幕末騒乱の京の都。
攘夷志士たちによる暗殺事件が頻発していた中で、京の町を警護しようと働いた新選組。
たった5年の活動期間だったにもかかわらず、今の私たちに鮮烈な印象を与えています。
今回は、土方歳三が新選組を作り上げ、幕末最強の武士集団に育てていくまでに注目したいと思います。
土方歳三は、個人的に思い入れが強すぎるため、時に妄想が入ったり、暴走したりすると思いますので、予めご了承くださいね。
土方と新選組の生きざまをどうぞご堪能ください。
浪士組から壬生浪士組へ
清川八郎率いる浪士組に参加して京へやってきた歳三ら試衛館一行でしたが、清川の策が幕府に知られ、浪士組は再び江戸へ帰ることになりました。
将軍警護のお役を果たそうと、道場をたたんで京に来た近藤は、江戸へ帰ることを拒否。
試衛館の面々は京へ残ることになります。
同じ宿舎に泊まっていた水戸脱藩浪士芹沢鴨一派も京残留組となります。
さてここから、いかにして今日で活動すべきなのか。
何のつてもない近藤たちはいったいどうするつもりなのでしょうか。
会津藩お預りになる!
京に残った歳三たちは、浪士組宿舎として泊まっていた壬生の八木邸にそのまま居候を決め込みます。

八木邸の人たちはさぞ迷惑だったと思います。でもよくぞ彼らを受け入れてくれました
近藤の「将軍の警護及び京の町を守る」という愚直なまでの初心を貫くべく、八木邸の居候たちは、自主的な京の見回り警護を始めます。
と同時に、京都守護職会津藩藩主松平容保に嘆願書を提出しました。
将軍が京を離れるまで市中見回りの許可を求める嘆願書でした。
そして…。
文久3年(1863年)3月15日
京都残留組は、黒谷にある会津本陣へ招請され、藩主松平容保に拝謁することになりました。
この時の近藤、歳三らの胸中はいったいどんなものだったのでしょうか。
農民という身分にありながら、武士になりたいとあこがれ、将軍の警護をするために京へ上った彼らでしたが、まさか会津藩主に拝謁できるなんて考えもしなかったと思います。
その感激、驚きは、私たちには到底想像できないほど大きなものだったと思います。
松平容保は、近藤、歳三たちに言葉をかけます。
「これからは、わが会津藩士らとともに助け合って京を守ってほしい。頼んだぞ」
多摩の田舎から出てきた歳三たちにとって、会津藩主直々の言葉はどれほどの感激をもたらしたことでしょう。
彼らが最期まで会津藩とともに戦う道は、この瞬間決まったのです。
浪士組を抜けて、京に残った者は、八木邸の面々以外にも殿内義雄・家里次郎・佐伯友山・粕谷新五郎・阿比留鋭三郎など数人おり、計24名が松平容保と拝謁したとされています。
しかしこの後1か月ほどの間に、派閥争いにより暗殺されたり、逐電したため、八木邸のメンバーが主導権をとるようになりました。
かくて「会津お預り 壬生浪士組」の誕生です!
壬生浪士組 活動開始
文久3年4月11日
壬生浪士組は、攘夷祈願をするために石清水八幡宮へ行幸する孝明天皇の道中警護をします。
壬生浪士組として初めての警護。
みんな張り切ったでしょうね。
同年4月16日
会津本陣にて松平容保に武術披露。
初仕事ののわずか5日後、松平容保から謁見を望まれます。
謁見の場で会津藩主は突然、「そなたたちの武術稽古をみたい」と命じます。
歳三たちはさぞ驚き、興奮したことでしょう。
歳三はなんとトップバッターです。
対する相手は、藤堂平助。
秋山香乃さんの小説『歳三 往きてまた』では冒頭にこの場面が出てきます。
少し長いですが、歳三と藤堂の立ち姿がとても素敵に描かれていますので紹介します。
会津側からため息が漏れた。どちらも容姿が傑出していたからだ。艶やかで豊かな黒髪に白い肌の対比なら、主君容保の貴族的で優美な姿を見慣れていてもいたが、土方には加えて野性味を帯びた獣のようなしなやかさがあった。一方の藤堂は、物静かな顔立ちに澄んだ瞳が爽やかな印象を残す青年だ。 『歳三 往きてまた』より
ちなみに2番以降は、以下のようなメンバーでした。
- 永倉新八vs斎藤一
- 平山五郎vs佐伯又三郎
- 山南敬助vs沖田総司
- 川島勝司(棒術)
- 佐々木愛次郎 佐々木内蔵之丞(柔術)
歳三、組織作りをする
身分を問わず、腕の確かなものなら入隊できるといううわさが広がり、壬生浪士組に入隊する隊士はどんどん増えていきます。
歳三は、壬生浪士組が烏合の衆にならないためにもしっかりした組織体系が必要だと考えます。
多摩にいたころ、秘伝の石田散薬を作るための薬草を取るとき、多くの人を使って効率よく仕事をするすべを知っていた歳三は、組織とその命令系統がいかに大事かを知っていました。
近藤や物知りの山南らと検討を重ね、作り上げた組織の主な役職がこちら。
局長:芹沢鴨 新見錦 近藤勇
副長:山南敬助 土方歳三
