朝日将軍:木曽(源)義仲 友と戦い、友と散った生涯を追う

歴史人物

源平合戦の先陣を切った木曽義仲。

天性の戦上手と言われながら、最後は同じ源氏である頼朝の配下の軍に敗れました。

義仲はなぜ、天下を取れなかったのか。

なぜ頼朝と戦う羽目になったのか。

本当の義仲とはどんな人物だったのか。

 

今回は、悲運の武将・木曽義仲の生涯を追ってみたいと思います。

スポンサーリンク

木曽(源)義仲の生い立ち

義仲は、源義賢(みなもとのよしたか)の次男として生まれました。

幼名は駒王丸久寿元年(1154年)のことです。

父・義賢は、のちに近衛天皇となる東宮・体仁なりひと親王を警護する帯刀を務め、源氏の嫡流とみなされていました。

しかし、滝口の武士が殺された事件の関与を疑われ、廃嫡されています。

駒王丸の危機

義賢は、兄・義朝(鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の父)との仲は良くなく、関東で勢力争いをしていました。

久寿2年(1155年)

武蔵国・大蔵館(現埼玉県比企郡)における義朝との合戦に中で、義賢は、義朝の長男・義平に討たれました。

わずか2歳の駒王丸にも討手が放たれますが、危ういところで乳父である中原兼遠(かねとお)に抱かれて、信濃国へのがれました。

駒王丸は、兼遠の庇護のもと、木曽谷(現・長野県木曽郡木曽町)で育ち、元服後は義仲と名乗ります。

兼遠のもとには、兼光(かねみつ)・兼平(かねひら)という息子がおり、義仲とは生涯の友であり、義仲四天王として最期まで従っています。

義仲四天王
今井兼平(中原兼平)…兼遠の子
樋口兼光(中原兼光)…兼遠の子で兼平の兄
根井行親(ねのいゆきちか)…保元の乱で義朝に従い戦った武者
楯親忠(たてちかただ)…根井行親の子

兼遠には、娘もおり、それがのちの巴御前(ともえごぜん)という説もありますが、確かではありません。

木曽の険しい山中で、義仲と友たちは、日々鍛錬を続けながら、世に出る日を待っていたのでしょうか。

ですが、世は平家の全盛期となっていました。

義仲、立つ!

治承4年(1180年)

後白河法皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)が、平家打倒を命じる令旨(命令の書)を発し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけました。

木曽の義仲のもとにも、叔父である源行家が令旨をもってきます。

義仲は、これに応じて挙兵しました。

義仲が平家打倒の旗揚げをしたと伝わる旗挙八幡宮

以仁王は、挙兵後平家軍に討たれますが、平家打倒の波は全国に広がりつつありました。

信濃国、上野国へと順調に勝ち進みますが、同じく挙兵して鎌倉で勢力を強めていた頼朝との衝突を避けるため、いったん信濃国へ戻ります。

義仲と頼朝

義仲と頼朝は、従兄弟という関係ですが、義仲にとっては父を攻めた義朝の子であり、父を殺した義平の弟です。

ですが、義朝・義平ともすでに平清盛に討たれていました。

義仲は、あえて頼朝と争うつもりはなかったようです。

一方頼朝は、自らが源氏の嫡流として立つために、義仲は邪魔だと考えていたのです。

頼朝は、義仲が考えているより冷徹でした。

以仁王挙兵の継承者

治承5年(1181年)

義仲は、越後から攻めてきた平家方の城資永(じょうすけなが)を横田河原(現・長野県長野市)で破り、そのまま北陸へ進みました。

寿永元年(1182年)

北陸へのがれてきた以仁王の遺児・北陸宮(ほくろくのみや)のために御所を作り、宮を擁護します。

北陸に勢力を広げながら、平家打倒を目指すことにしたのです。

一方頼朝は、南信濃から関東にかけて勢力を広げ、関東の武士を統制しつつありました。

寿永2年(1183年)

