新選組局長 近藤勇 誠を貫いた男の生涯を追う

新選組

幕末の動乱期、活躍した期間はわずか5年ほどだったにもかかわらず、未だに鮮烈な印象を与え続ける新選組。

最盛期には300名を超える隊士を抱えていた新選組のトップに立ち続けたのが近藤勇です。

農家出身の近藤が、なぜ新選組の局長となったのか、彼は何を目指していたのか。

今回は、近藤勇の生涯を追いながら、私なりに近藤勇という人物に迫ってみたいと思います。

 

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近藤勇の生い立ち

天保5年(1834年)

近藤は、武州多摩上石原村(現東京都調布市野水)の百姓・宮川久次郎の三男として生まれました。

幼名は勝五郎。

百姓と言えど、宮川家は比較的裕福な家庭でした。

勝五郎の生まれた多摩では、百姓でも剣術を学ぶ者が多く、勝五郎も幼いころから剣術に親しんでいました。

嘉永元年(1848年)

勝五郎は、江戸牛込(現東京都新宿区)にあった天然理心流の剣術道場・近藤周斎の「試衛館」に入門します。

天然理心流の木刀

勝五郎の武勇伝

この時期のことです。

父が留守にしていた勝五郎の自宅に賊が侵入してきました。

気づいた勝五郎たち兄弟。

剣術を共に学んでいた兄は、日ごろの修練の腕を試そうと、今にも賊に向かおうとします。

しかし勝五郎は

「賊は、押し入ったばかりの時は、気が張っています。ことを終えて立ち去るときの方が気が緩み、隙ができるはずですから、その時に襲うべきです」

と言って止めたのです。

賊が盗品をまとめて逃げようとしたとき、勝五郎は兄とともに襲い掛かりました。

驚いた賊が盗品を捨てて逃げ去ってしまうと、兄が後を追いかけようとします。

しかしここでも勝五郎は、

「窮鼠猫を噛むということがあります。深追いはするべきではありません」

と兄を止めました。

おかげで、誰も怪我することなく、無事だったと言います。

この話が師匠近藤周斎の耳に入ったことがきっかけかどうかはわかりませんが、その後勝五郎は、近藤周斎の養子となります。

勝五郎は、周斎の実家・嶋崎家の姓をもらって嶋崎勝太、のちに近藤勝太、そしてと改めます。

試衛館時代の近藤勇

近藤の剣は、天賦の才にも恵まれどんどんと上達します。

「試衛館」道場の跡取りとして、日々の修業を積むとともに、万延元年(1860年)には、”つね”という女性と結婚しました。

つねは、御三卿・清水徳川家の家臣・松井八十五郎の長女で、しっかりした女性だったようです。

近藤の女性論⁉

近藤は、常々このようなことを言っていたそうです。

「妻は器量が良い女性をめとるべきではない、器量が良いと日ごろの行動が派手になってしまう。それに比べ器量の悪い女性は、貞淑だ。私は貞淑な女性を妻にしたい」

今の時代なら、明らかなセクハラ、いや人格否定につながる問題発言です!

でも江戸時代の倫理観・女性観などを考えると、これも仕方のない発言だったのでしょう。

ビジュアルに自信のない私は、喜ぶべきか悲しむべきかわかりませんが。

でもでも、新選組時代の近藤勇、花街の太夫らを妾として、あちこちに囲っていますよ!

花魁 イメージ

「妻は顔じゃない、でも愛人は美人がいい」ということでしょうか。

男って、男って…!

近藤のもとに集まる若者たち

女性から見た近藤とは違い、近藤は剣術を通じた仲間には恵まれていました。

後の新選組結成メンバーである、土方歳三・沖田総司・井上源三郎・永倉新八・山南敬助・藤堂平助・原田左之助・斎藤一は、試衛館時代からの仲間です。

沖田・井上は、もともと試衛館の内弟子、土方も天然理心流の門人でしたが、あとの6人は他流です。

なのになぜか、試衛館に居座り続けています。(斎藤は、時々顔を出す程度だったらしい)つまり居候。

なぜ彼らが試衛館にいたのか。

それは、他流試合対策の1つでもあったようです。

天然理心流は、気組(気合)を重んじる実践型の剣術だったため、洗練された流派との他流試合は、若干苦手だったようです。そのため、永倉や山南らが重宝されていたという話もあります

 

