新選組2番隊長永倉新八 隊内きっての剣客は最期まで武士の誇りを持っていた 

歴史人物

永倉新八は、新選組の中でも、沖田総司・斎藤一と並んで、剣の達人と言われた人です。

江戸っ子で情に篤く、その上めっぽう強い永倉新八は、新選組ファンの中でも人気が高く、多くの映像作品で有名な役者さんが演じていらっしゃいます。

とても魅力的で陽のイメージが強い(あくまで個人的な感想です)永倉ですが、明治維新以降は、賊軍として追われる時期もありました。

今回は、永倉新八の生涯を追いながら、明治・大正をどう生きたのか、新選組をどう思っていたのかなどについても、考えてみたいと思います。

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生い立ち~試衛館へ

天保10年(1839年)4月11日

永倉新八は、松前藩江戸定府取次役・長倉勘次の次男として生まれました。

幼名は栄治。

ちなみに、永倉の本姓は、長倉と表記します。

とてもやんちゃな子で、親も持て余すほど。

そこで、武士の心得である剣術を習わせることにしました。

岡田利章の神道無念流道場「撃剣館」に入門したのは、栄治8歳の時です。

もともと筋が良いうえに、エネルギーが有り余っている栄治は、みるみる上達します。

入門から4年後に、師匠の岡田利章が亡くなった後は、岡田助右衛門に学び、15歳で切紙(剣術初段クラスの免状)、18歳で本目録を得ます。

栄治はこの年に元服し、新八と名乗るようになりました。

立派な剣士になった新八に一安心した両親でしたが、そうはうまく事が運びませんでした。

新八、脱藩する!

元服した翌年、新八は、脱藩してしまったのです。

理由は、剣術修行のため。

本来なら、脱藩というのは大変重い罪でしたが、武士の本文である剣を極めるという目的があったため、新八含め長倉家には、おとがめなしでした。

新八は、長倉から永倉の表記に改め、江戸本所亀沢町の百合元昇三の道場で剣を学び始めました。

この道場で4年間、剣の修業を続けた新八は、神道無念流免許皆伝を得ます。

一流の剣術使いとなったわけですが、これで満足しないところが新八です。

同門の市川宇八郎(のちの芳賀宜道)とともに、武者修行の旅に出たのです。

日本刀

関東一円の剣術道場の門をたたいて、剣を合わせ、新八はますます強くなっていきます。

再び江戸へ帰ったときには、江戸4大道場の1つと言われた練武館・心形刀流(しんぎょうとうりゅう)伊庭英業(伊庭八郎の父)の門人・坪内主馬に見込まれ、道場の師範代を務めるまでになりました。

