北条義時は、平安末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した人物です。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公で、小栗旬さんが演じられます。
でも、北条義時という人、御存じない方も多いのではないでしょうか。
私も、大河ドラマの主人公として、初めて聞いた名前でした。
鎌倉時代って結構複雑でちょっとわかりにくかったんですよね。
そこで今回は、北条義時の生涯と彼を取り巻く時代について、できるだけわかりやすく説明したいと思います。
『鎌倉殿の13人』をより一層楽しむためにも、ぜひ最後まで読んでくださいね。
北条義時が生まれた時代
北条義時が生まれたのは、長寛元年(1163年)。
世は平安時代末期、源頼朝が伊豆に流され、平家が全盛を迎える頃です。
義時の父は、北条時政、伊豆の国の豪族でした。
そして、義時の姉は北条政子。
義時が15歳になるころには、源頼朝の妻となり、義時は源頼朝の義弟になりました。
義時、頼朝に従う
治承4年(1180年)8月17日
以仁王(もちひとおう)が全国に平家打倒の令旨を発布し、源頼朝もそれに応じ、挙兵しました。
義時も、父時政・兄宗時とともに、頼朝の挙兵に従いますが、兄宗時は、この戦で戦死します。
厳しい戦いの末、頼朝の勝利を導いた一人として、義時は厚い信頼を勝ち取りました。
養和元年(1181年)4月
義時は、頼朝の寝所を警護する11名の1人に選ばれます。
頼朝の個人的な側近である「家子」となったのです。
中でも義時は「家子の専一」とされ、特に信頼されるまでになりました。
寿永元年(1182年)
頼朝の妻・政子が、頼朝の愛妾・亀の前に嫉妬して、彼女の住む館を破壊させたのです。
命令され、実行したのは、父・時政の再婚相手である牧の方の父親・牧宗親でした。
これを聞いて激怒したのは、頼朝。
頼朝は、牧宗親の髷を切るという罰を与えたのです。
北条時政は、舅である宗親がこのような辱めを受けたことに怒り、一族を率いて伊豆を立ち退きます。
しかし、義時だけは、伊豆に残り、頼朝に称賛されました。
その後義時は、頼朝に従って平家追討の戦いに参戦します。
文治元年(1185年)3月
平家は、壇ノ浦の戦いで敗れ、滅亡。
源頼朝による武家政権・鎌倉幕府が誕生しました。
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鶴岡八幡宮
義時、結婚する
鎌倉幕府が成立してしばらくのち、義時は一人の女性と出会います。
比企朝宗の娘・姫の前でした。
しかし、比企家は、北条家よりも身分の高い家だったため、叶わぬ恋となるはずでした。
救いの手を差し伸べたのは、頼朝です。
頼朝は、義時に「絶対に離縁をしない」という約束の文書を書かせて、2人の中を取り持ちました。
この段階では、それほど目立つ存在ではなかった義時ですが、頼朝の信頼は深かったのです。
無事姫の前と結婚できた義時は、彼女との間に2男1女をもうけています。
北条義時、政権を奪う
源頼朝が絶対的な権力を持ち、安定した鎌倉幕府でしたが、正治元年(1199年)正月に頼朝が急死すると、幕府内の権力闘争が次第に激化します。
頼朝に変わり、将軍となったのは嫡男の頼家でしたが、問題行動の多い頼家の独裁を抑えるために13人の合議制によって幕府の運営をすることになりました。
有力御家人で結成されたというそのメンバーは、以下のようになっています
- 北条義時
- 北条時政
- 三浦義澄
- 八田知家
- 和田義盛
- 比企能員
- 安達盛長
- 梶原景時
- 大江広元
- 中原親能
- 三好康信
- 二階堂行政
いずれも野望を内に秘めた13人、争わないわけがありません。
苛烈な政略争い