でもやはり近藤勇の人柄によるところが大きいのではないでしょうか。

何事にもおおらかで優しく、いざとなると頼りになる、そして何とも言えない人を引き付ける魅力が、近藤にはあったのではないでしょうか。

でなければ、新選組隊士たちをあれだけまとめることはできなかったと思います。

すでに世情は、幕府の対外政策に対する批判や尊王攘夷思想で乱れています。

彼らも試衛館でいろいろな議論をしていたかもしれません。

 

近藤、上洛する

文久3年(1863年)1月

幕府は、清河八郎の献策を容れ、徳川家茂の上洛警護のため「浪士組」の結成を決め、浪士の募集を始めました。

試衛館でもこの情報を受けて、さっそく応募することになりました。

理由あって、江戸を離れていた斎藤一を除く試衛館メンバー8人が参加を決めました。

  • 近藤勇
  • 土方歳三
  • 沖田総司
  • 井上源三郎
  • 永倉新八
  • 山南敬助
  • 藤堂平助
  • 原田左之助

「将軍をお守りする」という名誉ある仕事に向かい、彼らは意気揚々を京の都を目指しました。

近藤勇と芹沢鴨の因縁

近藤らが参加した「浪士組」一行は、中山道を京へ向かいました。

その道中、近藤は取締付・池田徳太郎の下で、道中の宿割りの役をこなしていました。

ところが、本庄宿(現・埼玉県本庄市)で宿の手配に漏れがあったのです。

宿に入れなくなったのは、水戸浪士・芹沢鴨

芹沢は、「宿がなければ、野宿でもするか」と言わんばかりに、宿場の中で大きなかがり火(焚火)を始めたのです。

池田と近藤は、ひたすら芹沢に詫び、何とか収まったそうです。

近藤は、おそらくこの事件について何も言わなかったと思いますが、心中は穏やかではなかったと思います。

芹沢鴨という人物の豪快さ、凶暴さを心に焼き付けたのではないでしょうか。

浪士組、京へ

江戸を発ってから、2週間余りの文久3年(1863年)2月23日

浪士組は、京へ入りました。

京都 三条大橋

一行は、京の西・壬生村の郷士邸や寺社に分宿しました。

近藤ら試衛館メンバーは、八木源之丞邸に滞在することになります。

どんな経緯なのか、あの芹沢鴨が率いる一派も同宿でした。

八木邸 屯所跡

浪士組が京に着いたその夜、壬生新徳寺において、清河八郎は、浪士組結成の真の目的を論じます。

「浪士組は尊王攘夷の志をもって、朝廷に仕えることである。この旨を朝廷に建白し、攘夷を決行すべく行動するものである」

つまり、将軍警護という初めの目的は捨てて、朝廷をお助けするのだ!という風なことを、朗々と語ったのです。

京に着いたばかりの浪士は、何が何だかわからないまま、建白書に署名します。

近藤らもいったんは、署名しますが、なんだか腑に落ちない…。

八木邸に戻った近藤たちは、おそらくみんなで頭を突っつき合わせて話し合ったことでしょう。
「結局どういうことだ?」
「将軍をお守りするんじゃねえのか?」
「朝廷に建白するってことは、俺らは帝の兵になるのか?」
「じゃあ、将軍は誰が守るんだ⁉」
「待て、このことは、幕府は知ってたのか?」
「こりゃあ、裏切りじゃねえのか」
「そうだ、俺らは将軍をお守りするために京へ来たんだ!」
「あの清河って野郎、とんでもねぇ食わせ者だ!」

 

こんな話になったかどうかわかりませんが、近藤たちは、清河に従わないことを決めたのです。

清河の裏切りを知った幕府側もすぐに手を打ち、即刻江戸へ戻るように命令しました。

翌日の24日、江戸へ戻り、攘夷を決行するという清河に対し、近藤らは異議を唱えました。

近藤らは、最初の目的通り、京に残って将軍の警護をすると言ったのです。

これにより、近藤を始め24名が京に残留することになりました。

残留組の中には、なぜかあの芹沢鴨一派もいたのです。

 

壬生浪士組から新選組へ

壬生に残った近藤たちは、将軍警護とともに京の警護をすべく、京都守護職会津藩に嘆願書を提出しました。

この時期、京の町は過激な攘夷志士が幕臣や開国論者を暗殺するなど、治安が悪化していました。

そこで会津藩は、近藤らの嘆願を受け、京都の治安維持と将軍警護を目的とした部隊を結成させることにします。

同年3月2日

会津藩お預かり・壬生浪士組が結成されました。

結成メンバーは、近藤勇をはじめとする試衛館メンバーと芹沢鴨一派(新見錦・平間重助・平山五郎・野口健司)のほか、殿内義雄、根岸友山、粕谷新五郎ら24名(諸説あり)

