安倍晴明は、平安時代に活躍した陰陽師です。
ドラマや映画、小説や漫画などでは、超人的な術を使い、平安の都を乱す魑魅魍魎(ちみもうりょう)を撃退するヒーローのような存在として描かれています。
フィギュアスケートの羽生結弦選手が、安倍晴明をテーマにした「SEIMEI」というフリーのプログラムを演じたことで、安倍晴明を知った方もいるかもしれません。
多くの伝説を持ち、未だに人気がある安倍晴明ですが、実際の彼はいったいどんな人物だったのでしょうか。
今回は、史実に出てくる安倍晴明と不思議な逸話の数々を紹介しながら、安倍晴明の実像とその人気の理由を探ってみたいと思います。
史実に見られる安倍晴明の生涯
安倍晴明は、延喜21年(921年)に生まれました。
出自には諸説ありますが、一番有力なのは、摂津国阿倍野の出身という説です。
父は、大膳太夫・安倍益材(あべのますき)もしくは淡路守・安倍春材と言われています。
母については不明ですが、妖狐「葛の葉」だという伝説があります(後で紹介します)
晴明の幼少期の記録はほとんどありませんが、おそらく早い段階から陰陽師の修行をしていたようです。
晴明の才能を見出した陰陽師賀茂忠行・保憲父子に師事し、天文道を伝授されたと伝わっています。
時は流れ、天徳4年(960年)晴明が40歳の時、天文得業生となり、師匠で天文博士の賀茂保憲の補佐をするようになり、村上天皇から占いを命じられています。
貞元2年(977年)、賀茂保憲が亡くなったころから、晴明が頭角を現してきます。
このころから花山天皇の信頼を受けたらしく、晴明がしばしば占いや陰陽道の儀式を行ったことが記録に見られるようになります。
花山天皇の退位後は、一条天皇や藤原道長の信頼を得てゆきます。
その後晴明は、主計寮に移動し主計権助を務め、左京権太夫・穀倉院別当・播磨守などを歴任し、位階は従四位下にまで昇ります。
寛弘2年(1005年)、晴明は85歳で亡くなります。
死因については詳しくわかっていませんが、晴明は亡くなるまで現役の陰陽師として活躍しています。
晴明の亡くなった後、寛弘4年(1007年)には、一条天皇の命により、安倍晴明屋敷跡に晴明を祭神とした晴明神社が建てられました。
晴明の2人の息子安倍吉昌・吉平も天文博士や陰陽助に任じられ、安倍家は、賀茂氏と並ぶ陰陽道の家としての地位を確立しました。
陰陽師とは⁇
ドラマや映画などでは、陰陽師が妖や物の怪、鬼などを陰陽術で退治していく場面が描かれていますが、実際の陰陽師とは、いったいどんな人たちだったのでしょうか。
平安時代の陰陽師は、朝廷の中にある1つの役所(陰陽寮)に属する官職でした。
現代で言えば、国家公務員みたいな役職です。
陰陽道を使って、天体観測を行い、物事の吉凶を占ったり、暦を作成したり、お祓いをすることが陰陽師の仕事でした。
華麗な術を使う陰陽師とは、だいぶん違いますね。
ではなぜ今のような陰陽師のイメージができたのでしょうか。
それには、平安時代独特のある思想が関係していました。
都人が恐れた怨霊を鎮める「御霊信仰」
平安京は、その成り立ちから怨霊とともにありました。
平安京遷都の前、長岡京遷都の責任者だった藤原種継が暗殺され、その容疑をかけられたのは、桓武天皇の弟で皇太弟の早良親王でした。
早良親王は無実を訴えて食を絶った挙句、亡くなっています。
その後、様々な災いが起こったことで、桓武天皇は長岡京を捨て、平安京遷都を決めました。
この後も、流行り病や天災、原因不明の死などが続きます。
都の人たちは、早良親王をはじめとして非業の死を遂げた人々が怨霊となり、このような災いをもたらすと信じていました。
その怨霊を「御霊(ごりょう)」としてお祀りし、怒りを鎮める信仰が「御霊信仰」です。
陰陽師は、怨霊におびえる人々の救世主として、様々な儀式も行い、それに伴っていろんな伝説も残っていったのです。
陰陽師が鬼や妖怪を退治するというイメージが強くなったのは、このことが原因となっているのではないでしょうか。
中でも、類まれな長寿を全うした安倍晴明は、スーパー陰陽師として名を残すことになりました。
人間安倍晴明が、超人安倍晴明としてどのように描かれ、伝わったのか、見てみましょう。
伝説・逸話の中の安倍晴明
