新選組が走り出す
年が明け、元治元年正月。
会津藩主松平容保は、陸軍総裁職・郡司総裁職となり、京都守護職には福井藩主・松平慶永が就任します。
これに伴い、新選組は、松平慶永に預けられる方向で話が動いたのですが、近藤はこれを断ります。
近藤にとって会津藩は、将軍とともに命を懸けて仕える大切な存在だったのでしょう。
新選組は、こののち最期まで会津藩と運命を共にすることになるのです。
結果的には、松平容保が再び京都守護職になり、新選組はこれまで通り会津藩お預かりとなっています。
もちろん近藤の意向のみで、このような移動があったわけではありません。
でも新選組局長近藤勇の存在は、幕府の中で次第に大きな存在になりつつあったのかもしれません。
元治元年5月には、2度目の上洛をしていた将軍家茂が江戸へ帰還しますが、この時も近藤は、将軍の京都在留と、攘夷決行を求めた意見書を提出しています。
この意見書の中で、近藤は、
「我々は、攘夷の先鋒となることを本来の目的としている。もし将軍が攘夷を家こうせずに江戸へ帰るのであれば、新選組の存在意義がなくなる。こんなことならいっそ解散を命じてほしい」
とまで書いています。
この時点で、近藤は強い攘夷思想を持っていたこと、日々の市中見回りという隊務には満足していなかったことがわかります。
もちろん幕閣は、新選組の解散は認めていません。
まだ新選組の力が必要だからと、近藤を諭したと伝わっています。
池田屋事件
昨年8月のクーデター以後、長州藩をはじめとする尊攘派の浪士たちは、京へ入ることはできなくなっていました。
しかし、新選組監察方は、4月ごろから不穏な動きをする浪士たちが増えてきたことに気づいていました。
徹底的な探索の結果、6月初旬には、尊攘派の大物である肥後藩脱藩浪士・宮部鼎蔵の下僕を捕縛、彼らの計画の一端を知ることができました。
そして6月5日朝。
尊攘派の潜伏先と疑われた薪炭商・枡屋喜右衛門邸(四条通り小橋西ル)へ踏み込み、枡屋を捕縛します。
屯所へ連行され、尋問を受けた枡屋は、本名が古高俊太郎であること以外、頑として口を割りません。
近藤が自ら拷問、尋問をしますが、一向に白状しない古高。
尋問が土方に代わっても古高は何も話しません。
手に余った土方は、最後の手段として古高を逆さづりにして、足の甲に五寸釘を打ち、そのくぎにろうそくを立て、火をつけるという壮絶な拷問を実行しました。
これにはさすがの古高も耐え切れず、すべてを白状したのです。
「来る6月20日前後の風の強い日に御所の風上に火を放つ。混乱に乗じて中川宮を幽閉、松平容保を討ち、帝に長州へ遷っていただく」
火災の混乱の中、天皇を長州へさらっていくという、とんでもない計画だったのです。

旧前川邸の新選組屯所 この奥にある土蔵で古高の拷問が行われた
それを裏付けるように、枡屋の邸内からは大量の火薬や鉄砲などが発見されていました。
この計画に参加すべく集まってきているはずの不逞浪士たちを少しでも早く捕縛しなくてはならない。
京を火の海にしてはならない。
帝を奪われてはならない。
一刻を争う事態に、近藤は新選組の出動を決め、会津藩へ応援以来の使者を送りますした。
新選組隊士たちは、八坂祇園下の祇園会所へ集合した。
浪士たちに感づかれないように、宵山見学をするかのような風情で会所へやってくる隊士たち。
中では、戦支度を終えた近藤・土方ら幹部が厳しい表情で座っている。
隊士たちはそれぞれ支度を終え、会津藩からの連絡を待った。
会津藩との約束の時刻になっても連絡はない。
じりじりと時間が過ぎてゆく。
近藤は立ち上がった。
我々だけで出動する。
悲壮なまでの覚悟が近藤の面に見えた。
「トシ、俺たちだけでやろう」
土方は、不敵に笑う。
「近藤さん、やるか」
祇園会所から、そろいの隊服を着た新選組隊士が三隊に分かれて出動します。
- 近藤隊:近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助ら10名
- 土方隊:原田左之助・斎藤一ら20数名
- 井上隊:井上源三郎ら数名(連絡係を兼ねる)
浪士たちが潜伏もしくは会合をする場所を探索しつつ捕縛に当たるという難しい出動でした。
近藤隊が池田屋に至ったのは午後10時ごろでした。