一癖も二癖もある浪士たちが集まっていたため、隊の運営はスムーズにいきません。

隊の中心となりつつあった近藤らは、不穏な動きをしていた殿内を暗殺します。

その後、根岸・粕谷が脱退し、壬生浪士組は近藤一派と芹沢一派の二派閥の体制となり、

  • 筆頭局長・芹沢鴨
  • 局長・近藤勇
  • 局長・新見錦
  • 副長・土方歳三
  • 副長・山南敬助

このように派閥の釣り合いを取った幹部体制が決まります。

おそらく土方辺りが中心となって、隊の法度も決められます。

近藤は、試衛館道場主から、壬生浪士組の局長となりました。

八・一八の政変

徳川家茂が上洛すると、壬生浪士組は将軍警護のために大坂へ下ったり、市中の警護などもしています。

しかし壬生浪士組の隊務は、日々の市中見回りが中心でした。

彼らが京の町を見廻るようになって、攘夷志士の横行も少しずつ減ってきます。

しかし、これといった大きな手柄もありません。

近藤としては、もっと自分の働ける場所を!という思いでうずうずしていた時期だったと思います。

そんな彼に、大きな仕事がやってきます。

文久3年8月18日

過激な攘夷派の急先鋒として幕府に目をつけられていた長州藩を追放すべく、会津藩・薩摩藩などがクーデターを起こします。

京都御所から長州藩を締め出したのです。

壬生浪士組は、京都御所の御花畑門の警護を命じられました。

意気揚々と警護に向かった壬生浪士組ですが、クーデターはあっさりと成功し、彼らの出番はあまりありません。

長州勢の残党を捕まえるために出動したものの、近藤の思うような活躍はできませんでした。

しかし、この働きにより、会津藩より「新選組」という隊名を下賜されます。

農家出身の近藤が、会津藩直々に隊の名前をいただけたのです。

近藤の感激は、私たちには想像できないほどのものだったでしょう。

 

芹沢暗殺

新選組となってからしばらくたったころ、局長の芹沢鴨が近藤の命を受けた土方らに斬殺されます。

泥酔状態の芹沢はめった刺しにされ、一緒に寝ていた妾のお梅は皮一枚を残して首が落とされていました。

別の部屋では、芹沢派の平山五郎も斬殺されていました。

芹沢らの墓がある壬生寺

これより数日前には、芹沢の片腕とも言われた新見錦が、法度違反により切腹させられています。

芹沢の横暴さや京の町での乱暴狼藉は、会津藩にも伝わり、問題視されていました。

一説には、会津藩からの密命による暗殺決行だったともいわれています。

近藤にとっても、芹沢という脅威を取り除きたいという気持ちは大きかったと思います。

芹沢暗殺の翌日、大々的な隊葬で、近藤は芹沢を悼む言葉を述べていますが、途中で涙声になったそうです。
いったいどんな意味のある涙だったのでしょうか。

 

近藤とともに京に残り、新選組を作った芹沢一派は、この年の終わりには一掃され、新選組は、近藤局長・土方副長体制で走り出しました。

 

 

新選組最盛期へ

年が明け、元治元年正月

会津藩主松平容保は、陸軍総裁職・郡司総裁職となり、京都守護職には福井藩主・松平慶永が就任します。

これに伴い、新選組は、松平慶永に預けられる方向で話が動いたのですが、近藤はこれを断ります。

浪士組から離れ、まかり間違えば路頭に迷う可能性もあった近藤たちを、召し抱えてくれた会津藩に対する近藤の忠心が見えてくるような出来事です。
近藤にとって会津藩は、将軍とともに命を懸けて仕える大切な存在だったのでしょう。
新選組は、こののち最期まで会津藩と運命を共にすることになるのです。

 

結果的には、松平容保が再び京都守護職になり、新選組はこれまで通り会津藩お預かりとなっています。

もちろん近藤の意向のみで、このような移動があったわけではありません。

でも新選組局長近藤勇の存在は、幕府の中で次第に大きな存在になりつつあったのかもしれません。

元治元年5月には、2度目の上洛をしていた将軍家茂が江戸へ帰還しますが、この時も近藤は、将軍の京都在留と、攘夷決行を求めた意見書を提出しています。

この意見書の中で、近藤は、

「我々は、攘夷の先鋒となることを本来の目的としている。もし将軍が攘夷を家こうせずに江戸へ帰るのであれば、新選組の存在意義がなくなる。こんなことならいっそ解散を命じてほしい」