頼朝を裏切り、追われた志田義広と源行家が義仲に助けを求めてきました。

彼らを庇護した義仲と頼朝の仲は、一層悪くなります。

しかし今は、源氏同士で仲たがいをしている場合ではありません。

平家打倒という大きな目標を達成するため、両者は一旦和解しました。

その証として、義仲の子・義高が人質として鎌倉へ、頼朝の娘・大姫と結婚しました。

親同士のいさかいとは関係なく、義高・大姫夫婦はとても仲が良かったそうです。

江戸時代に描かれた義高

倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い

次第に勢力を強めてくる源氏に対し、平氏は大軍で攻めかけます。

越前・加賀を攻め落とし、義仲との対決が迫ります。

10万にも及ぶ平氏軍に対し、義仲軍はわずか4万。

戦場となったのは、越中国砺波山倶利伽羅峠となみやまくりからとうげ(現・富山県小矢部市周辺)です。

寿永2年5月9日

平氏軍の前軍が般若野はんにゃの(現・富山県高岡市南部から砺波市周辺)に陣を張っていましたが、大軍と戦うのに、平野は不利です。

義仲は、砺波山中での戦いに持ち込む作戦を立てました。

義仲四天王の1人・今井兼平は6千の兵を率い、般若野の平氏軍に奇襲をかけます。

戦況が不利と見た平氏軍は、いったん退却、砺波山に陣を張りました。

義仲は、砺波山山ろく一帯にに源氏の目印である白旗を立てて、あたかも大軍がいるように見せます。

平氏軍は、本隊が来るのを待つために、砺波山で一夜を過ごすことに。

これこそが、義仲の計画でした。

火牛の計(かぎゅうのけい)