近藤を先頭に、沖田・永倉・藤堂が邸内へ、残りは周囲を固めます。
応対に出た池田屋惣兵衛が、慌てて2階へ声をかけた。
惣兵衛を張り飛ばし、抜刀した近藤は正面の階段を駆け上がる。
声に気づいた吉田稔麿が部屋から出てきた。
「!」
近藤は、斬り上げた。
階段を転げ落ちた吉田は、すでに絶命していた。
近藤に続き、沖田も2階へ。
永倉・藤堂は階下で浪士たちを迎え討つ。
池田屋の激闘が始まった。
近藤隊に遅れること約1時間。
土方隊と井上隊が池田屋に到着しました。
応援が来たのは、それより後。
池田屋は新選組の独壇場となりました。
これの事件により、新選組の名は一躍有名になりました。
新選組は、のちに朝廷と幕府から池田屋事件の働きに対する感状と褒賞金を賜っています。
それだけでなく幕府からは内々に幕臣への取り立ての打診があったのです。
近藤は五百石の幕臣、以下土方らもそれぞれに取り立てるという話を、近藤は断っています。
「今の与えられた役目の中で、将軍・幕府に貢献したい。身分や出世などは眼中にない」からと…。
何と欲のない、誠のある男かと思ってしまいますが、数年後に再び幕臣取り立ての話が出たときは、近藤は受けています。
もしかしたら「たかだか五百石くらいの幕臣なんて目指していない、俺はもっと価値のある男だ!」と考えていたのかもしれません。
禁門の変
池田屋事件の一報が伝わった長州藩は、多くの同志が誅殺されたことに憤慨します。
前年の八・一八の政変で失脚した藩主毛利敬親(たちちか)らの赦免要求のために上京の準備をしていた長州藩は、急いで第一陣を京に向かわせます。
以後、続々と京に上ってくる長州兵、総数二千人以上という軍勢です。
幕府と朝廷を威嚇して、ことを有利に運ぼうとするための作戦でした。
元治元年6月25日
山崎天王山には、久坂玄瑞(くさかげんずい)・真木和泉の率いる軍勢、伏見には福原越後率いる軍が、そして嵯峨天龍寺、八幡などにそれぞれ布陣します。
新選組は、会津藩とともに竹田街道銭取橋付近に布陣、これを迎え撃つ準備をしていました。
長州藩と幕府軍のにらみ合いが続きます。
そのまま約半月、嘆願が聞き入られない長州藩は、とうとう武力行使に打って出ます。
7月19日未明
伏見の福原越後軍が進撃を開始、ほかの軍も御所を目指して進撃を始めます。
伏見を守っていた新選組は、福原軍と交戦していた大垣藩の応援に駆け付け、その後は、最大の激戦地となった御所へ向かいます。

蛤御門
しかし、御所に攻め入ろうとしていた長州藩は、最新鋭の武器を持つ薩摩藩の攻撃を受け、ほぼ全滅してしまいます。
新選組が到着したときは、すでに事態の決着はつきかけていました。
池田屋での奮闘以上の働きを目指していた近藤には、やや物足りない戦いだったかもしれません。
新選組は、敗走する長州軍追悼のため、会津藩兵とともに伏見に向かいました。
7月21日
新選組・会津兵らは、山崎に立てこもった真木和泉の兵を追い詰めます。
この時山頂から金の烏帽子をかぶった真木和泉が采配を手に現われた。
「討ち手は、いずれの藩の方か。名乗ったうえで戦おうではないか。それがしは長州藩士・真木和泉である」
「それがしは会津藩神保内蔵助」
「それがしは近藤勇」
真木和泉は、朗々とした声で詩を吟じてから、鬨の声を上げた。
「エイ、エイ、オー」
同時に一斉に鉄砲を撃ちかけてくる。
新選組・会津藩士は、一気に攻め立てる。
両者の激闘が続く中、突然真木和泉が命じた。
「引けぃ!」
彼らは一斉に陣小屋へ駆け込んだかと思うと、陣小屋から火が出た。
彼らは、火中で見事に切腹して果てていた。
「敵ながら、なんという勇敢な死に様であろう」
近藤は、隊士たちに命じ、彼らを丁重に葬った。
真木和泉らの死に様は、近藤にとって一つの理想でもあったようです。
武士たるもの、最期は潔く死ぬべきだ。
武士というものにあこがれ、自らも武士たる生き方を目指した近藤の、武士真木和泉らへの最高の敬意を示したのです。
新選組絶頂期
池田屋事件、禁門の変と続けて活躍をする新選組は、どんどんと有名になり、その局長・近藤勇は、幕閣とも交わるようになっていきます。
近藤自身も、ひとかどの論客になったかの如くふるまうことも増えました。
近藤、天狗になる?