とまで書いています。

この時点で、近藤は強い攘夷思想を持っていたこと、日々の市中見回りという隊務には満足していなかったことがわかります。

もちろん幕閣は、新選組の解散は認めていません。

まだ新選組の力が必要だからと、近藤を諭したと伝わっています。

池田屋事件

昨年8月のクーデター以後、長州藩をはじめとする尊攘派の浪士たちは、京へ入ることはできなくなっていました。

しかし、新選組監察方は、4月ごろから不穏な動きをする浪士たちが増えてきたことに気づいていました。

徹底的な探索の結果、6月初旬には、尊攘派の大物である肥後藩脱藩浪士・宮部鼎蔵の下僕を捕縛、彼らの計画の一端を知ることができました。

そして6月5日朝

尊攘派の潜伏先と疑われた薪炭商・枡屋喜右衛門邸(四条通り小橋西ル)へ踏み込み、枡屋を捕縛します。

屯所へ連行され、尋問を受けた枡屋は、本名が古高俊太郎であること以外、頑として口を割りません。

近藤が自ら拷問、尋問をしますが、一向に白状しない古高。

尋問が土方に代わっても古高は何も話しません。

手に余った土方は、最後の手段として古高を逆さづりにして、足の甲に五寸釘を打ち、そのくぎにろうそくを立て、火をつけるという壮絶な拷問を実行しました。

これにはさすがの古高も耐え切れず、すべてを白状したのです。

「来る6月20日前後の風の強い日に御所の風上に火を放つ。混乱に乗じて中川宮を幽閉、松平容保を討ち、帝に長州へ遷っていただく」

火災の混乱の中、天皇を長州へさらっていくという、とんでもない計画だったのです。

旧前川邸の新選組屯所 この奥にある土蔵で古高の拷問が行われた

それを裏付けるように、枡屋の邸内からは大量の火薬や鉄砲などが発見されていました。

この計画に参加すべく集まってきているはずの不逞浪士たちを少しでも早く捕縛しなくてはならない。

京を火の海にしてはならない。

帝を奪われてはならない。

一刻を争う事態に、近藤は新選組の出動を決め、会津藩へ応援以来の使者を送りますした。

6月5日、祇園祭宵山の夕。
新選組隊士たちは、八坂祇園下の祇園会所へ集合した。
浪士たちに感づかれないように、宵山見学をするかのような風情で会所へやってくる隊士たち。
中では、戦支度を終えた近藤・土方ら幹部が厳しい表情で座っている。
隊士たちはそれぞれ支度を終え、会津藩からの連絡を待った。
会津藩との約束の時刻になっても連絡はない。
じりじりと時間が過ぎてゆく。
近藤は立ち上がった。
我々だけで出動する。
悲壮なまでの覚悟が近藤の面に見えた。
「トシ、俺たちだけでやろう」
土方は、不敵に笑う。
「近藤さん、やるか」

祇園会所から、そろいの隊服を着た新選組隊士が三隊に分かれて出動します。

  • 近藤隊:近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助ら10名
  • 土方隊:原田左之助・斎藤一ら20数名
  • 井上隊:井上源三郎ら数名(連絡係を兼ねる)

浪士たちが潜伏もしくは会合をする場所を探索しつつ捕縛に当たるという難しい出動でした。

近藤隊が池田屋に至ったのは午後10時ごろでした。

近藤を先頭に、沖田・永倉・藤堂が邸内へ、残りは周囲を固めます。

「御用改めである」
応対に出た池田屋惣兵衛が、慌てて2階へ声をかけた。
惣兵衛を張り飛ばし、抜刀した近藤は正面の階段を駆け上がる。
声に気づいた吉田稔麿が部屋から出てきた。
「!」
近藤は、斬り上げた。
階段を転げ落ちた吉田は、すでに絶命していた。
近藤に続き、沖田も2階へ。
永倉・藤堂は階下で浪士たちを迎え討つ。
池田屋の激闘が始まった。