「険しい山道を一気に駆け上り、平氏軍に奇襲をかける」

兵力に差のある義仲軍は、命がけの作戦を実行しました。

5月11日深夜

角に松明を付けた牛を先頭に、義仲軍が山を駆け上がり、平氏軍の眠る陣に襲い掛かります。

闇夜の山中で、いきなり多くの炎がすごいスピードで襲ってくるのです。

ぐっすり寝ていた平氏の兵たちは、パニック状態となり、逃げまどいました。

その先には、倶利伽羅峠の断崖が。

その上、義仲四天王の1人・樋口兼光の軍が、平氏軍の背後に回っていたのです。

この戦いで、平氏軍の大半が犠牲になりました。

「倶利伽羅谷大合戦」勝川春亭画。1810年

平氏軍の多くが落ちていった倶利伽羅峠の谷は、この後「地獄谷」と、死体が積み重なった谷を流れうる川は、血や膿で染まったために「膿川(うみがわ)」と呼ばれるのです。

義仲、破竹の勢い

平氏の大軍を破った義仲軍は、そのままの勢いで勝ち進みました。

いつの世も勝ち馬に乗る者は多く、義仲軍は追従する武将たちで次第に膨れ上がっていきます。

6月末

近江国(現・滋賀県)へ入った義仲は、比叡山延暦寺と交渉を始めました。

比叡山延暦寺は、時として僧兵を使い、朝廷までも脅すこともある、非常に大きな勢力を持っていました。

そのため、スムーズに京の都へ入るためには、比叡山延暦寺を黙らせておく必要があったのです。

半分脅しのような文書により、比叡山延暦寺を味方につけた義仲軍は、京へ向かいます。

7月25日

京を守りきれないと覚悟した平氏は、安徳天皇を擁し、西国へ逃げました。

この時平氏は、後白河法皇も伴うつもりでしたが、事前に危機を察しが後白河法皇は、比叡山に身を隠します。

義仲、入京

寿永2年(1183年)7月28日

義仲は、大軍を率いて京に入りました。

その前日、後白河法皇は、頼朝のもとを離れ義仲軍に加わっていた山本義経の子・義高に守られながら都に戻っています。

義仲の立場

入京してすぐに、義仲は、源行家とともに後白河法皇の邸である蓮華王院へ参上します。

後白河天皇

行家は、義仲の父・義賢の異母弟であり、義仲にとって叔父にあたる人です。

頼朝に負われ、義仲に救われた行家ですが、ともすれば義仲の上位に立とうとするところがありました。

後白河法皇のもとへ参上したときも、義仲と序列を争い、本来なら2人が前後して歩くところを、並んで歩いたのです。

これが、礼を知らない田舎者・義仲とそしられる続ける原因となった出来事でした。

朝日将軍・義仲

その後、朝廷において、義仲は越後守、行家は備後守に任じられますが、行家が不服を申し立て、義仲は伊予守、行家が備前守になります。

加えて、後白河法皇は、義仲に「朝日の将軍」という称号を与えました。

この称号には何の権限もありませんが、義仲の輝かしい戦歴にふさわしい言葉であり、義仲自身も喜んでいたのではないでしょうか。

義仲は、「平家追討」とともに「京の平安・狼藉の取り締まり」を命じられ、義仲に従った同盟軍とともに、京の町の守護を始めました。

義仲の苦悩

京の町には、京を守るために平氏がかき集めた武士崩れの輩が至る所で乱暴狼藉を働いていました。

手当たり次第に略奪をする彼らを取り締まるために、義仲軍は奮闘します。

家々に押し入って家人を殺し、食糧を奪う武士たち十数人を捕らえ、六条河原で即座に首をはねることもありました。

しかし、近年の飢饉により、元々食糧事情が悪化していた京に、義仲軍という大軍まで入ってきたのです。

簡単に治安回復はできませんでした。

その上、義仲軍に従った軍には、義仲による統制ができる状態ではありません。

義仲直属の軍は、礼儀正しく行動していても、従軍してきたほかの武士が乱暴を働いてしまうのです。

義仲はたびたび、京の近郊や東国などからの食料の供出を願い出ていましたが、朝廷は応じません。

いつまでたっても平安の戻らない京の町。

義仲の苦悩をよそに、行家は後白河法皇のもとに入り浸っていました。

皇位継承問題

安徳天皇とともに、三種の神器も持ち去っていた平氏に対し、後白河法皇は返還を求めますが、請けいられるはずもありません。

後白河法皇は、高倉上皇の皇子を擁立することに決めました。

これに異を唱えたのが、義仲です。

以仁王の遺児・北陸宮こそが、正当な皇統であるとして、次期天皇とするように主張したのです。

「皇族でも貴族でもない人間が、皇位継承問題に意見するなどあり得ない」

「伝統も格式も、礼儀も知らない粗野な人物」

義仲の貴族・朝廷内での評価は一段と下がったのです。

義仲VS頼朝・後白河

寿永2年(1183年)9月19日

後白河法皇は、義仲に対し、即座に平家追討に向かうように命令しました。

義仲は、兼光を京に残し、平氏の本拠・播磨国(現・兵庫県姫路市)へ向かいます。

樋口兼光

義仲が京を離れるのと入れ替わるように、後白河法皇のもとに源頼朝の書状が届きました。

後白河法皇の上洛要請に対する返事でした。

後白河法皇は、頼朝に東国の支配権を認めるとともに、頼朝を赦免するという寿永二年十月宣旨を下します。

頼朝は、弟・範頼と義経を大将として大軍を京へ向かわせました。

義仲、苦戦

義仲は、平氏との戦いで慣れない海上戦に苦戦していました。

海の上での戦いは、平氏お得意の戦。

義仲軍は、有力な武将を次々を失い、膠着状態に陥っていました。

そんな時、京に残していた兼光から連絡があります。

「法皇と頼朝が手を組んだ、頼朝が大軍を率いて京へやって来る、行家が裏切った」

思ってもいなかった情報に、義仲は平氏との戦いを切り上げ、わずかな軍勢で京へ向かいました。

後白河法皇の裏切りは「生涯の遺恨」であるとし、猛烈な抗議をし、頼朝追討の宣旨を出すように要求します。

法皇は、頑としてこれを受け入れません。

反対に義仲に対し、こう命じました。

「今すぐ、平氏追討に向かうのだ。応じないというならそれは、謀反だとみなす」

法住寺合戦

寿永2年11月19日

義仲は、後白河法皇のいる法住寺殿を襲撃します。

現在の法住寺 蓮華王院(三十三間堂の向かいに位置する)

