平安の恋多き女流歌人和泉式部は本当に魔性の女?それとも哀しき女性?

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十二単 歴史人物
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和泉式部は、紫式部・清少納言などと同時代に生きた女性です。

小倉百人一首の

「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」
(私はもうすぐ死んでしまうでしょうが、この世の最後の思い出にもう一度あの人に逢いたい)

なんとも情熱的な恋の歌を歌った和泉式部は、次々と浮名を流し、モテモテの恋多き女流歌人として有名ですが、何しろすご~く昔の話。

実際のところはどうだったのかは、わかりません。

そこで今回は、和泉式部の生涯と、和泉式部の自伝的作品と言われる「和泉式部日記」から見える彼女の本当の姿を探ってみたいと思います。

小悪魔のような彼女に会えるのか、また別の彼女が出てくるのか、どうぞお楽しみに!

 

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和泉式部の生涯

和泉式部に限らず、この時代の女性は歴史上に詳しく出ることが少なく、生まれた年や没年ははっきりしていません。

父親は、大江雅致と言われています。

大江という姓は、源氏・平家・藤原・橘と同等の姓なので、由緒正しき出自だったということです。

和泉式部、波乱の人生が始まる

長保元年(999年)ごろ、和泉式部が10代後半か20代前半のころに橘道貞の妻となり、和泉国に入ります。

和泉式部という名は、最初の夫の任国に由来しています

道貞との間には、娘小式部内侍が生まれています。

彼女も母譲りの歌の才能を持っていました。

ですが、京へ帰った後は、道貞とは別居状態となり、その後別れています。

それと前後して、冷泉天皇の第三皇子為尊(ためたか)親王が和泉式部を見初め、熱愛関係になったという噂が出ます。

あまりにも身分が違う間柄のため、和泉式部は父に勘当され、その上為尊親王はしばらくして病死してしまいます。

為尊親王の死後、今度はその弟敦道親王が和泉式部に求愛するのです。

敦道親王は、正室がいたのにもかかわらず、和泉式部を自分の屋敷に住まわせようとします。

藤原氏の姫であった敦道親王の正室は、屋敷を出て行ってしまいました。

今なら、まさしく略奪愛ですね。

和泉式部は、敦道親王との間に男子を授かりますが、またしても敦道親王が早世してしまうのです。

これが寛弘4年(1007年)のことですから、和泉式部が道貞の妻になってから、わずか8年間でなんと濃密な経験をしてしまったんでしょうか。

おそらくこのころにはもう和泉式部は恋多き悪女というレッテルが貼られていたと思います。

和泉式部、歌に助けられる

しかし、たぐいまれなる彼女の歌人としての才能が、彼女自身を救います。

当時絶大な勢力を誇っていたあの藤原道長の娘、一条天皇の中宮・彰子・の女房として出仕することになりました。

彰子には、すでに紫式部が女房として仕えていました。

紫式部は、和泉式部のことを「浮かれ女」などと陰口を言っていたようですが、反面「素行は良いとは言えないが、恋文や和歌は素晴らしい」とも記していますので、和泉式部の歌の才能は相当なものだったのでしょう。

和泉式部、難題を願う

道長の家来の中に、平井保昌(やすまさ)という公家がいました。

武芸にも通じ、勇猛をもって知られていた保昌が、和泉式部にアプローチします。

これに対し、和泉式部は「紫宸殿の紅梅を一枝手折ってほしい」と願ったそうです。

紫宸殿は、内裏の中でも重要な場所で、警備も厳しく、この願いはとても難しいことでした。

ですが、保昌は警護の武士に矢を射かけられながらも、紅梅を一枝持って帰ります。

その勇気に魅かれ、和泉式部は保昌の求婚に応えたと言われています。

この話は祇園祭の「保昌山(ほうしょうやま)」の由来となっていて、この山は別名を「花盗人山」といい、宵山には縁結びのお守りが授与されます。

保昌山のご神体は、緋縅の鎧に太刀をつけ、紅梅を捧げる保昌の姿となっています。

 

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和泉式部の後半生

和泉式部は保昌の妻になり、保昌の任国丹後に移ります。

その後の和泉式部の暮らしについては、詳しくわかっていません。

ただ、万寿2年(1025年)に娘小式部内侍が出産時に亡くなったことにショックを受け、悲しみの中を詠んだ歌が残っています。

「とどめおきて 誰をあはれと思ふらむ 子はまさるらむ 子はまさりけり」
(あの娘は、この世に自分の子供たちと母親の私を残して、いったい誰のことを思っているのだろう。きっと我が子を思う気持ちの方がまさっているのだろう。私もあの娘に先立たれてひたすらに辛いのだから)