近藤隊に遅れること約1時間。

土方隊と井上隊が池田屋に到着しました。

応援が来たのは、それより後。

池田屋は新選組の独壇場となりました。

これの事件により、新選組の名は一躍有名になりました。

新選組は、のちに朝廷と幕府から池田屋事件の働きに対する感状と褒賞金を賜っています。

それだけでなく幕府からは内々に幕臣への取り立ての打診があったのです。

近藤は五百石の幕臣、以下土方らもそれぞれに取り立てるという話を、近藤は断っています。

「今の与えられた役目の中で、将軍・幕府に貢献したい。身分や出世などは眼中にない」からと…。

何と欲のない、誠のある男かと思ってしまいますが、数年後に再び幕臣取り立ての話が出たときは、近藤は受けています。

もしかしたら「たかだか五百石くらいの幕臣なんて目指していない、俺はもっと価値のある男だ!」と考えていたのかもしれません。

禁門の変

池田屋事件の一報が伝わった長州藩は、多くの同志が誅殺されたことに憤慨します。

前年の八・一八の政変で失脚した藩主毛利敬親(たちちか)らの赦免要求のために上京の準備をしていた長州藩は、急いで第一陣を京に向かわせます。

以後、続々と京に上ってくる長州兵、総数二千人以上という軍勢です。

幕府と朝廷を威嚇して、ことを有利に運ぼうとするための作戦でした。

元治元年6月25日

山崎天王山には、久坂玄瑞(くさかげんずい)・真木和泉の率いる軍勢、伏見には福原越後率いる軍が、そして嵯峨天龍寺、八幡などにそれぞれ布陣します。

真木和泉の像

新選組は、会津藩とともに竹田街道銭取橋付近に布陣、これを迎え撃つ準備をしていました。

長州藩と幕府軍のにらみ合いが続きます。

そのまま約半月、嘆願が聞き入られない長州藩は、とうとう武力行使に打って出ます。

7月19日未明

伏見の福原越後軍が進撃を開始、ほかの軍も御所を目指して進撃を始めます。

伏見を守っていた新選組は、福原軍と交戦していた大垣藩の応援に駆け付け、その後は、最大の激戦地となった御所へ向かいます。

蛤御門

しかし、御所に攻め入ろうとしていた長州藩は、最新鋭の武器を持つ薩摩藩の攻撃を受け、ほぼ全滅してしまいます。

新選組が到着したときは、すでに事態の決着はつきかけていました。

池田屋での奮闘以上の働きを目指していた近藤には、やや物足りない戦いだったかもしれません。

新選組は、敗走する長州軍追悼のため、会津藩兵とともに伏見に向かいました。

7月21日

新選組・会津兵らは、山崎に立てこもった真木和泉の兵を追い詰めます。

天王山を上る新選組。
この時山頂から金の烏帽子をかぶった真木和泉が采配を手に現われた。
「討ち手は、いずれの藩の方か。名乗ったうえで戦おうではないか。それがしは長州藩士・真木和泉である」
「それがしは会津藩神保内蔵助」
「それがしは近藤勇」
真木和泉は、朗々とした声で詩を吟じてから、鬨の声を上げた。
「エイ、エイ、オー」
同時に一斉に鉄砲を撃ちかけてくる。
新選組・会津藩士は、一気に攻め立てる。
両者の激闘が続く中、突然真木和泉が命じた。
「引けぃ!」
彼らは一斉に陣小屋へ駆け込んだかと思うと、陣小屋から火が出た。
彼らは、火中で見事に切腹して果てていた。
「敵ながら、なんという勇敢な死に様であろう」
近藤は、隊士たちに命じ、彼らを丁重に葬った。

真木和泉らの死に様は、近藤にとって一つの理想でもあったようです。

武士たるもの、最期は潔く死ぬべきだ

武士というものにあこがれ、自らも武士たる生き方を目指した近藤の、武士真木和泉らへの最高の敬意を示したのです。

新選組絶頂期

池田屋事件、禁門の変と続けて活躍をする新選組は、どんどんと有名になり、その局長・近藤勇は、幕閣とも交わるようになっていきます。

近藤自身も、ひとかどの論客になったかの如くふるまうことも増えました。

近藤、天狗になる?