新八は、この道場で、新選組の仲間となる島田魁と知り合いになっています。

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試衛館・近藤勇との出会い

やがて、新八は、天然理心流・試衛館の近藤勇と出会います。

どのようないきさつで新八が試衛館へ行ったのかは、わかっていません。

剣に関しては向上心の有り余っていた新八のことですから、有名な道場だけでなく、いろんな剣術道場に顔を出しているうちに、試衛館にたどり着いたのかもしれませんね。

土方歳三・沖田総司を筆頭に、個性豊かな面々がたむろしている試衛館は、新八の気性にあっていたのでしょう。

天然理心流の木刀

また、道場主の近藤勇のおおらかな性格にも魅かれ、いつのまにか新八は、試衛館の食客(居候兼師範兼助っ人)になっていました。

試衛館で世情を論じ、剣を交える日々の中、彼らに大きな転機が訪れます。

第14代将軍徳川家茂の上洛(京へ上ること)に伴い、警護のための浪士組が結成されるという情報が入ってきました。

浪士隊には、志のある者なら、だれでも応募できるというのです。

試衛館道場主の近藤・土方・井上源三郎は農家出身、新八を始め、沖田総司・原田左之助・山南敬助・藤堂平助は脱藩浪人。

確固たる身分のない彼らには願ってもない話でした。

彼らは、そろって浪士組に参加しました。

新選組結成

文久3年(1863年)2月23日

新八は、試衛館のメンバーとともに浪士組の一員として上洛しました。

京都・三条大橋

今日の西・壬生村に落ち着いた浪士組でしたが、到着したその夜に浪士組を率いてきた清河八郎が、とんでもないことを宣言したのです。

「我々は、将軍の警護をするために上洛したのではない。尊王攘夷の先鋒として、帝のために働くことが、本当の目的だ!再び江戸へ帰り、攘夷を実行するのだ」

これに反発したのが、近藤以下試衛館メンバーです。

「将軍をお守りするために、我々は京にやってきたのだ。このまま江戸へ帰るなどもってのほか!」

結局、試衛館メンバーのほか、水戸脱藩浪士の芹沢鴨一派、根岸友山、殿内義雄ら20数名が京へ残留しました。

壬生浪士組

京に残った彼らは、京の警護を任せられていた京都守護職・会津藩のお預かりとなりました。

「壬生浪士組」のちの「新選組」

これが、新八の新しい居場所となりました。

新選組屯所・八木邸

派閥争いにより、根岸友山や殿内義雄らが排除され、壬生浪士組は、近藤派と芹沢派が中核をなすことになります。

新八は、局長・副長に次ぐ副長助勤という役につき、京の治安維持のため、隊務に励みました。

過激な攘夷志士が横行していた京の見廻りという、張り詰めた毎日は、新八にとって充実したものだったでしょう。

まさに命がけの緊張の毎日は、新八の剣の腕が最も生かせる場所だったのです。

新八、力士と喧嘩する

新八が、局長・芹沢鴨らとともに、大坂へ下ったときのこと。

ほろ酔いで歩く芹沢の前に、こちらもほろ酔いの力士が冗談めかして「通せんぼ」をしたのです。

「無礼者!」

抜く手も見せずに切り捨てる芹沢。

力士の仲間は騒然とします。

しかしその場は、何とか収まり、芹沢・新八たちは、遊郭へ遊びに行きました。

そこへ乱入してきたのは、先ほど斬られた力士の仲間たち。

それぞれに角棒などをもって、殺気だっています!

芹沢は、刀をもって力士の中へ。

刀

遅れて新八・沖田・山南・平山五郎らも参戦。

大男たち相手に、暴れまわりました。

この喧嘩が、いいことなのかわるいことなのか。

幕末の混迷の時代の事なのでなんとも言えませんが、後に新八が書いた「新撰組顛末記」には、生き生きと暴れまわる彼らの様子が伝わってきます。

芹沢鴨は、素行の悪さや酒癖の悪さのせいもあり、近藤・土方には邪魔な存在でした。

ですが、しらふの時は気のいいところがあり、胆力もある芹沢を、新八は好きだったようです。

芹沢の剣の流派は、新八と同じ神道無念流だったということも、新八が親近感を持つ理由の1つでした。

剣の流派が同じというのは、感覚的には同じ学校を卒業した者同士が近いかも。ただ、流派ごとに物事の考え方が似通っていた点もあるらしく、今の時代では想像できない部分も多い。

芹沢暗殺

文久3年9月16日深夜

壬生の屯所:八木邸において、芹沢鴨・平山五郎が暗殺されました。

表向きは、長州藩の仕業ということになりました。

しかし、実行したのは、土方・沖田・山南・原田。(土方・沖田以外は諸説あり)

