「魁先生」と呼ばれた新選組藤堂平助 真っすぐに生き急いだ生涯を見る 

新選組新選組

新選組八番隊長として、新選組四天王として、また非常な美男子として知られる藤堂平助。

藤堂平助は、新選組局長近藤勇をはじめ、新選組の中心メンバーとは、江戸試衛館以来の仲間でした。

しかし、その最期は試衛館の仲間たちに討たれるという悲劇で終わります。

なぜそんなことになったのでしょうか。

試衛館時代、新選組結成時、そして新選組との決別の中で藤堂平助は、何を思い生きていたのか。

藤堂平助の生きざまを一緒に見ていきましょう。

大名の御落胤⁉藤堂平助誕生

天保15年(1844年) 藤堂平助は府内(江戸)で誕生しました。

正式な名前は、藤堂平助宣虎(よしとら・のぶとら)

出自には諸説ありますが、永倉新八が残した書やほかの記述によると伊勢の津藩藩主藤堂高猷(たかゆき)の落胤だったという説が一番有名です。

一介の浪人でしかなかった藤堂平助の愛刀が名刀「上総介兼重」だったことも、御落胤説を裏付ける1つの証拠となっているようです。

日本刀

平助 剣術を始める

平助は、10歳ごろから剣術を習っています。

通っていたのは、江戸4大流派の1つ北辰一刀流の開祖千葉周作の道場『玄武館』

16歳ごろには、中目録免許(一人前として認められる)をもらいました。

その後玄武館を出て、自宅近くにあった北辰一刀流の道場に通うようになります。

そこは、のちの新選組幹部となる伊東甲子太郎の道場だったのです。

それからしばらくして平助は、近藤勇の試衛館道場に入門しました。

試衛館での平助

試衛館へ入門した経緯ははっきりとわかりません。

剣の修行のためにいろいろな道場へ行くなかで、たまたま入った試衛館で土方歳三と沖田総司の稽古に何かを感じ入門したという話もあります。

とにかく、平助は試衛館の門人となり、代稽古なども任されるほどになっていきました。

試衛館には、のちの新選組幹部となる仲間がいました。

近藤勇・土方歳三・沖田総司・井上源三郎・永倉新八・原田左之助・山南敬助そして時々顔を出していたのが斎藤一

平助は、この仲間たちと同じ釜の飯を食べ、稽古をし、論じ、遊び、時にはけんかもしていたのでしょうか。

侍

試衛館時代の平助を知る手掛かりは、ほとんどありません。

そこで、少し長いですが、私の好きな小説の中にいる藤堂平助を少し紹介します。

昼間出て行った藤堂が、一刻ほどで帰ってきて、それから道場にも顔を出さずに、部屋で本を読んでいる。
試衛館の仲間たちにとって、これは事件だった。
「平助、お前、熱でもあるんじゃないのか」
稽古を終えて道場から戻ってきた原田が、からかうように言うと
「土方さん、粕谷先生を呼んだほうがいい」と(中略)永倉が(中略)土方を振り返る。土方はわざとらしく心配そうな様子で、藤堂の額に手をやり、
「熱はないようだが…」
と大袈裟にくびをひねった。
「もう、うるさいなあ。人が勉強してるのに。邪魔しないでくださいよ」
藤堂は、土方の手を振り払い、
「山南さん、何とかいってくださいよ」
(中略)楽しそうに微笑みながら様子を見ている山南に訴えた。

「新選組 試衛館の青春」 松本匡代 より

攘夷だ尊王だの難しい話を理解しようと本を読んでいる平助を年上の彼らがからかうひとときです。

まだ強い思想や使命を持つ前の彼らは、こんな風に日々を過ごしていたのかもしれません。

いざ、京へ!

文久3年(1863年)2月

平助は、試衛館の仲間たちとともに浪士組に参加します。

浪士組とは、清河八郎が幕府に働きかけ、京へ上る将軍徳川家茂の警護をするという名目で浪人たちを募ったものです。

しかし実際は、天皇のもとで尊王攘夷のさきがけとなるための集団を作るための清河の策略でした。

2月23日に浪士組が京へ到着すると、すぐに清河は自身の計画を実行させようとしました。

このまま浪士組を京にいさせるのは、危険と判断した幕府は、浪士組を江戸へ戻すことに。

しかし、近藤たち試衛館の面々は、それに反発。

将軍警護のお役目を全うするとして、京へ残りました

同じように京に残留した者が、水戸浪士の芹沢鴨一派などです。

彼らは、京都守護職会津藩へ嘆願書を提出し、ここに後の新選組となる壬生浪士組が結成されることとなります。

新選組 八木邸

新選組屯所跡 八木邸

会津藩お預かりとなってしばらく後、壬生浪士組は、会津藩邸で会津藩主松平容保御前試合を行っています。
一番手で試合をしたのが、平助と土方歳三でした。
勝敗は記録に残っていませんが、小柄な美少年と艶と野性味を持ち合わせた美丈夫が剣を交わす姿、さぞ絵になったことでしょう。
見たかった!