法皇側も奮戦しましたが、義仲軍の猛攻に大敗。

後白河法皇は、義仲軍に捕縛されました。

法皇側についた武士や貴族、僧侶までもが戦死し、義仲は、数百の首を五条河原に晒したのです。

これは、義仲という武将の恐ろしさ・残酷さを京の町に知らしめる結果となり、京における義仲への信頼は一気に落ちることになってしまいます。

義仲は、朝廷の人事を一新しました。

寿永3年(1184年)1月15日

義仲は、朝廷に自らを征夷大将軍に任命させ、頼朝追討の命を出させます。

頼朝軍は、目前に迫っていました。

義仲と友

1月16日

頼朝勢・範頼の軍が瀬田(現・滋賀県大津市)に陣を進めます。

義仲は、今井兼平に500騎あまりを任せて瀬田へ根井行親・楯親忠父子には300騎ほどを預けて宇治川へ向かわせました。

残りはわずか100騎あまりを従えて、義仲は後白河法皇御所を守ります。

宇治川の戦い

宇治川には義経軍が待ち構えていました。

根井行親・楯親忠父子は、必死で防戦しますが、宇治川を突破されます。

この戦いで根井行親は、壮絶な最期を遂げました。

宇治川先陣の碑

楯親忠

まだ討たれていなかった親忠は、義仲のもとへ急ぎます。

雪崩を打って京へ攻め込んでくる義経軍と激戦を繰り広げる義仲のもとへ。

楯親忠は、この後六条河原で討ち取られたと伝わっています。

義仲とともに戦い最期を迎えたのか、義仲に会う前に討たれたのかは、わかっていません。

今井兼平

瀬田で範頼軍と戦っていた兼平は、宇治川での敗戦を聞き、義仲と合流すべく京へ向かっていました。

義経に後白河法皇を奪われた義仲は、常にそばで戦っていた巴御前とともに兼平のもとへ向かっていました。

義仲の最期:粟津の戦い

1月20日

義仲は、ここまで従ってきた巴御前を諭し、落ち延びさせます。

わずかの兵とともに戦ううちに、義仲と兼平だけになりました。

「武将は最期が大事」という兼平の言葉に、義仲は自害するために松原に入ります。

しかし、馬が泥の深みに脚を取られ身動きできないところを狙われて、顔面に矢を受けて討ち死にしました。

木曽義仲 享年31歳。

大津の義仲寺にある義仲の墓

義仲を失った兼平は「もはや命を賭して戦う意味はなくなった」と叫び、太刀の切っ先を口に含み、馬上から真っ逆さまに飛び降りて自害しました。

樋口兼光

兼光は、義仲を裏切った行家を討つために河内国(現・大阪府東部)へ向かっている途中でしたが、京で戦が起こったことを知り、義仲を探しに京に戻ってきたところを捕縛されました。

義仲や兼平の首が京を引き回されると、自分も共にと懇願し、立て烏帽子えぼし藍摺あいずり直垂ひたたれ姿で従い、その翌日、首を斬られました。

兼光の首は、彼の願い通り義仲の隣に晒されました。

木曽・徳音寺にある義仲の母小枝御前、巴御前、樋口兼光、今井兼平の墓、

義仲の子・義高

頼朝のもとへ人質として贈られ、頼朝の娘・大姫と結婚していた義高は、どうなったのでしょう。

義仲との戦が始まったことで、おそらく義高も覚悟をしてたと思われますが、大姫の手引きにより、いったんは頼朝のもとから逃亡しました。

しかし、すぐにつかまり、討たれてしまいます。

それを聞いた大姫は、悲しみのあまり気鬱になり、その後誰のもとへ嫁ぐこともなく、20歳の若さで亡くなりました。


歴史人物平安時代
スポンサーリンク
小春

こんにちは、このブログを運営している小春です。
地元京都の素顔やおすすめ情報、歴史人物、季節や旧暦の行事、好きな本のことなどを、思うままに綴っています。
*おすすめの本や映画の記事は、sakuramochさんも書いていますよ*
温かな木漏れ日のようなほんわかした気分になっていただけるようなブログを目指します!
どうぞ楽しくお読みくださいね。

今日も小春日和で~京都あれこれ
タイトルとURLをコピーしました