永倉が知ったのは、事後でした。

試衛館以来の仲間で、剣の腕も沖田に引けを取らない新八が、なぜ暗殺メンバーに選ばれなかったのか。

それ以前に、暗殺のたくらみすら知らされなかったのか。

おそらく、新八が芹沢と同じ流派だったことも一つの理由だったのでしょう。

「自分は、のけ者になっていた」

これ以降の出来事を見ると、新八にとって、近藤を今までと違った目で見るきっかけになった事件となっているのかもしれません。

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池田屋事件勃発

元治元年(1864年)6月5日

かねてから調べていた過激浪士たちの動きから、とんでもない計画を探り出した新選組は、この日の夕刻、八坂神社下の祇園会所に集合していました。

会津藩の応援を待って、浪士たちの会合場所を探し、捕縛する予定なのです。

鎖帷子を着込み、妙に生き生きとしている新八。
ともすると、不敵に笑っているようにも見える表情で、会津藩の連絡を待っていた。
新八にとって、命がけの出撃は、もう慣れたものだったが、今回ばかりは次元が違う。
何しろ、新八が選ばれた近藤隊は、局長の近藤を始め、沖田総司・藤堂平助・原田左之助以下10名に満たないのだ。
おそらく数十名入るであろう浪士たちの中へ、この人数で向かっていくことは、自殺行為に近い。
そうわかっているはずなのだが、新八は油断すると笑いそうになる。「好きだねぇ、こういうの」
ひりひりするような危機感、それを己の剣1本で、斬り開いてゆく…
「たまらねぇ…」
新八の中で、静かに血が騒いでいるようだった

いつまでたっても会津藩の連絡がこないことに焦れた近藤は、新選組だけで出撃することを決意します。

近藤隊と土方隊、連絡係を兼ねた井上隊に分かれた新選組は、それぞれの探索場所へ向かいました。

近藤隊が、池田屋で浪士が会合していたのを見つけたのは、夜の10時ごろでした。

「御用改めである」近藤の野太い声が、池田屋の玄関に響く。
浪士たちは、池田屋の2階にいる。
近藤と沖田が正面の階段を駆け上がる。新八は、藤堂・原田とともに1階にとどまった。
2階から次々と浪士たちが逃げてくる。新八は、次々と斬りすてる。
藤堂が、眉間を斬られた。
かばう新八に、敵が襲い掛かる。
死に物狂いの敵は、新八の思うように斬りこませない。
数合の打ち合いの後、隙をついた新八の刀が袈裟懸けに敵を斬り下げた。
勢いが強すぎて、土間に打ち付けた刀が折れる。
新八は、血煙を立てて倒れた敵の刀を拾い上げると、妙に手が濡れていることに気づいた。
よく見ると、左の親指の付け根が深々と切り取られていた。

