編成を行いました。
幹部は浪士組で上洛したメンバーで、以下のように芹沢派と近藤派がバランスよく配置されていました。
副長:土方歳三
副長:山南敬助
副長助勤:沖田総司・永倉新八・原田左之助・井上源三郎・藤堂平助・平山五郎・野口健司・平間重助
芹沢は、筆頭局長です。
会津藩お預かりとなった彼らですが、このころはまだ俸給もなく、毎日の食い扶持にも頭を痛めるような状態でした。
将軍警護・京の町の護衛をするためには、やはり体裁も整えなければなりません。
江戸ではすでに強引な押し借りをしていた芹沢の主導だったのでしょうか、彼らは大坂へ向かうと豪商鴻池善右衛門から二百両ものお金を借りています(返す気のない借金ですが)
そのお金で京の大丸呉服店で羽織や袴などを新調、上洛以来ほぼ着の身着のままだった彼ら(特に近藤たち試衛館メンバー)は、ほっと一息つけたことでしょう。
壬生浪士組の仕事が本格的に始まりました。
局中法度
壬生浪士組の仕事は、京の町を見廻り、不逞浪士を捕縛することが中心でした。
組織の体裁も整い、隊内にも余裕が出てくると、隊士たちに緩みが見えるようになります。
隊の規律が乱れることを恐れた近藤たちは、厳しい掟を作りました。
いわゆる「局中法度」といわれるものです。
副長の土方が発案したとも言われるこの掟は、芹沢ももちろん目を通して許可したものです。
士道に背いたり、勝手に金策したり、無断で隊を抜けたりすると、切腹!
とんでもなく厳しい掟が、自分の首を絞めていくとは、この時芹沢は気づいていませんでした。
「局中法度」は、新選組を最強の戦闘軍団に育てるのですが、一方でいずれは芹沢派を一掃しようと考えていた近藤派の用意周到な準備だったとも考えられます。
自滅していく芹沢
壬生浪士組は、会津藩を後ろ盾として、大いに働きます。
芹沢も隊務に励みますが、時として過ぎた暴力や酒による問題を起こしていました。
主に芹沢派による乱暴狼藉は、京の町衆に恐れられ、「壬生狼(みぶろ)」といううれしくない呼び名までついてしまいます。
これは、会津藩にとっても困った事態です。
会津藩の意向を受けた近藤派は、密かに芹沢派の排除に動き出しました。
文久3年9月13日ごろ
祇園「山緒」において、芹沢派局長新見錦が切腹します。
芹沢と同様に、数々の悪行をしていた新見に、その罪状を上げ連ね、切腹させたと言います。
新見の切腹を後から知らされた芹沢は、烈火のごとく怒ったとも言われています。
島原での宴会で泥酔して眠っていた芹沢は、突然の襲撃に跳ね起き、応戦します。
辛うじて、隣の部屋へ逃げた芹沢ですが、文机につまずき倒れたところをめった刺しにされ亡くなります。
一緒に寝ていた愛人のお梅は皮一枚残して首を斬られていました。
芹沢一派の平山五郎も死亡、平間重助は騒ぎの乗じて逃げ出し、行方知れずとなっています。
刺客は、土方歳三・沖田総司・山南敬助・原田左之助(藤堂平助とも)ですが、会津藩には、「芹沢が屯所に入り込んできた刺客に暗殺された」と報告されています。
芹沢が暗殺された翌々日、屯所では盛大な葬儀が行われ、芹沢暗殺の命を下した近藤勇が、朗々と追悼の言葉を述べました。
芹沢鴨と平山五郎の墓は、屯所近くの壬生寺に建てられ、今も現存しています。