『源氏物語』を書いた紫式部とはどんな人?平安の才女の生涯を紐解く

歴史人物

光り輝くばかりの美しい光源氏と姫たちを描いた日本最古の長編小説『源氏物語』は、1000年以上たった今でも多くの方に読み継がれている名作です。

全54帖からなる大作を書き上げた紫式部とは、いったいどんな女性だったのでしょうか。

きらびやかな王朝文化の中を華麗に駆け抜けた才女だったのか、それとももっと違った人生を送っていたのか。

今回は、平安時代までさかのぼり、紫式部の人生をいろんなエピソードを交えながらたどってみます。

最後まで読んでいただいたら、『源氏物語』にまた違った趣を感じるかもしれませんよ。

スポンサーリンク

紫式部の生涯を一気に紹介

紫式部が生まれた正確な日はわかっていません。

最近の研究では、天禄元年(970年)~天元元年(978年)の間とされています。

父親は、藤原北家良門の血筋に当たる藤原為時(ふじわらためとき)

母親は、摂津守・藤原為信の娘ですが、紫式部の幼い時に亡くなっているようです。

父方の曽祖父は、歌人として有名な三条右大臣藤原定方、三十六歌仙の1人・中納言藤原兼輔で、文学的な素養に恵まれた家系でした。

幼い時から優秀だった紫式部

紫式部の弟(兄という説も)の惟規(のぶのり)に、父為時が漢学を教えていたときのことです。

そばに座っていた紫式部が、先に覚えて暗誦したのです。

父は、「お前が息子だったら」と残念がられたそうです。

紫式部の時代、女性はかな文字、男性は漢文で読み書きをしていたため、女性が漢文を学ぶ必要はほとんどなかったそうです

不遇だった少女時代

父為時は、花山天皇の東宮時代から漢学を教え、即位後は蔵人、式部之丞に任ぜられ、出世していきました。

朝廷 イメージ

しかし、寛和2年(986年)に花山天皇が出家し、一条天皇が即位すると、為時は2年で失職してしまいました。

父が出世コースから外れてしまったことで、紫式部の暮らしも変わりました。

優雅な上級貴族とは違い、下級貴族はそれほど裕福ではありません。

それから10年間、為時は朝廷の雑用をしながら、なんとか生活をしました。

都を離れる紫式部

長徳2年(996年)

一条天皇に詩を奉じた父為時は、それが認められ、越前守となり、越前国へ赴任することになります。

紫式部も、父とともに越前へ移ります。

華やかな都から、全く知らない土地へ移った彼女でしたが、やっと苦しい生活から抜け出したこともあり、それほど悲観的ではなかったようです。

越前への道中、琵琶湖の美しさにも感動していたようです。

超歳の差結婚をする紫式部

越前にいる間に、紫式部は父の友人だった藤原信孝に求婚されます

初めのうちは、20歳近くも歳高の男性からの求婚に、紫式部は乗り気ではありませんでした。

彼の熱心さに次第に心を開いた紫式部は、長徳4年(998年)、一人都へ帰り信孝と結婚しました。

ところが、信孝にはすでに数人の妻と子供がいました。

結婚当初は、仲睦まじく暮らしていたようですが、紫式部が妊娠したころから、次第に信孝の足が遠のきました。

この時代は、夫が妻のもとに通う結婚形態が一般的で、夫が数人の妻を持つことも普通でした

 

長保元年(999年)

紫式部は、藤原賢子(ふじわらけんし)という娘を授かります。

娘の誕生に夫の信孝も喜んでくれたでしょうが、それから2年後、信孝は病死しました。

紫式部、『源氏物語』を執筆する

夫が亡くなった寂しさを紛らわすためもあり、紫式部は物語を書き始めました。

自分の孤独を癒すために書き出した『源氏物語』は、やがて宮廷内でも評判となります。

寛弘3年(1006年、寛弘4年とも)

紫式部は、藤原道長の娘・中宮彰子の女房として出仕します。

随一の才能を持つ彼女は、すぐに頭角を現し、彰子の家庭教師にも任じられました。

出仕後も『源氏物語』の執筆は続き、寛弘7年(1010年)ごろに完成しました。

紫式部日記の執筆

寛弘5年(1008年)

