天慶の乱を掘り下げてみよう
天慶の乱の直接のきっかけは、藤原玄明を匿ったことにあります。
藤原玄明は、結構問題のある人物だったようですが、将門はなぜそのような人物を匿ったのでしょうか。
実は、ここにも平一族の内紛が関わっていたのです。
玄明を追尾した国府の役人である藤原維幾の妻は、平貞盛の叔母でした。
つまり藤原維幾は貞盛の縁者であり、それに反する玄明を将門は助けたのです。
将門が戦った常陸国府の軍に貞盛も参戦していたという話もあります。
将門が、朝敵となったときに一番ほくそ笑んだのは、貞盛だったかもしれません。
なぜ関東一帯まで勢力を広げようとしたのか
平一族の内紛から始まっていたはずの戦いが、将門が朝敵とみなされたことで、大きく動きました。
側近の興世王にそそのかされたとはいえ、将門がさらなる戦に及んだのにはほかにも理由があったと考えられます。
当時の地方は、朝廷の税の取り立てやその支配に嫌気がさしていました。
今の世の中でも多かれ少なかれ不満はありますけどね。
関東でも不平が渦巻いています。
そんな中、あの将門が朝敵とされます。
また、桓武天皇の血を引く自分なら、国を作り、その長になっても何ら不思議ではないと思っていたのかもしれません。
わずか2ヶ月ほどで制圧された理由
関東一帯をわがものとした将門ですが、あれほど強かった将門がなぜ2ヶ月余りで討伐されてしまったのでしょうか。
「新皇」と名乗り、新しい国を作ろうとした将門に従う武士は多かったはず。
でも、最後の戦いに参戦したのはわずか1000名ほど。
対する制圧軍は4~5000名だったともいわれています。
将門は、関東一帯を制圧すると、なんと貞盛の捜索をしているのです。
貞盛捜索に10日も費やし兵を無駄に疲労させてしまっているのです。
新しい国を立ち上げたばかりの時なら、まずは国の支配を固めるために尽力した方がよかったのではないでしょうか。
もし将門に有能な参謀がいたら、歴史は変わっていたかもしれません。
結局、ここにきても一族の内紛に引きずられていた、それだけ貞盛への怒りが大きかったとも言えますが。
しかしその怒りが、将門自身を滅びの道へ向かわせてしまいました。
歴史の流れをたどってみると、この時代以降の武士たちの生き方は、将門の乱をきっかけに変わったように思えてきます。
武士たちは、朝廷がほしいままにしてきた権力に従うだけでなく、利用するようになり、平家・源氏が台頭してくるのです。
天慶の乱の鎮圧者である平貞盛の子孫は平清盛、武士として最初に政権を握った人物と言えるでしょう。
また、藤原秀郷の子孫は、奥州藤原家です。
将門を謀反者として訴えた源基経は、源頼朝の祖先にあたります。
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