試衛館からの仲間だった永倉や原田は、剣の修業にひたむきで、実直な近藤が次第に横柄でわがままになっていく様子に不満がたまっていきます。

近藤の態度に我慢ならなくなった永倉たちは、会津藩主に建白書を出しました。

建白書には、近藤の非行五か条を上げ、

「その五か条のうち1つでも近藤が申し開きするのなら、我々6名は速やかに切腹する。もし近藤が申し開きできないというなら、速やかに近藤に切腹を命令していただきたい

という旨が書かれています。

建白したのは、永倉新八以下原田左之助・斎藤一・島田魁・尾関政一郎・葛山武八郎です。

会津藩主松平容保は、すぐに6名を呼び、直々に説得しました。

新選組内での不和、ましてや局長ら幹部の切腹騒ぎともなると、新選組を預かっている形の会津藩にまで迷惑がかかると思いいたった永倉たちは、建白書を取り下げました。

容保は、この場に近藤も呼ぶと、内々に隊士たちの不満を伝え、近藤自身の態度も少し考えるように説きます。

会津藩主 松平容保

藩主直々の言葉に、近藤は驚いたことでしょう。

永倉たちに対して怒りも感じたかもしれません。

しかし、この時点では、一応丸く(?)収まりました。

近藤、帰郷する

新選組の活動は、どんどんと広がり、隊士不足を感じた近藤は、隊士募集のために江戸へ下向します。

文久3年2月に江戸を発ってから、初めての帰郷でした。

近藤は、江戸で伊東甲子太郎(いとうかしたろう)に会います。

伊東甲子太郎は、先発していた藤堂平助の恩師です。

伊東甲子太郎肖像画

文武両道で、論も立つ伊東を、近藤は新選組に必要だと考えていました。

剣術とともに、学問も日々励んでいる近藤でしたが、一流の論客とはなれません。

すでに幕閣との交流も増えていた近藤にとって、自分の”頭脳”となる参謀が欲しかったのです。

伊東は、自らの弟子たちとともに新選組に入隊することになりました。

山南敬助の脱走

元治2年2月

試衛館以来の仲間である山南敬助が隊を脱走します。

土方歳三との軋轢や、屯所の西本願寺移転反対の意見が無視されたためなど理由はいろいろ考えられています。

もともと尊王攘夷の思想を持っていた山南は、池田屋事件以降の、攘夷志士を目の敵にするような新選組のやり方に違和感を覚えていたのかもしれません。

また、永倉たちが見ていた近藤の、わがまま・偉そうにも見える態度に、山南も失望していたのかもしれません。

山南の脱走を知った近藤は、沖田総司に追わせ、翌日には山南が屯所に連行されます。

近藤は、掟に従い山南に切腹を申し渡しました。

山南敬助が切腹した部屋は、このあたりにあった

2月23日、奇しくも2年前、彼らが京へ入ったと同じ日に、試衛館でともに論じ、剣を交えた一人が欠けてしまったことに、近藤は何を感じていたのでしょうか。

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近藤、広島へ

慶応元年(1865年)9月

幕府は、長州の息の根を止めるために、昨年禁門の変後の第1次長州征伐に引き続き第2次長州征伐を決行する計画でした。

幕府は大目付・永井尚志(ながいなおゆき)を長州訊問使として、長州との会見場とした広島へ向かわせることを決めます。

近藤は、会津藩を通じて、訊問使への同行を願い出ます。

11月7日

近藤は、伊東甲子太郎・武田観柳斎ら隊士8名とともに京を発ち、16日に広島に到着しました。

訊問使の永井は、近藤を自分の家臣として、長州藩との面会に立ち会わせようとしますが、拒否されます。

近藤がやっと長州藩士と面会できたのは、23日でした。

近藤は、長州入りを要請しますが、拒否され、以後何度か要請しますが、すべて拒否。

結局長州入りは断念して、12月22日には京へ帰ってきました。

この広島行きは、近藤にとって命がけの随行でした。

敵の真っただ中で、もし新選組局長だとばれれば、殺されかねないような状況です。

近藤自身もある程度の覚悟はしていたようで、多摩の佐藤彦五郎(土方の義兄)にあてた手紙の中に、天然理心流の後継者を沖田総司にすると書かれていたそうです

また、もし自分に何かあったときは、新選組を土方に託すという言葉も残していたと言います。

それだけの覚悟をして、動いた割には、あまり良い成果が出せなかった、近藤はこのことを残念に思っていたことでしょう。

近藤は、この広島行きからわずか2ヶ月後の慶応3年2月初め、再び幕府の広島派遣に随行しています。

しかし今回も長州側との接触はできませんでした。

伊東甲子太郎の分離

新選組はこの時期、隊内が伊東派と近藤派に分かれつつありました。