初めに失脚したのは、梶原景時でした。
頼朝に最も信頼されていた腹心・景時は、頼家のもとでも権力を持ち続けていました。
それに不満を持った御家人たちの連判状により、幕府から追放、一族もろとも滅ぼされました(梶原景時の変)。
同じ時期に、三浦義澄と安達盛長が病没。
次に標的となったのは、比企能員でした。
比企能員の娘は、頼家の妻であり、頼家との間に一幡という男子も儲けています。
その男子が次の将軍になれば、比企氏の権力は増大し、北条氏が粛清されると考えた北条時政が動きました。
建仁3年(1203年)9月
北条時政は、比企能員を自邸に呼び出して謀殺します。
時政の命を受けた義時は、一幡の邸・小御所を襲撃、比企氏を滅ぼしました。
頼家は伊豆の修善寺に追放、のちに暗殺されます。
当時わずか5歳だった一幡は、かろうじて逃げ延びましたが襲撃から2ヶ月後に捕らえられ殺されました(比企能員の変)。
時政は、頼家の弟・実朝を3代将軍に擁立すると、執権となり、幕府の権力を握ります。
義時は、妻の実家を襲撃したんです。
父・時政に従った義時の心中は、複雑だったでしょう。
姫の前は変の直後に離縁したと言われています。
時政との対立
執権となった時政は、次第に横暴なふるまいが増え、御家人たちの不満が高まっていました。
元久2年(1205年)
時政は、妻・牧の方の讒言(ざんげん:告げ口)を受け、御家人からの人望が厚かった畠山重忠を謀殺します(畠山重忠の変)。
続いて時政と牧の方は、将軍実朝を廃して、娘婿の平賀朝雅を次期将軍につけようと画策したのです。
これに反発した義時・政子姉弟は、実朝を保護、時政に対抗しました(牧氏事件)。
背景には、父・時政と牧の方、先妻の子・義時と政子の確執があったとも言われています。
時政・牧の方の横暴さに不満を持っていた御家人たちは、義時・政子方につき、時政は失脚、伊豆に幽閉されました。
義時、執権となる
義時は、父・時政に代わって2代目の執権になります。
義時は、父のような強権政治を改め、大江広元・安達景盛らと連携しつつ、幕府の実権を握るようになりました。
御家人たちの要望にも応え、
頼朝公以来拝領した所領は、大罪を犯した場合以外は、一切没収しない
という大原則を明示しました。
その一方で、義時の執権体制に邪魔となりそうな有力御家人は、排除していきます。
鎌倉幕府創設以来、重鎮として力を持ち続けていた和田義盛を挑発し、挙兵させたのです。
その結果、和田氏は敗北、義盛も殺害されました(和田合戦)。
実朝暗殺
承久元年(1219年)1月
鶴岡八幡宮での参拝儀式の際、3代将軍・源実朝が頼家(2代将軍)の子・公暁(くぎょう)に暗殺されます。
この日、実朝の太刀持ちをする予定だった義時は、体調不良により源仲章と交代していたと伝わっています。
実朝には子がなかっため、この暗殺により、源氏の正統は絶えました。
義時は、次期将軍に後鳥羽上皇の親王を擁立しようと画策しましたが、後鳥羽上皇はこれを拒否します。
そこで、義時は、頼朝の遠い縁戚の摂関家の藤原頼経を将軍に立てました。
頼経は、わずか1歳。
このため、頼朝の妻・北条政子が尼将軍として頼経の後見となり、義時は政子を補佐するという形で、執権政治を確立させました。
承久の乱
実朝の死後、半年にもわたる証言後継者問題で、鎌倉幕府と朝廷の対立が激しくなります。
後鳥羽上皇は、息子の順徳天皇とともに、武家政権の打倒と朝廷の権威回復を目指します。
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後鳥羽天皇(のちに上皇)の肖像画
承久3年(1221年)5月
後鳥羽上皇は、流鏑馬(やぶさめ)揃いと称して諸国の兵を招集、義時追討の院宣(いんぜん:上皇の命令書)を発布しました。
