幕末の京にあり、ひたすら幕府への忠義を通したばかりに、悲劇的な最期を迎えることになってしまった会津藩。
藩主の松平容保は、貴公子のようなその容貌からは、考えられないほどの苦悩を抱え続ける日々を送りました。
旧幕府軍についた藩の中でも、特に注目されて来た会津藩、そして会津藩主・松平容保とは、どんな人物だったのか。
幕末の動乱の中、松平容保は何を考え、どんな行動をとっていたのでしょうか。
今回は、松平容保の生涯を追ってみましょう。
松平容保の生い立ち
天保6年(1835年)12月29日
松平容保は、江戸の高須藩邸で高須藩主・松平義建の六男として誕生しました。
水戸藩初代藩主・徳川頼房の子孫にあたります。
すぐ下の弟は、のち桑名藩主となる松平定敬(さだあき)です。
会津家の養子となる
弘化3年(1846年)
容保は、叔父の会津藩主・松平容敬(かたたか)の養子となりました。
容保が会津松平家上屋敷へ迎えられた時には、彼の貴公子のような美しい容貌に、藩士や婦女子が騒いだそうです。
容保は、会津藩の家風に基づいた教育を受けます。
それは、「義」と「理」の精神、会津家家訓による徳川家への忠勤を絶対としたもので、その後の容保の行動に大きく影響を与えています。
会津藩家訓
会津藩藩祖・保科正之が58歳の時に作成した会津藩士の精神的な規範。
第一条で、会津藩の立場や藩主・藩士のあり方を示しています。
大君の儀、一心大切に忠勤に存すべく、他国の例をもって自ら拠るべからず。若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。 「会津藩家訓第一条」
(将軍家にはひたすら忠誠を誓いなさい。他藩を見て判断するな。もし藩主が、この教えに背いて徳川将軍に逆意を抱くようであれば、それはわが子孫ではないから、家臣はそのような主君には決して従うな)
徳川家が絶対的な力を持っている時代には、この家訓に従うことが藩のためにも良かったのでしょう。
しかし、まさにこの一条が、幕末・戊辰戦争による会津藩の悲劇をもたらしたとも言えます。
容保 会津藩主になる
嘉永5年(1852年)2月10日
藩主・容敬が亡くなったため、容保は家督を継ぎ、会津藩主・肥後守となります。
万延元年(1860年)
桜田門外の変により、水戸脱藩浪士たちにより井伊直弼が暗殺されます。
老中たちは、尾張徳川藩と紀伊徳川藩に対し、水戸家討伐の兵を出す命令を出そうとしました。
容保は、「徳川御三家同士の争いなどあってはならぬ」と幕府と水戸藩の朝廷に奔走します。
結果、血を流すことなく解決しています。
京都守護職就任
文久2年(1862年)5月
京都守護職への任命を打診されます。
しかし、容保はこれを固辞しました。
このころ、容保は病がちで、このような重い任務を果たす自信がないと、何度も断ります。
容保が、慣れない京都での任務に自信がないというのも本当だったと思いますが、これには会津藩の財政難も影響していたようです。
会津藩もそれにもれず、もし藩主が会津から遠く離れた京都で任務に就くとなれば、常駐する藩士も少なくありません。
彼らを京都で養うための貯えが乏しかったようです。
しかし、幕臣や政事総裁職・松平春嶽らは毎日のように容保のもとを訪ね、就任の受け入れを願います。
それでも断る容保に、彼らは会津藩家訓を持ち出したのです。
「藩祖・保科正之公なら、どうされますでしょう」
詰め寄られた容保には、断ることはもうできませんでした。
これを聞いた会津藩家老の西郷頼母らが急いで江戸へ出てきて、京都守護職就任を断るように容保に願います。
容保の覚悟はすでに決まっていました。
