第14代将軍徳川家茂 勝海舟も認めた家茂の儚き生涯

幕末~

ペリー来航以来、江戸幕府は開国すべきか否か、その判断を迫られ混乱の極みでした。

しかし、幕府の頂点に立ち、幕政を率いるべき将軍は、リーダーシップを発揮できないままです。

開国に反対する攘夷派が暴挙を起こし、次第に幕末の騒がしさが聞こえてきたころ、1人の少年が第14代将軍となりました。

紀州藩藩主徳川慶福改め、徳川家茂です。

わずか13歳、紅顔の少年が、乱れに乱れる世情の中でトップに立たされ、必死に戦いながら短い生涯を終えてしまった…。

今回は、そんな家茂の生涯を紐解いていきます。

大河ドラマ『青天を衝け』では、磯村勇人さんが好演された家茂とはいったいどんな人だったのでしょう。

どうぞごゆっくりお読みください。

徳川家茂の生涯

家茂は江戸の紀州藩邸で生まれています。

弘化3年(1846年)

紀州藩主徳川斉順(なりゆき)のもとに生まれた家茂。

幼名は菊千代です。

次男として生まれますが、長男は死産だったため事実上は長男です。

家茂 藩主となる

父は家茂が生まれる前に亡くなり、紀州藩は斉順の弟である斉彊(なりかつ)が藩主になっていました。

嘉永2年(1849年)

斉彊が亡くなったため、家茂は斉彊の養子となり、わずか4歳の紀州藩第13代藩主となりました。

2年後、家茂が6歳の時に元服し、慶福(よしふく)と名乗ります。

元服とは、武士の子が成人となったことを示す儀式で、一般的には12~15歳くらいに行われたそうです。
家茂の元服が異常に早く、周りが彼の成長を急がせなければならない状況だったことが想像されます

幼いころから(今も十分幼いですが)、家茂は鳥や魚を可愛がる優しい性格だったそうです。

元服の儀式のときにはその重苦しい雰囲気に泣き出してしまった家茂が、鳥の姿を見て泣き止んだという話も残っています。

藩主となった家茂ですが、まだまだ幼すぎます。

藩政の実権を握ったのは付家老水野忠央、家茂は”お飾り”にすぎませんでした。

幕府 開国する

嘉永6年(1853年)

ペリーが浦賀に来航した20日ほど後に、第12代将軍徳川家慶が亡くなります。

次の将軍は家定に決まりました。

生来病弱だった家定は、国にとって大きな決断を促されるこの時期に対応できるだけの能力はありませんでした。

変わって幕政を担っていた老中首座の安倍正弘のもと、日米和親条約が締結され、江戸幕府の鎖国体制は終わりました。

このころから家定の体調がどんどん悪くなり、将軍継嗣問題が浮上します。

幕府内では、次の将軍を誰にするかでもめ始めました。

家茂 将軍になる

幕府内では次期将軍をめぐって対立が起こります。

薩摩藩主・島津斉彬、水戸元藩主・水戸斉昭、越前の松平慶永ら(一橋派)の推す
水戸斉昭の実子・一橋慶喜

彦根藩主のちに大老・井伊直弼、水野忠央ら(南紀派)の推す
徳川慶福(家茂)

それぞれが、将軍の座を巡り暗躍する中で、病床の家定は、次期将軍を慶福にすると決めました。

安政5年(1858年)

慶福は、第14代将軍となり、名を家茂と改めます。

家茂、13歳の時でした。

しかし、ここでも家茂は”お飾り”に甘んじていました。

実権は大老の井伊直弼が握っていました

その上「将軍後見職」という将軍の仕事を助ける名目の新たな役職が作られます。

家茂の将軍としての権力はほとんどありませんでした。

家茂 結婚する

開国の方針を勧めていた井伊直弼が暗殺される(桜田門外の変:1860年)と、攘夷派(外国人を打ち払おうという思想)が台頭してきます。

国中が開国派と攘夷派で混乱する中、幕府は公武合体策を打ち出します。

幕府と朝廷が手を組んでこの難関に立ち向かおうというのです。

公武合体の実現のために利用されたのが、家茂でした。

幕府は朝廷に、時の帝孝明天皇の妹である和宮と家茂の婚姻を打診します。

和宮はこの時、有栖川宮熾仁(たるひと)親王と婚約していたのですが、それは破棄されました。

文久2年(1862年)