試衛館からの仲間だった永倉や原田は、剣の修業にひたむきで、実直な近藤が次第に横柄でわがままになっていく様子に不満がたまっていきます。
近藤の態度に我慢ならなくなった永倉たちは、会津藩主に建白書を出しました。
建白書には、近藤の非行五か条を上げ、
「その五か条のうち1つでも近藤が申し開きするのなら、我々6名は速やかに切腹する。もし近藤が申し開きできないというなら、速やかに近藤に切腹を命令していただきたい」
という旨が書かれています。
建白したのは、永倉新八以下原田左之助・斎藤一・島田魁・尾関政一郎・葛山武八郎です。
会津藩主松平容保は、すぐに6名を呼び、直々に説得しました。
新選組内での不和、ましてや局長ら幹部の切腹騒ぎともなると、新選組を預かっている形の会津藩にまで迷惑がかかると思いいたった永倉たちは、建白書を取り下げました。
容保は、この場に近藤も呼ぶと、内々に隊士たちの不満を伝え、近藤自身の態度も少し考えるように説きます。

会津藩主 松平容保
藩主直々の言葉に、近藤は驚いたことでしょう。
永倉たちに対して怒りも感じたかもしれません。
しかし、この時点では、一応丸く(?)収まりました。
近藤、帰郷する
新選組の活動は、どんどんと広がり、隊士不足を感じた近藤は、隊士募集のために江戸へ下向します。
文久3年2月に江戸を発ってから、初めての帰郷でした。
近藤は、江戸で伊東甲子太郎(いとうかしたろう)に会います。
伊東甲子太郎は、先発していた藤堂平助の恩師です。
文武両道で、論も立つ伊東を、近藤は新選組に必要だと考えていました。
剣術とともに、学問も日々励んでいる近藤でしたが、一流の論客とはなれません。
すでに幕閣との交流も増えていた近藤にとって、自分の”頭脳”となる参謀が欲しかったのです。
伊東は、自らの弟子たちとともに新選組に入隊することになりました。
山南敬助の脱走
元治2年2月
試衛館以来の仲間である山南敬助が隊を脱走します。
土方歳三との軋轢や、屯所の西本願寺移転反対の意見が無視されたためなど理由はいろいろ考えられています。
もともと尊王攘夷の思想を持っていた山南は、池田屋事件以降の、攘夷志士を目の敵にするような新選組のやり方に違和感を覚えていたのかもしれません。
また、永倉たちが見ていた近藤の、わがまま・偉そうにも見える態度に、山南も失望していたのかもしれません。
山南の脱走を知った近藤は、沖田総司に追わせ、翌日には山南が屯所に連行されます。
近藤は、掟に従い山南に切腹を申し渡しました。

山南敬助が切腹した部屋は、このあたりにあった
2月23日、奇しくも2年前、彼らが京へ入ったと同じ日に、試衛館でともに論じ、剣を交えた一人が欠けてしまったことに、近藤は何を感じていたのでしょうか。
近藤、広島へ
慶応元年(1865年)9月
幕府は、長州の息の根を止めるために、昨年禁門の変後の第1次長州征伐に引き続き第2次長州征伐を決行する計画でした。
幕府は大目付・永井尚志(ながいなおゆき)を長州訊問使として、長州との会見場とした広島へ向かわせることを決めます。
近藤は、会津藩を通じて、訊問使への同行を願い出ます。
11月7日
近藤は、伊東甲子太郎・武田観柳斎ら隊士8名とともに京を発ち、16日に広島に到着しました。
訊問使の永井は、近藤を自分の家臣として、長州藩との面会に立ち会わせようとしますが、拒否されます。
近藤がやっと長州藩士と面会できたのは、23日でした。
近藤は、長州入りを要請しますが、拒否され、以後何度か要請しますが、すべて拒否。
結局長州入りは断念して、12月22日には京へ帰ってきました。
この広島行きは、近藤にとって命がけの随行でした。
敵の真っただ中で、もし新選組局長だとばれれば、殺されかねないような状況です。