「わが藩には、宗家(徳川家)とともに盛衰存亡すべしという藩祖公の家訓がある。私自身は不肖ではあるが、宗家への恩を忘れたことはない。だが、この重責を受けるならば、我ら君臣の心が一致しなければやり遂げられないだろう。どうか私に従ってほしい」
容保の言葉を受けた家臣は「ともに京を死に場所としよう」と、容保とともに涙したと言います。
容保 上洛する
文久2年(1862年)12月24日
容保は、会津藩兵を率いて上洛しました。
京都守護職の本陣となる黒谷金戒光明寺までの道中、多くの京の人々が道の両側で会津藩の行列を見守りました。
その規律正しさに京の人々は好感を持ったそうです。
文久3年(1863年)1月2日
容保は、御所に参内し、孝明天皇に拝謁し、天杯と緋の御衣を賜りました。
2月に入ると、容保は具体的な行動を始めます。
京は、過激な攘夷派浪士が横行する危険な町となっていたため、治安維持のため、市中巡回の制度を作りました。
脅迫や暗殺といった過激な手段を取る浪士たちに対し、幕府は取り締まり強化・逮捕させようとします。
しかし容保は、浪士が騒ぐのは、意見が幕府へ通じないからだと考えました。
という布告を出したのです。
幕府側はこの容保のやり方に「勝手にしろ」とあしらいますが、容保は「言路同開」が浪士を鎮める良策だと言っています。
言路同開(げんろどうかい)
君主や上にある者が広く意見を受け入れ、検討すること
これ以後も、会津藩は規律正しく治安維持を進めてゆきます。
しかし、浪士たちは様々な策により、暗殺・脅迫を続けます。
たまりかねた会津藩士はある時、容保に進言しました。
「今は、策謀がめぐる混乱の時です。こちらも策を弄して取り締まりましょう」
容保は、
「策は用いるな。最後には必ず一途な誠意・忠義が勝つ」
と、家臣をいさめました。
また容保は、家臣の勤めに不備があったときや民衆からの訴えがあったときも、すべて自分の不肖のせいだとして、家臣を責めませんでした。
家臣たちも次第に容保にならい、真摯に職責のまっとうに尽くしたと言います。
新選組 会津藩お預かりとなる
文久3年(1863年)3月
将軍警護のため江戸から上洛したものの、再び江戸へ帰った浪士組を抜け、京に残留し、壬生村に滞在していた、近藤勇・芹沢鴨ら17名(23名とも)の浪士から嘆願書が提出されました。
容保は、彼らを会津藩お預かりとして、京都市中の治安維持に当たらせます。
これが壬生浪士組、のちの新選組でした。
以後新選組は、会津藩と命運を共にします。
京にいたある老人の話が残っています。
京都守護職の容保のことを、京の人々は「会津中将さん」と呼んでいました。男が見てもほれぼれするような美男子で、黒谷さん(金戒光明寺)から御所へおいでになる姿を見たことがあります。
真っ白な馬にお乗りになり、真っ赤な陣羽織を着て、鳥烏帽子をかぶり、槍を担いだ新選組を従えておられました。馬の口は近藤勇が取り、右手に例の虎徹を抜き身でもっていました。・・・。
新選組が、容保の護衛をすることもあったのですね。
近藤勇の誇らしい表情が見えてきそうです。
容保と孝明天皇
京都守護職として上洛して以来、容保への孝明天皇の信頼は、日々大きくなっていました。
それは、容保自身の誠実さが大きかったように思います。
文久3年6月、京都守護職に江戸下向の勅命が下ったことがあります。
実はこれは、容保ら会津藩を京から当座けるための偽の勅命だったのですが、当の容保は状況がわからず、困惑していました。
孝明天皇は、宮廷の慣例を破り、容保に直接手紙を届けさせたのです。
天皇直筆・御宸翰(ごしんかん)です。
その中には、「京都守護職を東下(江戸へ帰すこと)は、自分が願っていることではない。よからぬ者たちの偽勅であり、これが真勅である。私は最も会津を頼りにしている」としたためられていました。
容保はあまりの感動・感激で泣き続けたそうです。
同年7月30日