後鳥羽上皇は、幕府に近い位置にいた貴族・西園寺公経(さいおんじきんつね)と西園寺実氏(さねうじ)を幽閉、京都守護の伊賀光季(みちすえ)を殺害、討幕の兵を挙げました。
未だ朝廷の力は強く、当初は朝廷有利でした。
朝敵となって動揺する幕府御家人たちに、尼将軍・政子が大演説を行います。
皆、心を一つにして聞くのです。これは私の最後の言葉です。
頼朝公がここに政権を気づいたことで、皆の生活は安定し、向上しました。すべて頼朝公のおかげです。
その恩は、山よりも高く、海よりも深いのです。
いまその恩を忘れて、朝廷をだまし、我々を滅ぼそうとする者がいます。
名を惜しむ者は、速やかに(朝廷方についた)藤原秀康(ふじわらひでやす)、三浦胤義(みうらたねよし)らを討ち取り、3代将軍の恩に報いるのです。
御家人たちは、政子の言葉に震え立ち、一致団結します。
後鳥羽上皇の挙兵からわずか1ヶ月後、幕府軍は京都を制圧しました。
義時、突然の死
後鳥羽上皇は隠岐島へ、順徳天皇は佐渡島に配流、討幕に反対していた土御門上皇は、自ら土佐へ配流されました。
後鳥羽上皇の皇子たちも配流、在位70日ほどだった仲恭天皇は廃され、新たに護堀川天皇が建てられます。
後鳥羽上皇の莫大な荘園は没収され、朝廷についた貴族・武士たちの所領も幕府に没収されました。
上皇側についた武士たちは、多くが斬罪され、貴族も処分を受けます。
義時は、京都を監視するため、新たに「六波羅探題」を設置しました。
これにより、義時の執権政治は全国的な政権として確立しつつありました。
ところが…。
元仁元年(1224年)6月
承久の乱からわずか3年後、義時は突然亡くなります。
死因は、持病の脚気によるとされていますが、あまりにも突然の死だったため、暗殺説も上がっていました。
しかし、真相はまだわかっていません。
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北条義時夫妻の墓
妻は、後妻の佐伯氏の娘
北条義時、明治の大悪人となる
武家政権を確立させた義時でしたが、主君への忠誠を武士の最も大切な心得とした江戸時代には、源氏の正統である将軍を滅ぼし、実権を将軍から奪った不忠の策謀家として嫌われていました。
そして、尊王の思想が強くなっていた明治時代には、極悪人のごとく言われます。
何しろ、3人の上皇を配流し、仲恭天皇を廃したのですから、これほどの悪党はいないということになっていたそうです。
でももしかしたらそれは、ただ自分と家族を守るための戦いだったのかもしれません。
頼朝がもし挙兵していなければ、義時は何の策謀も持たない東国の武士の一人として生涯を全うしたように思います。大河ドラマによって、義時の評価はどのように変わるのか。
楽しみですね。
北条義時が登場する作品
今回は、北条義時を紹介しました。
よく似た名前が出てくるし、時代背景も複雑なので、とてもわかりにくくて、私は苦手な時代だったのですが、改めて調べたことで少し理解出来ました。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
では、最後に北条義時が登場する作品を紹介します。
北条義時「武士の世」を創った男 島津義忠
頼朝挙兵から承久の乱までの義時の生涯を描いています。
北条義時と鎌倉時代初期を知るにはおすすめの一冊です。
炎環 永井路子
頼朝に関わる4人の主人公を描いた短編集です。
義時の視点で描かれた「覇樹」をはじめ、それぞれの野望が重なり、燃え上がって、一つの環になった読み応え十分の作品です。
承久の乱 日本史のターニングポイント 本郷和人
『ヤバイ日本史』『日本史のツボ』の著者・本郷氏が書かれた本です。
知ってるようで知らない承久の乱をその背景や関わる人物などから解説しています。
興味深くて面白く読めるので、苦手なこの時代を少し好きになれました。
おすすめです!