安倍晴明の伝説は『大鏡』『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』などに記されているものも多いです。
興味のある方は、古典を紐解いてみてくださいね。
伝説は、晴明の誕生から始まっていました。
母は妖狐だった「葛の葉伝説」
摂津国阿倍野の信太(しのだ)の森の中で、安倍保名(あべのやすな)は、狩人に追われる白狐を助けます。
その際、保名は怪我をしてしまいますが、そこへ来た葛の葉という女性が彼を介抱して家まで送っていきます。
2人は恋仲になり、夫婦となります。
やがて2人は男の子を授かりますが、その子が5歳の時、葛の葉の正体は保名が助けた白狐だと知られてしまいます。
葛の葉は、歌を残して信太の森に帰ってしまいました。
”恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉”
この時の子供がのちの安倍晴明だと言われています。
晴明が85歳という長寿を生きたのも、妖狐の子だったからだと噂されていたそうです。
少年晴明、百鬼夜行を見る
ある夜、晴明が賀茂忠行の供をして歩いていると、向こうから百鬼夜行(鬼や妖怪の群れがぞろぞろと歩く)を見ました。
晴明は、すぐに忠行に伝えたため、鬼に襲われることはありませんでした。
百鬼夜行は、陰陽師としての修業を重ねた人間でさえ簡単に見ることはできないものでしたが、晴明は幼いころから鬼を見ることができたのです。
忠行は晴明の優れた才能を見出し、陰陽道のすべてを伝授しました。
晴明、蛙を殺す
晴明が、仁和寺の寛沢僧正のところへ訪れていたとき、同席の公卿たちに「陰陽道の技で式神を使えるそうだが、人を殺せるか」と聞かれます。
晴明は、「人を殺すことはできるが、簡単なことではない。虫などなら、簡単に殺すことができるが、生き返らせる術を知らないので、無益な殺生になるようなことはしない」と答えました。
すると、晴明の術の力を疑った者が、「本当はできないのではないか、もしできるなら、そこのカエルと殺してみよ」と言いました。
「無益なことをおっしゃるのですね」
晴明はそう言いながら、草の葉を摂り、呪文を唱え、カエルに向かって投げました。
葉は、カエルの上に被さったかと思うと、カエルはその葉に押しつぶされたかのようにぺちゃんこになって死んでしまいました。
その場にいた人々は、晴明の術の恐ろしさに身震いしました。
死病の僧を救う 『泣不動縁起絵巻』
三井寺の智興上人が死病にかかり、救いを求められた晴明は、「身代わりになる者がいれば、命のすげ替えをする」と言います。
智興上人の弟子証空が身代わりとして名乗り出ると、晴明は、泰山府君の法を修しました。
すると、智興上人は病が癒え、代わりに証空が苦しみだしました。
この話には、続きがあります。
その苦しみは、とてもつらく証空は、日ごろから拝していた不動明王の絵像に助けを求めました。
死ぬことは覚悟していますが、せめてこの苦しみだけは取り除いてほしいと。
不動明王は涙を流し、自分が身代わりになって証空を救います。
その後不動明王は、冥府に行きますが、閻魔王に礼拝され、無事に戻ってきました。

この不動明王は、泣不動尊として京都市上京区の清浄華院にお祀りされていますよ
藤原道長を救う
ある日、藤原道長が外出しようとすると、可愛がっていた犬が門の前に立ちふさがるようにして吠えます。
道長を引き留めるように、衣を加える様子を不審に思った道長は、晴明を呼び出し、占わせます。
すると、道に呪いをかけた土器が埋められていることがわかりました。
晴明が式神を使って呪いを仕掛けた相手を調べると、晴明の好敵手と言われた陰陽師の蘆屋道満(あしやどうまん)の仕業であることがわかりました。
晴明、呪いを解く
ある時、行列を作って内裏に向かっていた蔵人の少将が、烏にフンをかけられました。
それを見ていた晴明は、烏が式神であることを見破り、少将が呪いをかけられ、今夜限りの命だということを見抜きます。
晴明は、少将の屋敷で一晩中祈祷をして、少将の呪いを解きました。
そして、呪いをかけた式神は、呪った陰陽師の元に戻り、逆にその式神に呪い殺されてしまいました。
このように多くの伝説が残ってきたことで、現在のスーパー陰陽師安倍晴明のイメージが作られたのだと考えられます。