近藤自身もある程度の覚悟はしていたようで、多摩の佐藤彦五郎(土方の義兄)にあてた手紙の中に、天然理心流の後継者を沖田総司にすると書かれていたそうです。
また、もし自分に何かあったときは、新選組を土方に託すという言葉も残していたと言います。
それだけの覚悟をして、動いた割には、あまり良い成果が出せなかった、近藤はこのことを残念に思っていたことでしょう。
近藤は、この広島行きからわずか2ヶ月後の慶応3年2月初め、再び幕府の広島派遣に随行しています。
しかし今回も長州側との接触はできませんでした。
伊東甲子太郎の分離
新選組はこの時期、隊内が伊東派と近藤派に分かれつつありました。
表面上は、局長近藤と副長土方が統率している新選組です。
しかし、土方の隊士に対する厳しい態度に恐れていた隊士は、伊東の穏やかな人柄と豊かな知識に傾倒していったのです。
伊東の人気は、今や近藤をもしのぐほどになっていました。
おそらく自分の頭脳として入隊させたであろう近藤の思惑は、すっかりはずれてしまいました。
慶応2年9月
伊東は、近藤の妾宅を訪れ、時局を論じています。
伊東は、勤皇論を説き、近藤は幕府の今後を憂う、平行線の議論で終わり、近藤は伊東脱退の疑念を持つようになります。
翌慶応3年(1867年)1月18日
伊東は、隊士数人を連れて九州遊説に赴きます。
便宜上は、九州や長州の探索ということになっていたのでしょうが、これは伊東が新選組から離れるための準備行動でした。
近藤側も十分承知していたようで、このころから土方は斎藤一をスパイとして伊東派に近づけていたようです。
伊東らは、3月中旬に帰京すると、すぐ近藤に新選組からの分離を申し出ます。
脱退ではなく、別働隊として行動するための分離です、名ばかりですが。
近藤は、これを了承します。
伊東は、昨年末に亡くなった孝明天皇の御陵を守る衛士(御陵衛士):高台寺党を結成しました。
近藤、幕臣になる
慶応3年6月10日
新選組は、会津藩お預りから、幕臣となります。
近藤は、御目見え以上の格がある旗本になりました。
これで近藤は、幕府代表者として堂々と幕府に意見が言えるのです。
百姓の子が幕臣、それも御目見え以上の幕臣になった、近藤はまさに夢の絶頂に立ったような気分だったでしょう。
直接将軍に拝謁できる身分
大政奉還
慶応3年10月14日
第15代将軍徳川慶喜は、大政奉還(徳川家が政権を天皇にお返しすること)をします。

大政奉還の舞台となった二条城
これ以前、薩長同盟により、薩摩と長州が手を組み、密かに討幕を計画していました。
幕府側もこれに対抗すべく様々に動いていましたが、公家の岩倉具視らにより、討幕の密勅まで下ったと知り、徳川を守るために慶喜が決断したのです。
幕臣になったばかりの近藤の胸中やいかに。
伊東暗殺
11月初め
御陵衛士に入り込んでいた斎藤一から、彼らが近藤の暗殺を計画しているという報告が入ります。
近藤は激怒し、すぐさま御陵衛士をつぶそうと考えます。
しかし、それでは新選組の内部抗争があまりにも騒ぎが大きくなりすぎます。
近藤が選んだ方法は、暗殺でした。
11月18日
近藤は、伊東から頼まれていた御陵衛士の活動資金を渡すためという名目で伊東を妾宅に呼びます。
その場には、土方もいましたが、終始穏やかです。
酒の進んだ伊東は上機嫌で持論を説きます。
ほろ酔いで帰路についた伊東は、油小路六条付近で待ち伏せしていた新選組隊士に殺害されました。
更に伊東の遺体を取り返しに来た御陵衛士たちも襲撃、殺害しました。
御陵衛士に移っていた藤堂平助も、この時亡くなっています。
近藤は、永倉に藤堂だけは助けるように命じていたとも言われています。
しかし、また試衛館の仲間が一人、いなくなりました。
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