表面上は、局長近藤と副長土方が統率している新選組です。

しかし、土方の隊士に対する厳しい態度に恐れていた隊士は、伊東の穏やかな人柄と豊かな知識に傾倒していったのです。

伊東の人気は、今や近藤をもしのぐほどになっていました。

おそらく自分の頭脳として入隊させたであろう近藤の思惑は、すっかりはずれてしまいました。

慶応2年9月

伊東は、近藤の妾宅を訪れ、時局を論じています。

伊東は、勤皇論を説き、近藤は幕府の今後を憂う、平行線の議論で終わり、近藤は伊東脱退の疑念を持つようになります。

翌慶応3年(1867年)1月18日

伊東は、隊士数人を連れて九州遊説に赴きます。

便宜上は、九州や長州の探索ということになっていたのでしょうが、これは伊東が新選組から離れるための準備行動でした。

近藤側も十分承知していたようで、このころから土方は斎藤一をスパイとして伊東派に近づけていたようです。

伊東らは、3月中旬に帰京すると、すぐ近藤に新選組からの分離を申し出ます

脱退ではなく、別働隊として行動するための分離です、名ばかりですが。

近藤は、これを了承します。

伊東は、昨年末に亡くなった孝明天皇の御陵を守る衛士(御陵衛士):高台寺党を結成しました。

近藤、幕臣になる

慶応3年6月10日

新選組は、会津藩お預りから、幕臣となります。

近藤は、御目見え以上の格がある旗本になりました。

これで近藤は、幕府代表者として堂々と幕府に意見が言えるのです。

百姓の子が幕臣、それも御目見え以上の幕臣になった、近藤はまさに夢の絶頂に立ったような気分だったでしょう。

〈御目見え〉
直接将軍に拝謁できる身分
近藤は、幕府親藩の前で演説をしたり、長州征伐に関する建白書を提出したり、精力的に活動をしていきました。

大政奉還

慶応3年10月14日

第15代将軍徳川慶喜は、大政奉還(徳川家が政権を天皇にお返しすること)をします。

大政奉還の舞台となった二条城

これ以前、薩長同盟により、薩摩と長州が手を組み、密かに討幕を計画していました。

幕府側もこれに対抗すべく様々に動いていましたが、公家の岩倉具視らにより、討幕の密勅まで下ったと知り、徳川を守るために慶喜が決断したのです。

幕臣になったばかりの近藤の胸中やいかに。

伊東暗殺

11月初め

御陵衛士に入り込んでいた斎藤一から、彼らが近藤の暗殺を計画しているという報告が入ります。

近藤は激怒し、すぐさま御陵衛士をつぶそうと考えます。

しかし、それでは新選組の内部抗争があまりにも騒ぎが大きくなりすぎます。

近藤が選んだ方法は、暗殺でした。

11月18日

近藤は、伊東から頼まれていた御陵衛士の活動資金を渡すためという名目で伊東を妾宅に呼びます。

その場には、土方もいましたが、終始穏やかです。

酒の進んだ伊東は上機嫌で持論を説きます。

ほろ酔いで帰路についた伊東は、油小路六条付近で待ち伏せしていた新選組隊士に殺害されました。

更に伊東の遺体を取り返しに来た御陵衛士たちも襲撃、殺害しました。

御陵衛士に移っていた藤堂平助も、この時亡くなっています。

近藤は、永倉に藤堂だけは助けるように命じていたとも言われています。

しかし、また試衛館の仲間が一人、いなくなりました。

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新選組 滅びの道

慶応3年(1867年)12月9日

王政復古の大号令が発せられました。

徳川幕府は完全になくなり、天皇のもとで新たな政府が作られることになりました。

京にあった旧幕府勢は撤退を命じられます。

新選組は、京を離れ、伏見に陣を置きます。

12月18日

軍議のため二条城に出向いていた近藤は、伏見へ帰る途中の墨染辺り(京都市伏見区墨染)で銃撃されました。

襲ったのは、御陵衛士の残党でした。

右肩を撃たれた近藤は、かろうじて逃れ、伏見の陣へ戻ってきます。

近藤の傷は肩の骨まで達する重傷だったため、労咳が進んでいた沖田とともに大坂城へ移送されました。

鳥羽伏見の戦い

慶応4年(1868年)1月3日

旧幕府軍と新政府軍が衝突、鳥羽伏見の戦いが始まりました。

近藤のいない新選組は、土方が指揮を執る中、激戦を繰り広げました。

しかし、徐々に戦況は不利に。

そして新政府軍に錦の御旗が立つと、諸藩は雪崩を打つように新政府軍に寝返ったのです。

満身創痍で大坂城まで引き上げてきた新選組を迎えた近藤に知らされたのは、井上源三郎の死でした。

また仲間がいなくなった。

近藤、江戸へ戻る

大坂城で新政府軍を迎え討つ!