皇女和宮は、徳川家茂に降嫁しました。

この婚姻についても家茂の意見は無視、多分聞かれてもいないのでしょうね。
それがこの時代には普通のことなのか、やはり少し変なことなのか、私にはわかりませんが、家茂という人格(もちろん和宮の人格も)を認めた政策ではないと感じました。
国の権威者に立つ人やその周囲の人には、自身の気持ちより国の政策が重視されるということなのですね。
いいのか悪いのかわかりませんが、普通の暮らしをしている人間には想像がつかないストレスがあると思います。

いわゆる政略結婚ではありましたが、家茂と和宮の夫婦仲はとてもよかったそうです。

でもその夫婦生活も長くは続きませんでした。

家茂 上洛する

文久3年(1863年)3月

家茂は、上洛します。

将軍が上洛するのは、3代家光以来299年ぶりのことでした。

京都御所

この上洛は、家茂の義兄にあたる孝明天皇に、攘夷の約束をするためです。

孝明天皇は、大の異人嫌いで、一日も早く幕府に攘夷を実行するように言っていたのです。

家茂は「5月10日に攘夷を実行する」と約束します。

しかし、孝明天皇とともに石清水八幡宮へ参拝することは避けました。

源氏所縁の石清水八幡宮神前で、攘夷を誓うことを避けるためだったそうです。

幕府はすでに外国の実力を把握し、攘夷を成功させることは無理だと認識していたのかもしれません。

でもこの時期に、それを高らかに言ってみたところで、諸藩や攘夷派の浪士たちには受け入れられないし、彼らを押さえつける力も幕府にはもう無いとわかっていたのではないでしょうか。

何となく中途半端な幕府の行動には、朝廷も完全に信頼できなかったのか、家茂は3か月も京に留められました。

家茂 2度目の上洛

家茂が江戸へ戻ってきて半年余り。

和宮とのつかの間の安らぎを味わった家茂は、再び上洛します。

元治元年(1864年)1月

家茂は孝明天皇と話し合い、攘夷についての具体策を決めます。

同年8月の第一次長州征伐の後、一度目と同じく海路で江戸へ帰ります。

しかし、翌慶応元年(1865年)三度上洛することに。

家茂 倒れる

第一次長州征伐の後、いったんは静かになった長州ですが、またすぐに不穏な動きを見せ始めます。

幕府は第二次長州征伐を計画、家茂は三度上洛をすることになりました。

今回は、家茂が大将となって、金の馬印を掲げ、大軍を率いての上洛です。

度重なる上洛とストレスにより、体調のすぐれない夫家茂を、今度は戦に送り出さなければならない和宮。

和宮は、どんなにか淋しく、不安だったことでしょう。

家茂は、いつまでも初々しさの残る愛しい妻、和宮に尋ねた。
「今度の土産は何がいいか?」
和宮は、微笑みながら答えた。
「西陣の織物をお願いします」と。
「必ず貴方様が持って帰ってください」
家茂は、優しい笑顔でうなづいた。
和宮は、その笑顔にそっと触れた。

 

それが家茂と和宮の今生の別れでした。

慶応元年(1865年)5

上洛した家茂は、孝明天皇に謁見し、長州征伐の趣旨を奏上します。

ですが、様々な理由により実際に長州征伐が実行されるのはこれより1年余り後でした。

慶応2年(1866年)4月

大坂城に滞在中の家茂が病に倒れました。

知らせを聞いた孝明天皇は、医師を派遣し治療に当たらせます。

江戸城からも、天璋院や和宮の侍医たちが大坂へ向かいました。

しかし、家茂が回復することはありませんでした。

同年7月20日

第14代将軍徳川家茂 薨去 享年21歳

死の間際、時代にほんろうされ続けた21年を家茂はどう思っていたのでしょうか。

家茂は遺言で、次期将軍に田安亀之助(徳川慶頼の子)を指名しましたが、実現されず、徳川慶喜が第15代将軍になります。

家茂の権威は、最期まで軽んじられてしまうのです。

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和宮へ最後の土産

家茂の遺体は、海路江戸へ運ばれます。

遺品の中に、西陣織がありました。

和宮との約束を、家茂は忘れていませんでした。

家茂の心とともに西陣織を抱き、和宮はただ悲しむばかりでした。

空蝉の 唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も 君ありてこそ

(このような美しい着物が届いたところで、お見せするあなたがいないのなら、いったい何の意味があるのでしょう)

 

和宮は、明治10年(1877年)32歳で薨去しました。

遺言により、和宮の遺体は家茂の傍に葬られました。

やっと二人の時間を慈しむことができたのです。


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