いくつになっても、子供に先立たれる悲しみは大きいものです。

子を思う親の心は時代に関係なく同じなのですね。

和泉式部は次第に仏教へ傾倒し、最期は袈裟を着て命を終えたとも伝わっています。

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和泉式部日記から見る彼女の姿

女房三十六歌仙にも選ばれ、その和歌が小倉百人一首にも選ばれた和泉式部は、自叙伝のような「和泉式部日記」を残しています。

その中に見える和泉式部とはどんな人物なのでしょう。

「和泉式部日記」は、別の人物が描いたという説もあります

「和泉式部日記」のあらすじ

「和泉式部日記」は、為尊親王が亡くなった後、その弟敦道親王と出会うところから始まっています。

初めは恋の駆け引きを楽しんでいる二人が、次第に本気になります。

モテモテの和泉式部に焼きもちを焼く敦道親王、それを悲しむ和泉式部。

今の恋人たちにも通じるような、恋愛小説のようです。

敦道親王に押し切られるように、彼の屋敷へ移ってくる和泉式部。

堪忍袋の緒が切れて、出ていく敦道親王の正室。

物語はここで終わります。

和泉式部の想い

亡き恋人為尊親王を想う女性、新しい恋にときめく女性、スキャンダルに悩む女性。

少しだけ恋愛経験が多くて、でも普通に悩んだり、恋している女性の姿が、「和泉式部日記」から見えてくるようです。

この時代は、歌の才能も女性としての1つの魅力でしたし、もともとモテる才能はあった人だったとは思います。

「和泉式部日記」の歌を見ると恋愛の駆け引きやその表現力は、素人の私が読んでもすごいとわかります。

でも男性との関係を軽く考えているようなプレイボーイならぬプレイガールのようなイメージは、私は感じませんでした。

彼女はそれぞれの恋を真剣に、一途に受け止めていっただけではないでしょうか。

和泉式部は、魔性の女というより、自分の心に正直すぎた淋しい女性だったのかもしれません。

和泉式部の歌を紐解いてみよう

「和泉式部日記」にある彼女の歌を少し見てみましょう。

和歌に詳しくなくても大丈夫、妄想…じゃない、想像しながら読んでみましょう。

夜とともに濡るとは 袖を思ふ身も のどかに夢を 見るよひぞなき
夜になるとは兄様(為尊親王)を思い出して涙で袖が濡れます。私にはのんびりと夢を見る夜などありません。

 

世の常の ことともさらに思ほえず はじめてものを思ふ あしたは
世の中にありふれたことだとは私にも思われません、あなた(敦道親王)と情を交わした今朝、はじめて恋の切なさを知りました。

 

よもすがら なにごとをかは思ひつる 窓打つ雨の音を聞きつつ
窓を打つ雨の音を聞きながら私が一晩中眠れず何を思っていたかご存知ですか。(あなただけを想っていました)

 

ひと夜見し 月ぞと思へばながむれど 心もゆかず 目は空にして
あの夜一緒に見た同じ月だと思いしみじみと眺めていますが、心は晴れません。だってあなた(敦道親王)はいらっしゃらない。目は空に向いていても、私の心はあなたを思って上の空です。

 

ながむらむ 空をだに見ず七夕に 忌まるばかりのわが身と思へば
物思いにふけるあなたがながめていらっしゃる空さえも私は見る気になどなれません。年に一度の七夕だというのにわが身があなたから嫌われていると思うと…。

くれ竹の 世々の古ごと思ほゆる 昔語りはわれのみやせむ
呉竹の節のような世々(よよ)に伝わる古い恋の物語りを思い起こします。あなたと別れた後で、私はあなたとの思い出をひとりで昔語りをするのでしょうか。

恋の切なさや敦道親王に逢えない寂しさ、二人の行く末を悩む女性の歌。

そんな風に私は思いました。

人を好きになる心は、時として自分でも止められられない、思いもよらない揺れ方をするものです。

それは今の時代でも変わらずにあるものなのですよね。

「和泉式部日記」は、古典初心者さんにもわかりやすい翻訳本が出ています。

たとえば恋愛小説として、一度読んでみてくださいね。

 

和泉式部ゆかりの京都

最後に京都市内にある和泉式部ゆかりの地を紹介します。

和泉式部の恋多き、せつない生涯を想いながらめぐってみてくださいね。

東北院

東北院は、藤原道長が営んだ法成寺の東北に道長の娘彰子によって長元3年(1030)に建造された三昧堂です。

彰子に仕えた和泉式部も参拝したことがあるようで、境内には和泉式部ゆかりの”軒端の梅”の後継と伝わる白梅が植えられています。

誓願寺

和泉式部の娘小和泉内侍が亡くなったとき、和泉式部は悲しみに暮れ、48日間誓願寺にこもり、念仏を唱え続けます。

その後和泉式部は出家します。

出展:Wikipedia

誠心院

尼になった和泉式部は、東北院の境内に庵室を造ります。

これが現在の誠心院へ移転し、和泉式部は誠心院の初代住職となりました。

誠心院には、和泉式部ゆかりの品が多数残されています。

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