そう覚悟していた旧幕臣たちを残したまま、江戸へ帰ってしまった徳川慶喜。

彼には彼の考え方があったのでしょうが、残された者たちはどんなに落胆したことでしょう。

命を懸けて将軍を守ろうとしていた近藤は、何を思っていたのでしょうか。

新選組は、大阪湾に残っていた幕府の軍艦で江戸へ戻りました。

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近藤、負ける

慶応4年2月末

近藤は、幕府から甲州の守りを命じられます。

近藤は「大久保剛」という変名を使い、新選組は「甲陽鎮撫隊」と改名されます。

甲州へ向かう途中、彼らの故郷・日野に立ち寄ったときには、近藤はまるで大名のようだとみんなが驚いたそうです。

故郷に錦を飾った近藤でしたが、甲州の戦いでは新政府軍にほとんど歯が立たず、敗走してしまいました。

近藤にとって初めての負け戦でした。

仲間との別れ

江戸に引き上げた近藤たちは、今後の計画について話し合います。

会津へ向かって戦おうという永倉・原田に対し、近藤は「自分の家臣になって働くなら」という条件を持ち出したのです。

「俺は、貴様の家臣になるつもりなどない」

永倉と原田は、去ってゆきました。

試衛館で切磋琢磨し、新選組でともに戦った仲間がまたいなくなりました。

近藤勇の最期

近藤は名を「大久保大和」と改め、土方とともに再び兵を集めます。

下総流山(千葉県流山市)に陣を置いた彼らは、会津へ向かうべく、連日軍事訓練をしていました。

慶応4年(1868年)4月3日

突然、新政府軍が、陣を包囲しました。

この時は軍事訓練のため、兵のほとんどが出払っており、陣にいたのは、近藤・土方ほか数名だったそうです。

「もはやこれまで。トシ、介錯を頼む」
土方は、あきらめなかった。
「ここは近藤さんの死に場所じゃねえ」
土方の説得を受け入れた近藤は、「大久保大和」として新政府軍に出頭した。
「俺が必ず助けてやる。待っててくれ」

 

しかし、捕縛された近藤を待っていたのは、御陵衛士の生き残り・加納鷲雄たちでした。

新選組局長・近藤勇という身分が知られた瞬間も近藤は、取り乱すことはありませんでした。

4月25日

新選組局長近藤勇は、板橋刑場で斬首。

その首は、三条河原に晒された後、行方不明になりました。

享年35歳。

近藤斬首の報を聞いた土方は、どれほど悔やんだことでしょう。

「あの時、切腹させてやればよかった」

その後の土方の戦いは、すべて近藤の弔い合戦だったのかもしれません。

試衛館の仲間、沖田総司は近藤が斬首された2ヶ月後の5月30日に病死。

土方歳三は、翌明治2年5月11日に戦死しました。

 

龍源寺にある近藤勇の墓

近藤勇が登場する作品

今回は、とんでもなく長い記事になってしまいました。

最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。

では、いつものようにおすすめの作品を紹介しますね。

近藤勇白書  池波正太郎

近藤勇と言ったら、この本は外せません。

近藤勇を中心とした新選組の歴史がわかりやすく描かれています。

土方以下の隊士たちのキャラクターも興味深くて、どんどん読み進められる本です。

池波ワールドの新選組はとても魅力的ですよ。

 

近藤勇  秋山香乃

私の好きな作家さんに一人、秋山香乃さんの本です。

土方や藤堂、沖田を主人公にした秋山さんの作品と比べて、骨太な小説になっています。

読み比べていただけると面白いですよ。

 

新選組血風録  司馬遼太郎

土方歳三が主人公の小説「燃えよ剣」とは違って、新選組の隊士たちのエピソードが短編形式で描かれています。

何度読んでも面白い本ですが、今回は近藤に注目して読んでみるというのがおすすめです。

 

新選組と日本刀  宮内露風 MBビジネス研究班

近藤勇・土方歳三・沖田総司・永倉新八・斎藤一の愛刀とエピソードを紹介している本です。

近藤勇の長曽祢虎徹は、本物だったのか?

日本刀に興味のある方にもおすすめの一冊です。

 

 

 

 

 


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