会津藩兵の馬揃え(軍隊の訓練)の天覧(天皇がご覧になること)がありました。
この時、容保は、孝明天皇から賜った緋の御衣で作った陣羽織を着ています。

今に残る京都守護職時代の容保の写真はこの日のものです
八月十八日の政変
文久3年8月18日早朝。
会津藩・薩摩藩など、公武合体派の藩が御所の門を封鎖します。
長州藩が警護していた境町御門も、他藩に変更させられます。
長州よりだった公家・三条実美、姉小路公知らは、御所へ入ることができなくなりました。
孝明天皇を担ぎ上げて攘夷を実行しようと計画していた長州藩ら、過激攘夷派を京から除くために強行された八月十八日の政変です。
この時も、孝明天皇は「すべて容保に任せる」と申されたそうです。
容保 重病に苦しむ
元治元年(1864年)に入ると、容保は病に臥せる日が増えます。
しかし、ゆっくりと養生する時間はありません。
病をおして、容保は任務を遂行していました。
2月になると、長州征伐のため、陸軍総裁に任じられます。
京都守護職には、松平春嶽が任命されましたが、孝明天皇はこれを大変残念がり、容保にも手紙を届けています。
「長州征伐が終われば、また守護職に就いてもらえるのか、そのように取り計らえないか」などと、迷っておられる様子も見られ、本当に容保を頼りにしてされていたようです。
しかし、容保の病状は重く、このころは数十日間床を離れられなかったほどでした。
寝たきりのままでは職務を全うすることもできないと、陸軍総裁の職を辞する願いを出しますが、幕府は許しませんでした。
ですが、孝明天皇を始め幕閣内でも、容保の京都守護職復職の要望が多く、新選組も松平春嶽の支配下で働くことを嫌がり、容保の下へ戻してほしいと願ったほどでした。
そのため、4月7日には、容保は京都守護職に復職します。
容保は、未だ病が癒えず衰弱するばかりです。
度々の辞任の願いも、幕府は許さないままでした。
蛤御門の戦い
元治元年(1864年)6月5日
池田屋事件が起こります。
会津藩配下の新選組が、過激浪士たちによる孝明天皇の長州へのご遷座、容保の暗殺、御所の焼き払いを阻止しました。
この事件で多くの志士を失った長州藩は、兵を京へ向け出発させます。
幕府は、撤兵の勧告を度々したが、長州は従わず嵐山天龍寺と、伏見方面、山崎の天王山に軍を置きました。
7月18日夜、伏見の長州軍が御所に向けて進撃を始めます。
容保は、孝明天皇に拝謁し、小御所の庭に宿営して天皇を守りました。
容保の病は、まだ回復していないため、この日は家臣に両肩を抱えられながら戦をしていたと言います。
数夜に及ぶ庭での防衛で、容保の病は再び悪化しました。
病をおして任務にあたる容保に対し、これ以後も天皇は、たびたび見舞いの品や手紙などを送られています。
容保の病が何とか快癒したのは、よく元治2年(慶応元年:1865年)4月の事でした。
将軍・家茂の死
蛤御門の戦いの後、第1次長州征伐で、長州の勢いはそがれました。
しかし、表向きは謹慎しながら、裏では再び戦闘の準備を進める長州藩。
幕府は第2次長州征伐を決行しますが、幕府側の戦意は低く、背水の陣で必死で向かう長州藩に対し、敗戦が続いていました。
慶応2年(1866年)7月20日
長州征伐の指揮を取るため、大坂城にいた第14代将軍・徳川家茂が死去しました。
家茂を支え、忠節を尽くしてきた容保は、悲しみの中にいましたが、さらなる長州出征を訴えます。
しかし、幕府はこれを拒否、戦は休戦しました。
孝明天皇崩御
同年12月25日
孝明天皇が突然崩御されました。
容保が最も頼りにし、忠義を尽くしていた、そして最も信頼していただいていた孝明天皇を失ったのです。
その悲しみ、絶望感は計り知れないものがあったことでしょう。
翌年の2月、容保は辞表を出しました。