平助 新選組幹部となる

壬生浪士組のメンバーは、

藤堂平助以下近藤勇・土方歳三・沖田総司・井上源三郎・山南敬助・永倉新八・原田左之助・斎藤一(少し遅れて参加)・芹沢鴨・新見錦・平間重助・平山五郎・野口健司ほか総勢24名でした。

このほとんどが新選組の幹部となります。

平助は、斎藤一と並んで最年少の幹部(副長助勤)になりました。

藤堂平助・沖田総司・永倉新八・斎藤一は「新選組四天王」と言われています

平助、重傷を負う

元治元年(1864年)6月5日

世に言う「池田屋事件」勃発です。

平助は、近藤勇・沖田総司・永倉新八らとともに三条木屋町周辺を捜索、三条小橋の池田屋で会合している浪士たちを見つけます。

池田屋の2階に集まっている浪士は、20~30名。

近藤率いる新選組探索隊は10名ほど、逃げ道を防ぐ者を配置すると、屋内に入るのは、近藤・沖田・永倉・藤堂らわずか4名です。

近藤と沖田が2階に、永倉と平助は1階で2階から逃げてくる浪士を待ち受けます。

人数で劣る新選組でしたが、新選組四天王の3人がいる精鋭です。

その上屋内で灯りも少ないと味方が少ない方が、かえって攻めやすいことも功を奏しました。

愛刀の上総介兼重で、過激浪士たちに応戦していた平助ですが、流れてくる汗を拭こうと鉢金(頭への攻撃から守るために鉄板が入っているハチマキのようなもの)を外した時、物陰から飛び出してきた敵に額を斬られてしまいます

平助は昏倒し、永倉に支えられるように屋内に出されたということです。

このころには、四条方面を探索していた土方率いる別動隊が到着し、浪士たちを次々に捕縛し始めていました。

池田屋 新選組

平助は重傷で一時は生死をさまようような状態になりましたが、幸い回復し、名誉の負傷が美男の額に残っただけとなりました。

この事件により、平助は会津藩より二十両の褒賞金を下賜されています。

伊東甲子太郎との再会

池田屋事件から5か月ほど後に、新選組は大規模な隊士募集を行っています。

初めの隊士募集の際には西国出身者も多くいましたが、中には間者(スパイ)も混ざっていたこともあり、近藤は「武士は東国にかぎる」といい、これ以後の隊士募集は江戸で行うようになりました。

平助は、近藤の江戸下向に先立ち、江戸へ行くと、伊東甲子太郎のもとを訪ねます

伊東に新選組への入隊を勧めるためです。

永倉新八の「新撰組顛末記」によると、平助はこの時「新選組はいずれ伊東を長とした尊王攘夷の集団にしたい」「近藤たちはいずれ始末しなければならない」と話したと書かれています。

永倉が、実際に伊東と平助のやり取りを聞いていたわけではありませんが、このころの平助は、近藤・土方が指揮する新選組の行動に疑問を持っていたようです。

「もともと新選組は、尊王攘夷の思想をもって結成されていたはずなのに、今では尊王攘夷の実行を目指している浪士たちを斬り、捕縛している」

「これでは、幕府の命令に従うだけのただの人斬り集団ではないか」

その上、平助が江戸にいる間に、試衛館以来の仲間であった山南敬助が新選組を脱走し、切腹しています。

前川邸

山南は屯所前川邸で切腹した

土方の隊士への厳しすぎる粛清にも平助は、嫌気がさしました。

知識が豊かで温厚な山南を平助は尊敬していました。
その上同じ北辰一刀流です。
今では想像しにくいですが、剣の流派が同じということは、場合によっては何よりも強いつながりを感じるものだったようです。
思想の面でも同じ考え方になりやすく、仲間意識も強いと言われています。
平助の師匠にあたる伊東ももちろん北辰一刀流。
天然理心流が率いていた新選組は思想的にも平助の思っていた道から外れていったために、平助はそれを正そうとしていただけなのかもしれません。
試衛館の日々を平助はどんな思いで振り返っていたのでしょうか。

伊東を新選組へ入隊させていこう、平助はどんどん試衛館の仲間たちから離れていきました。


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