副長助勤:沖田総司 永倉新八 原田左之助 藤堂平助 井上源三郎 平山五郎 野口健司 平間重助 斎藤一 尾形俊太郎 山崎丞(すすむ) 谷三十郎 松原忠司 安藤早太郎
調役:島田魁 川島勝司 林信太郎
勘定方:岸島芳太郎 尾関弥四郎 河合耆三郎 酒井兵庫
(太字が試衛館からのメンバーです)
命令系統は局長から副長へ、副長から助勤以下へ下ります。
つまり、直接命令するのは副長の山南と歳三ということです。
歳三は、実戦に対する部隊を直接指揮するという最適のポストを確保したのです。
隊を引き締める最強のルール局中法度
新選組を語るうえで有名なのは、厳しい罰を定めた局中法度です。
永倉新八が残した『新撰組顛末記』では、「禁令」として以下のように定められたと記されています。
第一 士道に背くこと
第二 局を脱すること
第三 勝手に金策をいたすこと
第四 勝手に訴訟をとりあつかうこと
この四箇条をそむくときは切腹をもうしつくること、またこの宣告は同志の面前でもうしわたすこと
(局中法度という言葉は、実は子母澤寛さんが『新選組始末記』の中で、この条文を整理して編集したものです)
『新撰組顛末記』では、この禁令は芹沢、近藤、新見が定めたと記されていますが、直接宣告するのは副長の歳三が山南になるので、おそらくこの二人もかかわっていたはずです。
この法度が定められたことで、壬生浪士組の隊士たちは身が引き締まる思いになったでしょう。
壬生浪士組から新選組へ
壬生浪士組は、市中見回り・不定浪士の取り締まりなど日々の警護を続けましたが、世情はどんどん不穏になりつつありました。
文久3年8月18日
禁門の政変(八・一八の政変)が起こり、壬生浪士組は会津藩の下知により御所へ出動。
この働きにより、「新選組」の名を拝命します。
ここに「新選組」の名が初めて歴史上に登場しました。
同年8月22日
京都守護職から福岡藩脱藩浪士平野国臣の捕縛を命じられます。
歳三が指揮した捕縛班は、三条縄手方面を捜索、24日には旅宿豊後屋へ踏み込みます。
歳三は、この出動を”三条縄手の戦い”と称して、日記にしたためていたらしいです。
歳三にとってもハレの舞台だったのでしょう。
のちに禁門の政変でも使用した鉢金とともに佐藤彦五郎に送っています。
現在日記は所在不明ということですが、鉢金は土方歳三資料館で見ることができます。
歳三、邪魔者を消す
歳三たちとともに京に残った芹沢鴨一派(新見錦・平山五郎・平間重助・野口健司)は、日に日に横暴な態度をとるようになっていました。
大坂出張の折には、芹沢の行く手を(ふざけて)ふさいだ相撲力士を斬り捨てたり、島原の角屋で暴れまわったり、大坂新町の芸奴の髪を切ったり、挙句の果てに大和屋という商家の蔵に大砲を打ち込んだり。
近藤たちがまじめに市中見回りをしても、目立つのは芹沢たちの悪評ばかり。
新選組は「壬生狼」と呼ばれて、京の人々から恐れ、嫌われていました。
近藤を担ぎ上げ、新選組を大きくしようと考える歳三にとって、そんな芹沢たちは邪魔者でしかありません。
折しも会津藩からそれとなく芹沢の処分を命じられます。
しかし…。
「芹沢は、神道無念流の凄腕。まともに斬りあっても太刀打ちできるのはおそらく総司、それも相打ち覚悟の斬りあいになるだろう」
そう考えた土方は、だまし討ちを決意します。
だまし討ちを決意した段階で、近藤には直接手を下させないと決めます。
「近藤さんには手を汚させない。それは俺の役目だ」
歳三は、まず腹心の新見錦を法度違反で切腹させます。
新見錦を失った芹沢は、一層荒れます。
文久3年9月16日
禁門の政変の功績に対し、会津藩から報奨が出たということで、この日は島原で大宴会が行われます。
芹沢は相変わらず大酒を飲みご機嫌です。
歳三も今日はいやに愛想がよくて気持ち悪い…。
芹沢・平間・平山は屯所になっている八木邸に帰ると、待っていた相方の女性と再び宴会をはじめ、いつの間にか寝入ってしまいました。
外は土砂降りの雨です。
真っ暗な雨の中を歳三、沖田、原田、山南が静かに芹沢たちの寝室に近づきます。
翌日芹沢と妾のお梅、平山が惨殺された姿で見つかりました。
(平間とその相手の糸里、平山の相手吉栄は逃げ出しています)
芹沢らは急死として届けられ、隊内では長州の刺客に斬られたということにされました。
2日後、近藤は芹沢と平間のために立派な葬儀をあげました。
新選組の主要メンバーは、大半を近藤派になり、歳三の新選組が始まります。
同時に歳三は血の粛清をすべて引き受ける覚悟をするのです。
平間重助とともに逃げたといわれる糸里を主人公にした浅田次郎さんの『輪違屋糸里』は、糸里から見た歳三や芹沢、平間を描いています。
女のしたたかさや隊士たちの弱さが垣間見えて、新選組をテーマにしたものの中では趣の違った面白い作品です。