中宮彰子が妊娠します。

父である藤原道長は、紫式部に、彰子の出産までの様子を日記に書き留めてほしいと頼みます。

中宮彰子や宮廷内の華やかな暮らしが詳細に描かれ、エッセイとしても興味深い『紫式部日記』が生まれました。

中宮彰子は、無事に敦成親王を出産しています。

紫式部の晩年

寛弘8年(1012年)ごろ

紫式部は宮廷を去りました。

数年後には、紫式部の娘・大弐三位(賢子)が母の後を継いで、皇太后となった彰子のもとに出仕しています。

彼女の晩年の様子は、詳しくわかっていません。

平安 貴族 イメージ

おそらく大徳寺塔頭・雲林院があった場所で晩年を過ごしたようで、ここには紫式部のお墓や石塔などがあります。

紫式部の人となり

紫式部が生きたのは、今から1000年以上昔の平安時代です。

現在に残る史料は少ないのですが、その中でもわかってきている紫式部の人となりを紹介したいと思います。

紫式部の本名

この時代の女性の本名は、ほとんどわかっていません。

紫式部の場合は、藤原道長が著した『御堂関白記』の中に出てくる「藤原香子」ではないかという説があります。

宮廷に出仕したのちは、「藤式部(とうのしきぶ)」と呼ばれていたようです。

これは、父為時の藤原姓と官職が式部丞だったためのようです。

「紫式部」と呼ばれるようになったのは、『源氏物語』の紫の上に由来していると考えられています。

ムラサキシキブ

また、彼女は「日本紀のお局」とあだ名されていました。

女性でありながら、漢文にも通じ、日本紀(日本書紀)もよく読んでいるに違いないと言う一条天皇の誉め言葉でした。

紫式部自身は、漢文まで学んでいる自分への皮肉のように思い、あまり喜んでいなかったそうです。

紫式部の交友関係

『紫式部日記』には、彼女の交友関係がわかる記述もあります。

同じ中宮彰子の女房であった赤染衛門(あかぞめえもん)や和泉式部について、紫式部はこんな風に書いています。

赤染衛門は夫と仲が良くておしどり夫婦だ。歌は格調高く素晴らしい

和泉式部とは仲が良い。おしゃれでさりげなく美しい歌を詠むけれど、男癖が悪い

ほめてるのか、けなしてるのかわからないところもありますが、仲が良いからこその評価が率直に書かれています。

これに対し、『枕草子』の作者・清少納言への批評は辛らつです。

清少納言という人は、いつも得意そうで頭がよさそうに見せて、漢文を書いたりしていた人。自分は特別だと思っているのかもしれないけど、そんな人に限って、偽物の教養しかないもの。あんな薄っぺらな態度の人が、良い人生なんて送れるわけがない

見事なまでにけちょんけちょんです。

でも実際には、紫式部と清少納言が同じ時期に宮廷に出仕したことはないのです。

なのにここまで清少納言をこき下ろすのは、清少納言が中宮彰子のライバルである皇后定子の女房だったことに原因があると思われます。

当時の後宮内の勢力は、天皇の心を射止め、子を授かったものが強く、出世しました。

平安時代 イメージ

一条天皇に寵愛されていた定子の最強のライバルが彰子だったのです。

それぞれに仕えた女房達がお互いにライバル視するのは当然でした。

清少納言へのこのような言葉は、家庭教師までした中宮彰子に対する紫式部の愛情の裏返しだったのかもしれませんね。

関連記事

平安の恋多き女流歌人和泉式部は本当に魔性の女?それとも哀しき女性?

宮中での紫式部の評判

宮廷内での紫式部は、とっつきにくそうな人と思われてたようです。

『源氏物語』を書いた素晴らしい才能の持ち主というのが、周囲の嫉妬にもつながっていたのでしょう。

「日本紀のお局」というのも、はじめは誉め言葉だったのに、女房の間で悪口のように広がっていたのでしょう。

そのため、紫式部が自ら周囲に壁を作っていたのかもしれません。

ですが、こんなエピソードもありました。

春のある日、奈良の興福寺から八重桜が宮廷に献上されました。

桜のお礼に歌を詠むという役を課せられた紫式部でしたが、ちょうど最近宮廷に出仕してきた伊勢大輔(いせのたいふ)にこの役を譲ります。

実は、伊勢大輔、まだ宮廷に馴染めず悩んでいたのです。

歌の名手という評判が高かった彼女に紫式部が手柄を譲ったのです。

伊勢大輔は、紫式部の期待通り、素晴らしい歌を詠み、宮中の人々を感動させました。

「いにしえの 奈良の都の八重桜 けふ九重に にほひぬるかな」

(昔、奈良の都で咲き誇っていた八重桜が、今日は、平安の都で一段と美しく咲いている)

 

伊勢大輔は、紫式部に感謝して、姉のように慕っていたと言います。

「気難しく見えるけれど、本当は気遣いのあるいい人ですよ」

伊勢大輔のおかげで、紫式部の宮中での評判も良くなったとも言います。

藤原道長との関係

紫式部は、藤原道長の愛人だったという説があります。

しかし、信ぴょう性は低いようです。

『紫式部日記』には、道長が深夜、紫式部のもとに訪れ、ずっと戸を叩いていたのですが、彼女はこの戸を開けたら後悔すると思ったと書かれています。

道長にはその気があったかもしれませんが、紫式部は一線を越える気がなかったのかもしれません。

紫式部の幼い時の寂しさが底流にあった『源氏物語』

『源氏物語』の主人公・光源氏は、幼いころに母・桐壷更衣を失います。

これは、紫式部の境遇と同じで、ほかにも、母を知らない・母を失ったという登場人物がいます。(葵の上・夕霧・大君など)

幼くして母を失い、甘えることができない寂しさは、紫式部の心にはずっとあったのではないでしょうか。

光源氏が、亡き母の面影を求めるように女性たちのもとへ通うという設定も、紫式部の育ってきた環境が反映されていると考えられます。

平安

これはあくまで私の想像ですが、物語をつづるとき、作者は自分の心の底にある何かを吐き出して、自分自身を癒すということがあるのではないでしょうか。

紫式部の持ち続けてきた寂しさこそが、『源氏物語』を書き続けるエネルギーの1つだったように思います。

『源氏物語』は、平安の恋愛物語というだけでなく、読む人によっては、人生のあはれや因果応報など、様々なことを感じる小説です。

だからこそ、現在まで変わらない人気があるのだと思います。


タイトルとURLをコピーしました