この時点でまだ無傷なのは、近藤勇くらいでした。

沖田総司は、戦いの途中で昏倒しています。

以前は喀血したせいだと言われていましたが、今はおそらく熱中症のようなものだったのではないかと考えられています。

新八は、左手を負傷しながらも、戦い続けていました。

次第に、新選組側が押されてきます。

そこへ、土方隊が到着。

新選組が、息を吹き返しました。

人数が増えたことで、浪士の「斬り捨て」から「捕縛」する方針へ変わり、土方が指揮を執ります。

このころ、やっと応援に駆け付けた会津・桑名藩でしたが、土方は、一歩も現場に近づけず、周囲の守りをさせました。

「池田屋における手柄を横取りさせねえ」

土方らしいやり方です。

すべてが片付き、新選組が引き上げたのは、近藤隊突入から2時間余りたっていました。

折しも、祇園祭の宵山。

池田屋から壬生の屯所へ帰る道中には、多くの町衆が遠巻きに見ていたと言います。

返り血を全身に浴びた新八は、堂々と引き上げました。

新選組の全盛期

池田屋の事件により、新選組の名は一躍有名になりました。

池田屋事件から1か月余り後の「禁門の変」

尊攘派浪士の捕縛などで、新八は活躍します。

しかし、新八は気に入らないことがありました。

それは、局長近藤勇のふるまいでした。

新八、憤る

池田屋事件により、幕府における新選組の認識も変わってくるにつれ、近藤の態度も変わってきました。

何かにつけ、妙に偉そう…。

局長なので、偉いのかもしれませんが、江戸のころの近藤と比べると「自分たちを見る目が違う」

新八は、そう感じていました。

江戸っ子らしく、さっぱりして明るい性格の新八のもとへ、結成当時からの隊士が、近藤に対する不満をぶつけることもあります。

「俺たちは、近藤さんの家来じゃねえ」

どうにも我慢がならなくなった彼らは、会津藩主・松平容保に建白書を出しました。

建白書は、永倉新八・斎藤一・原田左之助・島田魁・尾関政一郎・葛山武八郎の6名の連名で、近藤の非行5か条をあげ、近藤に切腹を命じてほしいと訴えています。

その上、もし近藤が、自分の非行に対し正当な理由を述べられるのなら、我々(6名)が切腹するというのです。

ただ事ではないこの建白書を見た松平容保公は、新八たちに対し、直々に説得しました。

会津藩としては、京を守るために大いに役立ってくれている新選組をつぶしたくはありません。

近藤と新八たち双方に歩み寄って、解決してほしいと考えていました。

自分たちの行動が、会津藩に迷惑をかけるとなっては申し訳ない。

会津藩主 松平容保

新八たちは、建白書を取り下げました。

容保公は、近藤を呼び出し、新八たちと和解させました。

とはいえ、新八の中で、近藤に対するわだかまりは残っていました。

新選組のごたごたを、会津藩主に解決させた形になったのです。

この時期の新選組の立場がいかに大きかったかがわかる出来事でもありますね。

 

伊東甲子太郎の入隊

元治元年10月

伊東甲子太郎が、仲間とともに入隊します。

伊東は、江戸で北辰一刀流の道場を開いていた人物で、藤堂平助が師事していました。

伊東甲子太郎肖像画

近藤‐土方ラインで、すべてが決まってゆく新選組の体制には、藤堂も不満を持っていたのです。

伊東の加入により、新選組が次第に2派に分かれていきました。

論説爽やかで温厚な伊東は、隊士たちにも人気があり、ともすれば近藤をしのぐほどになっていきます。

穏やかな表情を崩さない伊東だが、新八は、一線置いていた。

「近藤さんは、確かに偉ぶって気に入らない。だが、伊東は底が見えない」

伊東の、穏やかな表情の裏に見え隠れする妙な空気を、新八は感じていた。

 

山南敬助 切腹

元治2年(1864年)2月

総長・山南敬助が新選組を脱走。

沖田が追手となり、帰ってきた山南は、切腹を命じられました

新八は、山南のもとを訪れ、もう一度脱走するように勧めます

しかし山南は、すでに覚悟をしていました。

「介錯は、沖田君に」

2月23日

山南は、切腹して果てました。

試衛館以来の仲間が亡くなったことに、新八は何を思っていたのでしょうか。

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新選組 山南敬助の生涯 山南はなぜ新選組を脱走したのだろう

新八、遊郭に入り浸る

隊内の微妙な勢力関係が続く中、新八は隊務に励んでいました。

しかし、伊東甲子太郎は、水面下で着々と事を進めています。

慶応3年(1867年)正月元日

伊東は、腹心数名と新八・斎藤一を連れて、島原の角屋へ行きました。

今では飛ぶ鳥を落とす勢いの新選組です。

角屋でも大いに歓待します。

島原 角屋

すっかり酔った新八と斎藤でしたが、帰隊時間には気づいていました。

新選組には、届け出もなしに帰隊時間に遅れると、最悪切腹という処罰が待っています。

「そろそろ帰らないとヤバイぞ」

帰ろうとする新八たちに、伊東が言います。

「まあまあいいじゃないですか。せっかくの良い気分なのですから、今宵はもうここにいようではありませんか。後のことは、万事私に任せてください」

新八と斎藤は、なぜか伊東の言葉に従い、そのまま角屋に居続けました。

翌日も朝から飲み続けます。

「どうせ切腹は免れない。最後の酒だ、思い切り楽しもう」

自棄になっているのかどうか、新八たちは結局4日間も島原に居続けたのです。

最後は、近藤の使いが来てようやく屯所へ帰ってくる始末。

待っていたのは、怒りで真っ赤になった近藤でした。

新八・伊東・斎藤は、それぞれ部屋で謹慎するよう言い渡されます。

近藤は、特に新八に対してはわだかまりがあり、今回の件を許す気は全くありません。

しかし、3人とも切腹させるのは、あまりにも隊内への影響が大きい。

新八だけを切腹させようと考えた近藤を止めたのは、土方でした。

伊東の勢力が大きくなりつつある今、結成以来の永倉を切腹させるのは、まずい。

 

冷静な土方のおかげで新八の首はつながりましたが、近藤と新八の間にはさらに深い溝ができていました。


歴史人物新選組
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